父との再会 始まりの始まり
初投稿です。続けられるだけ続けます。読んでください。
……逃げたい。そう思っていた。だから、ここで叫んでいたのかもしれない。
僕は何もかもを分かっていなかったが人生を多感に生きた子どもだった。救いは頭が抜群にいいことと、ピアノが弾けることと、声が出ることだろうか。
それで僕は逃げられた。つまらなかったのは母の作った社会だったんだ。
「まぁ、すごいわー。10代でいっぱい賞貰って。将来はお父さんやお母さんみたいなピアニストかな。お母さんの血が強いんだよね。ポップス弾いてくれない? よかったら、ここで君のピアノと歌を聞きたいなぁ」
「君じゃない。僕には深矢って名前がある」
初対面の彼女はバツの悪そうな顔をしてから
「なんて呼べばいい?」
聞かれたので、深矢でいいから。歌は自信がない、それでもいいなら」
僕は、あなたとは重ならない18年を歩んできてしまった。僕に歌わせたかったのはあなただった。それはピアノだけだった人生からの脱却だった。
18年前、音大で知り合った菅野樹と言う津々木彩の間に生まれたのが菅野深矢。僕の名前だ。それから6年後、僕は津々木という苗字になり、それを知っている人たちは菅野で呼ぶことはほとんどない。そんな環境にいたからか、津々木で呼ぶよりも、大体の人が「深矢君」「深矢さん」「深矢」と下の名で呼ぶ。今だってそうだ。高校までだいたいそれで、大阪に来だしてから、父の息子として名乗ることが多く「菅谷さんの息子さんの深矢君」と呼ばれることも増えてきた。
僕は、幸運にも母がピアノの先生をやっていて「何か習い事を」みたいな話になった時、父と別れるまでして「津々木家のピアノ」を選び、僕にピアノをさせた。僕はよくても悪くても「ピアノにかかわることが何でもできる」男子だった。母は個人経営でピアノ教室を持っていて、大体の女子の前でピアノを弾
かせた。多くの大会に出した。皆の前では、「深矢君」だったが、夜になると「深矢」と呼ばれ、勉強主体の教育。音大に通うよう常に学年トップでいることを優先させられた。
父と母が別れたのは、家にピアノがきた6歳になった時だった。母は父には何も言ってこない人だったが、僕の周りで音大を勧めなかったのはいつでも父だけだった。母方の祖父母、叔母や叔父もピアノはクラッシック畑で、父方の家族ではピアノを続けていたのは父しかいなかったからか、父のポピュラーミ
ュージック専攻のピアノが決定打だったからか、父は毛嫌いされていたし、いつもないがしろにさせられるのは父だった。
ある日、父は僕に女性歌手のピアノスコアを買ってきた。しかし母は、
「こんな下品な歌詞を歌う女性なんて、この子には関係ありません。この子はクラッシックで生きていく子なんです!!」
その日の夜、父は僕に、
「深矢。将来、ちゃんとお前には素晴らしい人が現れる。それまで我慢して、ピアノを続けるんだ」
そう言って、家を出た。
あれから12年。「津々木家のピアノ」を始めて12年。
音楽と勉強を両立し、地方の音楽専攻できる高校を寮に入りながら卒業したのち、僕は、母の元を離れ、大阪音楽大学のピアノ科にはいることを決めていた。母の願い、「音
楽大学に入学する」を叶えたのち、僕は大阪で一人暮らしを始めた。
「もうお母さんに教わることはないよ」
三行半的なものを叩きつけ、ピアノを弾き続ける条件で一人暮らしを約束させた。
東京で母と住まなかった理由は、父にあった。父と、父が新しく奥さんに選んだ人・遥
さんは、大阪で喫茶店を始めていた。名前は「midnight'z music」。父は僕の名前を付けてくれた。その店を知ったのは、店からの絵葉書。きっと母は、その時諦めていたのだろう。僕が自分のもとを離れ、父のところに行くのだろうと。その証拠に、僕の使っているピアノの上にその絵葉書は置かれていた。
しかし、母に恩を感じていたところもあったので、父のもとを訪れたのは、大学の近くの新居に決めた翌日にした。父が悪いわけでもないし、母が悪いわけではないのはわかっている。それに母と約束したのは「クラッシックを勉強すること」だったから、「父と会ったからポップス専攻を変えた」なんて言わ
れて、母を傷つけるつもりもない。あくまで僕が続けるべきは「津々木家のピアノ」である。
「midnight' z music」は梅田にあった。大学から約10分。
スマホと絵葉書を片手ずつに商店街をゆっくりと見ながら、見逃しそうになった「midnight'z music」の前にはうろ覚えだがいつか見た感じの父が立っていた。
「大きくなったな」
父は、40代なのに絵葉書通り、妙に老けてしまっていて思わず笑ってしまった。そう思えば、引っ越す直前、母も絵葉書を見て思い出したように「お父さん、私と同じ歳なのに老けちゃって」と笑っていた。
「15年って残酷だな」
父はハニカミながら、僕の胸を叩いた。僕は、いててと痛がりながら、
「そりゃ、3歳が大学生になっちゃったからね」
「そりゃそうだな」
「もう15年だよ」
「ああ。あの時のこと、お父さんちゃんと覚えてるよ」
「嘘つけ」
そういうやりとりも、父がちゃんと覚えてくれているのを分かっているからできる。
「遥さんを紹介してよ」
父は恥ずかしそうに、
「いや。それは……」
そんな会話をしていたからか、店の奥から、
「樹さん。深矢君来ました?」
女性が一人駆け出してきた。この人が遥さんだろう。
遥さんは、絵葉書通りの美人で、母も美人だったので父はモテるほうだと思っている。
僕はというと、身長は170ちょいだが痩せているだけのがり勉だ。中学の最初はピアノがうまいことで少しモテたが、高校の時にはそれが当たり前になっていたので彼女はいない。
「お、おう。紹介するよ。お、俺の息子の……。息子の?」
僕は少し父を冷たい目で見て、さらに父は慌てふためき、それを見ながら僕は
「息子の津々木深矢です。父がお世話になってます」
そう少し遥さんの前でアガっているいじわるをした。
遥さんはくすっと笑う。遥さんのそんな父を気遣うところは、普段の母にもある。
少し焦りながら、自分の息子を紹介するあたりは、母と夫婦していた頃とそう変わらない。父は自分が大きな器になれない人だと今になって思う。だから、母が好きだった頃を忘れたくなかったのだろう。別れてからも年賀状は来ていた。母は大っぴらにはしなかったが。
「あっ。中学3年の学園祭にお父さんと一緒に来て・ま・し・た?」
遥さんはうんうんと二回頷いた。
その時の人か、と思った。中学3年の学園祭の時に僕が高校の推薦が決まっていて、母がそのご褒美でやらせてくれた「Crybaby」と言うロックバンドを、同じ高校に同じように推薦入学が決まっていた子たちで演奏した時、父と隣に母ぐらいの歳の人が一緒にノっていたを見た。その前の年は吉元由美作詞で平原綾香が歌ったことで日本人の中でさらに有名になったGustavus Theodore von Holstの「Jupiter, the Bringer of Jollity」のオルガン部分を弾いた時、母が見に来ていて、父の隣に仲のよさそうな「同じ歳くらいの女性」がいたと言っていたのを思い出した。きっと遥さんなのだろう。
ちょちょっと父を遥さんから隠し、
「……お父さん、どういうことだよ。お母さんにわかるように遥さんと一緒に中学来たりしてたのってなんか意図してきてたってこと?」
すると父は、
「気にすんな。彩さんとの話は遥には話してある」
(……母さんがまだ父さんを好きなわけだよな、これって)
父は、母方の人間にはない独特のマヌケさがあったのを、6歳ながら感じていたから。