第二十四章 鉛の壁 (4)
ちょうどそのとき、遥か眼下に見下ろせる山口の市街に、異変が起こりました。
街の辻々から土煙が上がり、うねる街路のあちこちを、黒く連なる蛇のような影が移動しつつ、こちらに向かって進んで来ます。それら幾本もの影は、やがて町の端に達し、そのまま、堰を切った河の水の如く、あちこちから漏れて参りました。それらが、地響きを立ててこちらに近づくにつれ、天に突き立つ美々しい幟や旗印などが見え、やがて黒い影は個々のかたちを成していって、それらが、騎馬兵の大群と、その合間を徒歩で続く足軽どもであることが明らかとなりました。
その場に居る誰もが、見たこともないような大軍でございます。
大軍は、やがて町を出た平原で進軍を停止し、しばらく左右にゆらゆらと動いておりましたが、やがて隊伍を整えて、幾つかの方形の陣になりました。城門まで、まだはるかに距離はございますが、この鴻ノ峰まで取り付くには幾らも、かかりますまい。
先遣隊の暴走を知り、その帰還を待つのが無意味であると悟った大内輝弘が、全軍に進撃を命じたのでした。そして、それらを意図的に町の外の平原で停止させ、隊伍を組んで、その威容を城兵たちにまず、見せつけたのでございます。
それまで、門上に立つ市川局の神々しい姿に見惚れていたおたきは、こんどは、眼下の軍勢の凄まじさに圧倒されました。
つい先ほどは、数百の先遣隊を (彼女自身もそれに貢献して)完全に殲滅しましたが、今度は、優にその十倍以上はありそうな大軍です。もしこれらが一斉に寄せてきたら、いかな早合撃ちに習熟した名手たちの集う高嶺城櫓門でも、すべてを防ぎ切ることはできず、洪水に押し流されるように、その大きな奔流に呑まれてしまうことでありましょう。さすがの市川局も、今度ばかりは顔色を失い、ただ凝っとかなたの大軍の黒い影を見ておるようでございます。
隊列は、しばらく動かず、そこで静止しておりましたが、やがて、にわかな動きが起こってまいりました。一斉に攻撃態勢に移る気配はなく、ただ、陣に乱れが生じるようになったのです。いくつかの方形が崩れ、そこから削れるように数本の列が前方に長く伸びはじめ、勝手に軍を離れるような動きを始めました。しかし、数騎がそれに立ち塞がり、それ以上の前進を止めているように見えます。
「さきの先遣隊の全滅が、伝わったのでござる。」
櫓門の端に立っていた左座宗右衛門が、反対側にいた市川局と、元教様に聞こえるように言いました。
「おそらく、数名の生き残りが、走ったのでございましょう。大敗に激昂した大内の者どもが、勝手に寄せようとして、将らがそれを止めていると見まする。」
局が、頷きました。
元教様もなにか言おうとしましたが、その前に恵心和尚が口を挟みました。
「ならば、敵将はまず我らに降伏を勧める肚であると見ゆるな。あそこに大軍を並べておるのも、まず大軍の勢いを見せつけんがための、策じゃ。」
「いかにも。」
左座が、答えました。
恵心和尚は、すぐ下に広がる地獄絵図のほうへ眼を落とし、そして眼を戻して、局に言いました。
「そろそろ、頃合いではないか?皆々、よう戦った。一日だけじゃが、時も、稼いだ。変報は、すでに赤間ヶ関の大殿のもとへ届いていよう。後のことは、大殿が何とかしてくださる。我ら、なによりも、毛利の留守居の底意地を見せつけたのじゃ。」
局の目が光り、この高位の僧を鋭く睨みました。局は無言でした。
「これら、お主を慕いて集まりし者どもを、むざむざ犬死させてはならぬ。敵将は、お主の昔の馴染みの者とも聞いた。まずは、降伏の使者を送って参るであろう。」
「敵勢、何ら予告することなく、先ず襲いかかって来申した。」
市川局は、大手門前に累々と横たわる死骸の山を薙刀で指しました。
「こちらに情けをかける意志など、無し。開城せば、われら、尽く鏖となりましょうぞ。」
「いやいや、これは、なにかの手違いであろう。」
恵心和尚は、譲りませぬ。なおも局を説得しようとしました。
左座が、和尚に意外な助け舟を出しました。
「おそらく、先ほどの隊は攻め急いだもののように見えまする。また、あの大軍がすべて海から揚がってきたようには、思えませぬ。おそらくは、ここ山口周辺に残る大内勢の残党が一揆となって結集したるもの。なれば、豊後より参った氷上どのが、これをすぐとまとめ切れぬと見るのが自然。」
彼は、冷静に事態をそう判じました。




