夏とか海とか、どうでもいい
心底退屈しているなら、こんな惚気話でも聞いてみると良い。
うだるような暑さ、ってやつだ。
特に厨房は熱がこもる上にコンロからもじりじりとやられる。
黙っていても汗だくになる程だ。目を離す訳にもいかないから、逃げることも出来ない。
まったくこの夏は異常としか言いようがない。
しかし、うだるようなんてのも少々大袈裟であるとも思ったりする。
だって実際にこうして煮えたぎる鍋を目の前にすれば俺なんてまだまだという気持ちになって来るのだ。
とは言え、あくまで茹だる『ような』ってことで、そういった表現にいちいち疑問を感じていたのではキリがないことくらい分かっている。要はそのくらい暑苦しくてたまらないってことだろ。
やはり今日はとんでもなく暑くて、こんなどうでも良いことを考えるので精一杯なんだ。
俺はコンロの火を消し、茹で上がったそうめんをざるに移した。
「出来たぞ」
大皿に山盛りのそうめんを居間へ運び、テーブルの上に置く。
「あぁ……」
半袖にショートパンツ姿で、なんとも無防備に寝転がる彼女が目を覚まし、小さく唸った。
この1kの8畳間にはエアコンなんて無くて、開け放たれた窓からは外の熱気が直に入り込んでくる。従って蝉の声なんかもそのまんま聞こえてくるから、部屋はそれなりにやかましい。
昼間からよくこんなところで眠れたもんだな。
「またそうめん? っていうか茹で過ぎじゃない?」
「食わないなら俺が全部もらう」
彼女の不平をいなし、台所へ二人分の小皿と麺つゆを取りに戻る。それとオリーブオイル。彼女は決まってこれをつゆに混ぜて食べる。俺はそんなことはしない。口の周りがべたべたするから嫌だ。
「食べるわよ。お腹なら空いているもの」
目を擦る彼女の前に、食器とオリーブオイルを置いてやる。「ありがとう」と自然に言えるのがこいつの良い所のひとつだ。
じんわりと熱を持った床に腰を下ろし、俺は手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
同じように彼女も言って、やはり真っ先にオリーブオイルへと手を伸ばした。
そしてそれを大皿へぶっかけたのだ。
「おい……!」
「いいじゃない。口触りが滑らかになるわよ。いちいち注ぎ足す手間も省けるし」
「嫌なんだよそれ。油だぞ」
しかし掛けちゃったものはしょうがない。覆水定めて収め難し。大人しく頂くとするさ。
そうめんの山から一掴み、それを小皿に移すと麺つゆにオリーブオイルの玉が浮かんだ。
――ああやっぱり気に食わん。
あと、この青臭いとも違うもったりとした油臭さも好きじゃない。買ってきてから少し経つから、単に酸化してしまっているということもあるだろうが。
とにかく、このくそ暑い日でもサラッと食べられるそうめんをわざわざ油浸しにする必要がどこにある。
「……」
少し考えすぎであっただろうか。
あんなに不満げであった彼女が、今では夢中でそうめんを啜っているのだ。
これ以上は何も考えないし、何も言うまい。
しかしなんでも美味そうに食うよねお前。
「海へ行きたいわね」
不意に、彼女がそんなことを言った。
「海?」
「だって夏だもの」
「夏だから海に行くのって、なんか違うと思う。だってみんなそうするだろ。強いられているみたいだ。そうしないとおかしいみたいな。どことなくハロウィンと同じ空気を感じる」
「はぁ……」
彼女がオイルで照らついた口元を歪ませ、大袈裟な溜息をついた。
「……でも、たまには良いかもなぁ」
「もういいわよ。けっこう色々と考えていたのに。どこへ行くかも密かに決めていたし、新しい水着だって欲しいのがあったの。それに気付いてないかもしれないけど、少しやせたのよ、私。見てみたくない? 私の水着姿」
そりゃ見たいさ。
潮風に長い髪をなびかせ、波打ち際ではしゃぐお前はさぞ綺麗だろう。
水着の色は、肌の白いお前なら鮮やかな青なんか良いんじゃないか。もしくは控えめな柄の入った淡色系が。
海の日差しもこことは違って嫌味のない爽やかさでさ、透き通るような蒼の向こうでは入道雲がぼわぼわ立ち昇っていて、そんな景色をバックに笑顔の彼女が俺を呼ぶのだろう。最高じゃないか。
見たいに決まっている。
しかし、そんな聞き方は良くない。
それではまるで自分を投げ売りしているみたいだ。
「見たくないんだ」
「見たいよ。ごめん、俺が悪かった。だんだん海に行きたくなってきた」
「でしょ? やっぱり夏は海。たまには世間の流れに乗ってみるべきよ」
たちまち上機嫌になる彼女。
海へ行きたくなってきたというのは嘘じゃない。
嘘ではないのだが一つだけ、どうしようもない問題が残されている。
どうやら彼女もそれは同じようだ。
「でね、今月ちょっと……厳しくて」
上目遣いに、俺に言う。
でも無駄なんだ。
お前がいくら可愛くても、どうにも出来ないことなんてたくさんある。
今がそれだ。
「実はさ、俺もなんだよ。水着くらいなら買ってやれるけど、ほぼスッカラカンに近い」
「ちょっと待ってよ。ボーナスは? いったい何に使ったの?」
「おいおい、お前だって少しとはいえ貰っただろ? それはどうしたんだよ」
「……なによ」
「なによじゃないが。お前はボーナスを何に使い果たしたか聞いたんだ」
「今はあなたの話をしているんじゃない。はぐらかさないでよ」
「いや、お互いの問題だ。二人で海へ行くんだからな」
「……」
「……」
ふとして一触即発。俺達はそれぞれ額から汗を垂らしながら睨み合った。
蝉たちがそそのかすように鳴き散らしている。
しかしこれこそ意味のない事のように思えた。
これ以上言い合っても、終わりなどないままにただ体力を消耗するだけであることは目に見えるようであったからだ。こんな安アパートで、うだるような暑さの中、実にちっぽけで下らないことをしているではないか。
「取敢えず、今回は別の涼しい場所にでも行かないか」
妥協案。
彼女はそれを呑んでくれるか心配ではあったが、なんとなく気持ちは俺と同じであったようだ。
「……図書館なんてどうかしら」
何かをぐっと飲み込むような音すら聞こえてくるようではあったものの、彼女は答えてくれた。
「良いね。あそこならやり過ぎなくらい冷房が効いているだろうな。お前の大好きなかいけつゾロリも置いてるかもしれない」
「私の大好きなって、何年前の話をしてるのよ」
「俺達が小学3年の時だから……じゅう……」
「わざわざ数えなくても良いわよ。悲しくなるわ」
本当に悲しそうに、彼女はそうめんをずずっと啜る。
別に悪い事じゃないだろ。年を重ねることは、俺達に関しては悲しむべきことではない。
少なくとも俺は、そう思うけどな。
「長い付き合いだよな」
「そうね。なんだか不思議」
「たぶん、こうなるようになっていたんだよ、最初から」
「はぁ? 私が一生懸命に勉強して、あなたと同じ大学に行ってなかったらまだ分からなかったわよ」
「それも含めてさ」
「なんか気に入らない」
分かってるさ。
高校の時のお前は成績がすこぶる悪く、浪人しか選択肢が残されていないような悲惨な状態だった。
国立大なんて、到底無理。でも、そこから頑張ったんだもんな。
英単語を泣きながら頭に叩き込んでいたお前のこと、よく覚えてるよ。
たぶんお前は、俺が思う以上にいろいろと考えているのだろう。
そうじゃなきゃこんな、俺みたいな奴と十何年も一緒に居るわけないからな。
俺だって少しくらいは考えているんだ。お前のこと。
ただ俺達はこれまで、あまりにも落ち着いたまま、なんというかそこそこに、なあなあな関係で来てしまった訳だ。
でさ、そろそろハッキリさせたいとも思っているんだよ。
実はさっき金がないと言ったのにだって、ちゃんとした理由がある。
――指輪って、けっこうするもんなんだな。
お前が金額によって幸福の上限を定めるような人間ではないことくらいは知っているさ。
でも、こういうのはケチっちゃいけないだろ?
これは俺の自己満足だから、あとはお前を満足させてやる番だ。
海に行きたかったのは嘘じゃない。あそこなら、指輪を渡すにはおあつらえ向きだ。
しかし今はどうしようもないんだよ。もう少し待ってくれないか。もう少しだけ。そうしたら……。
「へっ、見てろよ……」
「何。気持ちが悪い」
不敵な笑みを浮かべる俺を、彼女が一蹴した。
それでもいい。今はな。
だが指輪を渡すときは、俺ももっと真面目にやるから、お前も真面目に受け取って欲しい。
本当は心の底からお前を愛しているんだってことを伝えるよ。
いつになるかは分からない。
海じゃないかもしれないし、夏でもないかもしれない。
正直それらはどうでもいい。どこまで真っ直ぐな気持ちが伝わるか。
お前だって、そっちのほうが大事だろ?
それでも海が良いって言うのなら、そうするよ。
とびっきり綺麗な海で、それも夕日が沈みそうな真っ赤な砂浜で。
ちょうど太陽がリングをくぐるようにして、あの小箱をパカッと開けてやる。
そうしたら持ちうる限りのロマンチシズムでもってお前の胸を打つようなセリフを言うから、どうかお前もそれに応えて欲しい。
だからその時まで、せめて喧嘩だけはしないようにしようぜ。
いくら口元がオリーブオイルに塗れようと、古びた油のにおいに不快感を覚えても、今はなんだって我慢するよ。
だって俺は、お前が好きだからな。
「図書館に行ったら読み聞かせてやるよ、ゾロリ」
「なによそれ。恥ずかしいからやめてよ。ゾロリとかもう好きじゃないんだってば」
「知ってるよ」
「あはは、変なの」
お前ってよく笑うよな。
お願いだから、お前はこの先もずっとそうしていてくれ。
大して笑うことのない俺の隣で、お前はそうやって笑ってきたんだ。
俺達、そうしてバランスを取って来たんだから。
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