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高嶺の花  完全版  作者: 早川隆
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第二十六章  天使と悪魔 (1)

市川局と、大内輝弘。


かつての、かな様と氷上太郎は、十二年の時を隔て、ふたたび、この懐かしい鴻ノ峰にて向かい合っておりました。


ひとりは馬上から。いまひとりは、櫓門の上の高みから。しかし、ここは戦場(いくさば)。かつてこの場所で、何も隠さず、ただ生まれたままの姿で抱き合い、口を吸い合い、腕を絡めて睦み合った両者は、いま、互いに(あい)まみえる敵と味方の大将同士なのです。


いや、一方の正式の大将は別におりますが、その者こそがまさに、両者のそんな営みにて成された、一粒種の息子なのです。まったく、天はなんという気まぐれな、なんという意地悪な悪戯をしかけるのでございましょうか。




お互い、十二年もの月日を隔て、容貌は変化し、それぞれの立場も代わっております。日々負わねばならぬ責任や、守るべきものを持ったが故の心境の変化もございます。そしてなにより、二人は、現在対峙している二つの勢力を、それぞれ()べる身です。


しかし、それでも、わずか数間のあいだで向かい合った二人は、あの二人でした。満月の夜、この場で差し向かいに舞い、愛し合ったあの二人でありました。かな様は氷上を、氷上はかな様を、それぞれ、その瞳に映しました。そして、お互いの心は、あの時のままに・・・しばし、あの満月の夜に還っていたのでございます。




ふたりは、しばらく、物を言わず向かい合っておりました。


氷上は、この鴻ノ峰に戻って参りました。そしていま、目の前の櫓門上に、手を伸ばせばすぐと届く場所に咲く、あの美しい、(あお)い花を見上げておりました。長年のあいだ想い焦がれ、ふたたび手に入れたいと願い続けていた、あの愛しき花。その花に手を伸ばし、それを掴み、またあの幸せを手に入れることができる。氷上は、まさに彼の人生の(きわみ)に立っていたといってよいでしょう。


氷上は、過去に生き、過去に恋焦がれておりました。かつてのかな(・・)様を見つめ、手を差し伸べ、そして、昔のように優しく抱きとめようと思ったのです。彼は、そうしました。この陥落必至の裸城(はだかじろ)に、吹けば飛ぶような小勢を率いて立籠(たてこも)るかな様に手を差し伸べ、そして、共に籠もる我が子とともに、優しく迎え入れようと思ったのです。


ところが、目の前、手を伸ばせば届きそうなところに立っている女子(おなご)は、かな様ではございませんでした。あの勇ましい、宮庄(みやのしょう)の聞かん気の姫ですらございません。全く違う女子でした。別の男とのあいだに二人の子をなし、姫ではなく局として、ひとつの家族を、武門を、町を守る母でありました。


目の前に居るのは、かな様ではございませんでした。それとは、別の女子だったのでございます。そして、この女子は、過去にではなく、現在に生きておりました。




彼女は言いました。

(わらわ)の名は、市川局(いちかわのつぼね)。かな、などという者は知らぬ。」


冷たい眼で、かつて氷上太郎だった男を(にら)み、そして、こうも言いました。

「夫の留守中、この城を預かり、そして山口の町の安寧を保つ責を負う者。その安寧を乱す敵の将が、のこのこやって参って、一体、なんの用か。」


ゆっくりと、問いました。そこに立っていた者どもを、敵味方問わずに(すく)ませるような、腹の底から発する低い声でした。


大内輝弘を背に載せた馬がいななき、二、三歩うしろに下がりました。輝弘は、手綱(たづな)を慌てて握り直し、馬の首に手を当てて、これを落ち着かせました。そうやって態勢を何とか立て直すと、ふたたび、高みに咲く蒼い花を、いや、今まで彼がそうと信じていた幻のほうを見上げました。


そこにはただ、薙刀を手に、すっくと立つ女丈夫の姿があるばかりです。燃えるような眼でこちらを睨み、射抜くように見下ろす視線が、あるばかりです。


落ち着かせた馬が、また、後ろに蹌踉(よろ)めきました。輝弘は、気づきました。これは、馬が蹌踉めいているのではない。自分の脚が竦み、馬の胴を(くら)の両側から強く挟み込んでいたのです。馬は、その異常を感知し、なにごとかと動揺しているのでございました。


輝弘は、また見上げました。


自分が、今の今まで、心のうちに咲かせていたあの蒼い花を。花だと信じていた、あの女丈夫の姿を。


輝弘は、いますべてを悟りました。

自分は、長年のあいだ、ただ幻を追い続けていただけだったのだと。

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