第二十六章 天使と悪魔 (3)
「あの女子を前へ!」
輝弘の言葉を遮って、ふたたび、市川局が大音声で命じました。
「さきに捕らえし、あの細作をば、前に出せい!」
背後を振り返り、手にした薙刀を、荒々しくがつんと床に突きました。
櫓の後方に控えていた者が二名、気を失っているおたきの両肩を押さえ、引き摺るように前の方へと運んで参りました。
「それでは、大内殿の眼に触れぬわ!立たせよ!」
局は命じ、慌てた両名は、おたきの肩を掴んで、その場に立たせました。おたきの頭は、まだがくっと前に垂れ、首が左右にぶらぶらと揺れております。
「大内輝弘殿に、問うことあり。」
局は言い、輝弘を睨みました。
「これなるは、我が市川家に入り込みし、貴軍よりの細作。先ほど、妾を襲いて虜となれり!これは、如何なることじゃ?口では当たりの良いことのみを言い、裏では斯様に下劣な策を弄する・・・氷上殿。これは、如何なることじゃ?妾に、弁明せい!」
そう言って、薙刀の先の刃で、おたきの首をぐいと上のほうに上げました。眼を瞑り、気を失ったおたきの顔が、あらわになりました。束ね髪がそのまま顔の前に垂れ、半分開いた口に少し掛かっております。肌色は蒼白で、まるで死人の貌のようでございました。
大内輝弘は、おたきの顔を見て、愕然としました。
そして、思わず、口をついてこのような言葉が、出たのです。
「なんと・・・来ておったのか、なんということじゃ。」
市川局は、ふんと嘲笑って、輝弘に言いました。
「どうやら、馴染みの女子のようだのう・・・そこには、また別腹なるお子が。お主には、どうやらあちこちに、馴染みの女子が居るようじゃの。」
「違う!これは、違う!」
「なにが、違う?これなる女子は、先ほど、明らかなる害意を以て妾を襲ったぞ。左座が止めなば、妾は、この細作の刀の錆となっておったわ。そして、そのすぐあと、お主が現れた。しかも、互いに馴染みではないか!なにか、弁ずることができるか?」
「違う、違うのじゃ、かな!聞け、落ち着いて、聞け!」
「かな、など、何処にも居らぬ!」
局は叫び、激情にかられるまま、怖ろしいことを左座に命じたのでございます。
「ざざ!この細作の頸を打て!疾く、打て!」
「なんと!」
あまりのことに、左座も驚き、思わず聞き返しました。
「なんと申された?女子の頸を打てと?拙者に?」
「聞こえぬか?そう命じたのじゃ!妾が、この城を預かる将が、臣下たるお主にそう命じたのじゃ!くだくだ言い逃れるでない!我が命じゃ、打て!」
ぎろりと左座を睨み、そう言い渡しました。
「お言葉ながら、それは余りにも・・・余りにもご無体な。主命とはいえ、拙者、すぐと承服しかねる!」
左座は、はっきりとそう抗弁しました。
城主の暗殺を図った細作を罰するに、命を取るのは当たり前のこと。されどそれは、しかるべき詮議の上、後日、刑場でひっそりと行われるべきものでございます。
女子の頸を、衆目のあるなか、その場で刎ねるような残忍な仕打ちは、誇りある武士のなすべきことではございません。左座は、女子の頸を打つはおろか、まだ女子の命を奪ったことすらございませぬ。それを、市川局は、いますぐに行なえというのです。
「できぬと申すか!妾の命に、従えぬと申すか!」
「命に背く積りはござらぬ。ただ、遣り方穏当ならず、御考直し願う!」
「ええい、その頸が、要るのじゃ!退けっ!」
あいだに立っていた武士を薙刀で荒々しく押しのけると、大股におたきのほうへやって参りました。おたきの頸は左右に揺れ、口の端から細く涎が垂れ、眼は薄く開いて少し意識が戻ってきているように見えました。
市川局は、その、だらりとしたおたきの頭に手をやると、女子とは思えぬ恐るべき膂力でぐいと上へ引っ張り上げました。両肩は、二名の兵が必死で押さえております。局の左手は、おたきの長く伸びた束髪の根本をむんずと掴んでおりました。そのまま強く上に引っ張ることで、おたきの頸は長く伸び、うなじが晒されて、いつでも刀の刃で打てる様子になりました。
そうしておいて、局は、なおも左座に命じました。
「左座打て!疾く打て!細作の頸じゃ、情けなど掛けるな!それとも、よもやお主、腰が抜けたか!」