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高嶺の花  完全版  作者: 早川隆
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第二十四章  鉛の壁 (5)

市川局は、まるで山野から町に彷徨(さまよ)い出てきた狼のような眼で、左座を睨みました。そして、すぐそれをかなたの大軍勢へと戻し、しばしなにか思案しているようでありました。元教様は、そんな母の様子を、ただ固唾をのんで眺めております。下知するのが誰か、そのときは自明のことでございました。


恵心和尚は、まるで仏に(すが)るかのような表情で、白い睫毛の伸びた目を、しばたたかせておりました。勇敢に、巧妙に戦った城兵たちも、ただ凝っと、局の発する次なる言葉を待ちます。彼らはそれぞれ、この凄まじい一日のことを思い返し、自分たちの、これまでの生涯のことを、残してきた家族や、愛しい人のことなどを想いました。




おたきは、楼の後ろに控えてこのさまを見ておりました。そして、思い出しておりました。これまでの、自分の幸薄き生涯を。


戦場となった筑前で生まれ、幼き頃より周囲で人死が相次ぎ、遂には自分の父親までも行方がわからなくなくなったこと。育った村は、打ち続く苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)と略奪とでほぼ村の体をなさなくなり、糧を求め、母と幼き姉弟を連れ曠野(こうや)へと彷徨(さまよ)い出ていったこと。そこで敗残の一軍に(とら)われ、酒と血と汗の匂いにまみれた彼らに続けさまに犯され、殴打され、陵辱され、気がつけば家族は散り散りばらばらになってしまっていたこと。


情けある敵将に(たす)けられ、引き取られて養われたこと。そのあと僅かな間だけ、穏やかで、幸せであったこと。そのあと、この山口に来たこと。市川邸での奉公のこと。美しき女主人のこと。自分と彼女とのあいだに横たわる、近くて、あまりにも遠い懸絶(けんぜつ)に夜ごと身悶えしたこと。蒼い花のこと。幼き二人の子どもたちの笑顔のこと。そして、還らぬ実のわが弟たちの笑顔を、自分はすでに忘れてしまったこと。


いま、市川局の決断次第で、城兵たちの命が救われます。これから寄せ来る多くの敵兵たちの命も。すでに流れた幾百もの血が、幾千にも幾万にもなることを、防げます。




い、いや。


そんなことは、どうでもいい。




おたきは、思い出しました。つい先ほどの、局の神々しいまでの勇姿。薙刀を叩きつけ、その美しさと決然たる自らの意志とで、城兵たちの心を瞬時に一つへまとめてしまったその手並み。そして、そのあと、しばしなにかを思い返すような顔つきで茫然としていたときの表情の(かげ)。そのあと、おたきの目線に気づいて、にこっと笑ったときの顔。


雄々しい。そしてどこまでも、美しい。


おたきは、塵芥(ちりあくた)のように生まれて、ただ塵芥のように生を焉える運命だった自分が、いま、その生涯の絶頂に立っていることに気づきました。なぜなら、彼女は、いままさに、そこに立っていたからです。


この無意味な戦を、早く終わらせるために。自分の生と、そして死とに意味を持たせるために。筑前の戦場のどこかに消えた、(はかな)い自分の家族たちの命が、決して無駄に散ったのではないと思い続けるために。




「なすべきことを、なさねばならぬ。」




おたきは、先ほど早合(はやごう)の封を切るのに使った、あの小刀を構え、刃のついたほうを下に向けて、狙いを定めました。そして、そのまま走り出し、左手を前に伸ばして釣り合いを取り、ぐいと足を踏み込んで勢いをつけました。そのまま、右手に持っていた小刀を掌のなかでしっかりと握り直し、その切っ先を、つややかな黒髪に覆われた市川局の頭めがけ、振り下ろしたのでございます。

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