「大野さんのこと」
「大野さんのこと」
以前、新聞のラテ欄(ラジオ・テレビ欄)を作る会社で働いていた。
テレビ局から送られてくる、ラテ欄の原稿をひたすらフォーマットに沿って打ち込む仕事だ。誰でも出来るといえば出来るが、新聞に載るものなので、細かいルールがあり、慎重さが求められる仕事でもあった。
自分はTBSとその系列のローカル局のテレビ欄を担当する部署で働いていた。従って部署には、キー局であるTBSのテレビ欄を担当する人間と、ローカル局を担当する人間がいた。
ローカル局を担当する人間の中に、大野さんという25歳くらいの女性がいた。
ショートカットでやや釣り目で化粧っ気もなく、背筋を伸ばし、一心不乱にキーボードを叩くその様は、時に何かの修行めいて見えた。大野さんはストイックにキーボードを打ち込み、時に部署内の談笑に加わることもあったが、総じて生真面目で、やや、神経質なところもあった。自分は彼女の隣の席だった為、入社当初は怖い人、と感じていたが、自分が困っている時など、
「分からないなら聞けよ、教えてやるから。遠慮される方がイライラするよ」
などと、キーボードを打つ手は止めず、ディスプレイを見据えたまま突然言って、助けてくれたりした。
人にも、自分にも厳しい人ではあったが、不器用な優しさも持つ人だった。
隣の席だった自分には時折、それを感じることが出来たが、部署の他のメンバーの大野さんへの評価は、(仕事は出来るが、剣呑だ)ということで一致していた。特段、それを、自分も否定はしなかった。そうでない一面があることを知ってはいたが、他のメンバーにそれを主張するほどには、大野さんに思い入れも義理も感じていなかったし、自分がそれを言うことで、他のメンバーとぎくしゃくしたくないという保身もあった。加えて余談だが、大野さんを庇うような発言で、あらぬ誤解を受けたくもなかった。その時の自分には付き合っている人がいた。
そういうわけで、他のメンバーからは「大野と並んで仕事なんて大変だろう」と半ば本気で同情されたりもしたが、自分としては、そこまで苦に感じてはいなかった。
確かに、大野さんはぶっきらぼうだったし、口調はきつかったが、言っていることは間違っていなかった。最もそれ故に、余計、周りからは(剣呑)と思われてしまっていたのだと思うが。
しかし、大野さんは武士のような心の持ち主で、時に厳しく人を糾弾したが、自分の正義をはみ出してまで余計に相手を攻撃することはなかったし、根に持つタイプでもなかった。そういう心根を、自分は密かに好ましく思っていたし、だからこそ、隣でもそれほど窮屈に感じることはなかった。
自分の部署にはキー局担当者が4人、ローカル局担当が自分や大野さんを含め6人いた。そのうち、ローカル局で女性は大野さんだけだった。同じ部署なので、キー局もローカル局も優劣はなく、仕事上、協力すべき立場ではあったが、何となく、キー局担当者が上、というような見えない空気感があった。
だから、というわけでもないだろうが、昼休みになると、連れ立ってランチに出るキー局の女子を尻目に、大野さんは自分の席で朝、コンビニで買ってきたジャムパンなどを黙々と食べていた。
彼女に、人並みの社交性がなかったとは言わないが、女子同士の雑多な会話に加わり、笑顔を見せるほど付き合いが良かったわけでもなかった。それに、彼女には夢があった。
その頃には、無害な隣の席の後輩、というポジションを確立していた自分に、大野さんは仕事中でも時折、気が向くと雑談をしかけてきた。その中で、
「わたしは小説家になるんだ」
ということを言っていた。
その為、彼女は昼休み、手早くパンを食べ終えると、ノートに、小説の構想のようなものを書いて過ごしていた。その事情を知っていた自分は、その姿を見ても(あぁ、やってるな)と思うだけだったが、知らない周りは、昼休みなのに部署のメンバーと雑談することもなく、うつむいて、ストレートでサラサラの短い髪で周りをシャットアウトするような姿勢で、何事かをノートに書き付けるその姿は、やや、奇異に映っていたようだ。
あまり、夢中でノートを書いていて、昼休み終了の合図に気づいていない時など、遠慮がちに声をかけると
「ありがとう、うっかりしていたよ」など、思いがけず笑顔を見せてくれることもあった。心根はいい人だったのだ。それが、わかりにくいだけで。それ故に、疎まれがちだっただけで。
さて、ここで少しキー局担当と、ローカル局担当の仕事上の関わりについて触れておこう。ローカル局というのは地方のTBS系列の局ということで、TBSの番組をキー局とは違う時間、曜日でそのまま放送することがあった。
従って、テレビ欄を作る時は、まず、キー局担当者がTBSのテレビ欄を作り、その後、ローカル局でも放送する番組だけ、ローカル局のテレビ欄へデータを送っていた。この作業を社内では「飛ばす」と呼んでいた。そして、ローカル局担当者は、飛んできたデータと、その局オリジナルの番組を組み合わせながら、担当局のテレビ欄を仕上げていくのだ。
この一連の作業の中で、ポピュラーなヒューマンエラーとして「飛ばし間違い」がよく起きた。どのローカル局で、どの番組が、いつやるか、ということは、キー局担当者は把握していたが、ローカル局で編成変更や、特番を放送したりといった、イレギュラーなことがあった場合、それに気づかずに、いつものデータを飛ばしてしまう、というものだ。そうすると、これは今思えばシステムの問題だと思うが、飛んできたデータが優先されてしまい、つまり、本来の特番のデータが消え、キー局が飛ばしたデータがそこへ上書きされてしまうという事態が起きた。こういうシステム的なことも、先に書いた、なんとなくキー局担当者の方が上、的な空気感を醸成する一因になっていたように思う。
この飛ばし間違いのあおりを食らうのは常にローカル局担当者であり、必死で編成を組んだ特番が一瞬で消滅する悲劇がしばしば起きた。とはいえ、キー局担当者も悪気があってのことではなく、常にローカル局のテレビ欄作成の為に先頭に立って編成を作ってくれているのであり、それをローカル局担当者も分かっているので、文句を言うことはあっても、大抵は穏やかにことは済んだ。
この、飛ばし間違いが今いち減らない原因の一つに、キー局担当者の異動があった。全員がそうだったわけではないが、キー局担当者は社員が担当し、ローカル局は派遣社員が担当していることが多く、社員であるキー局担当者には異動があったのだ。その為、異動してきたばかりの社員が「飛ばし」を行うと、慣れないが故に、ミスが起きた。そして、ローカル局担当者は異動がないので、社員と派遣社員という立場の違いはあっても、仕事のパワーバランスでは時に、ベテランのローカル局担当者の方が異動したてのキー局担当者より強い場合もあった。そして、大野さんも、そんな、ベテランローカル局担当者の一人だった。
ある時、自分達の部署へ、市田さんとうキー局担当者が異動してきた。
市田さんは、大野さんと同い年くらいの女性で、お調子者なところはあったが明るく、ジャニーズの追っかけに週末を費やしているような人だった。
市田さんはその明るさでもって、比較的すぐに部署の人と馴染んだが、お調子者な面も同時に発揮しており、仕事上のミスもちょこちょこあった。その度、明るく謝られると、相手も、まぁしょうがいないかと苦笑することが多かった。しかし、そんな市田さんの態度を軽薄で真剣味が足りないと、快く思わない人がいた。大野さんだった。
当初、その生来の人懐こさでもって、市田さんは大野さんとも打ち解けようと積極的に声を掛けていた。しかし、そんな市田さんの接触を、傷を負った野良猫のごと、警戒心と不快感でもって、大野さんは露骨に避けていた。大野さんにとって、市田さんの距離感の近さは疎ましいだけであり、のみならず、この部署で長くローカル局を担当している自分への敬意が少し足りないのではないか、とも感じていた。
一方で、市田さんは明るい人ではあったが、ややプライドが高いところもあり、(そういう意味で2人は似ていた)自分のやり方で接して、心を開かない人間に、自分の接し方を変えてまで仲良くする必要はない、と思うような人だった。そういうわけで、自然、両者間にほとんど交流はなかった。
そんなある日、大野さんの担当局で大幅な編成変更が起きた。その変更に対応する為、連日大野さんは遅くまで残業をし、テレビ欄を作り上げていった。周りもサポートしようとしたが、責任感の強い大野さんに大丈夫だからと断られ、見守るしかなかった。そんな大野さんの頑張りもあり、締め切りの2日前にはほぼ、テレビ欄は完成した。険しい表情でPCモニタ上のテレビ欄を睨む日々が続いていた大野さんも、珍しく、達成感と安堵感のまざった柔らかな笑顔を見せた。
さて、大野さんのテレビ欄の完成と平行して、キー局のテレビ欄も出来上がり、いつものように「飛ばし」が行われた。飛ばしは夕方の確認作業に間に合うよう、午後一番に行われることが多く、その日の担当は市田さんだった。
お昼休みから帰ってきた市田さんはいつになく上機嫌で「飛ばし」の作業に取り掛かった。というのも昼休み、同じジャニーズの追っかけをしている社員から、来週に迫ったライブのチケットを譲ってもらえることになったからだ。諦めていたライブに行けることになり、市田さんの頭は半分、ライブのことで占められていた。そうして「飛ばし」は行われた。
その10分後、静かな大野さんの声が、自分に聞こえた。
「全部、消えてる」
隣の席の自分にしか聞こえぬような、小さな声だった。しかし、その一言で、何が起きたか自分にもすぐに分かった。
一方、市田さんは、午後イチにやらねばならぬ、まだ慣れない「飛ばし」の作業も無事終わらせ、チケットが手に入った嬉しさからか、昼休みのテンションそのままに、同じキー局担当の女性社員にしきりと話し掛けていた。
その様子をチラッと見て、大野さんは席を立った。
ラテ欄編集部というのは、人声と、FAX音、叩き続けられるキーボードの音等が混ざり合い、常にざわめいているものだが、その時の自分の記憶には音がない。まるで、サイレント映画のように。
大野さんと、市田さんの席は同じ並びの、端同士だったが、大きな声を出せば、座ったまま会話が可能な距離だった。
ゆっくりと大野さんは市田さんの席へ近づいていった。市田さんは大野さんが近づいてくるのに気づき、一瞬視線をやったが、普段、話すことがない大野さんがわざわざ歩いて自分のところへやって来るとは思わなかったようで、おしゃべりを続けていた。
大野さんは、市田さんの席の横で立ち止まると見下ろしたまま、少し黙っていた。
「今日、飛ばしたの、あんたか?」
大野さんのただならぬ様子に、流石に市田さんもおしゃべりをやめ、しかし、平静を装って、そうだと答え、何か問題があったかと付け加えた。
「くだらねぇ、アイドルの話でくっちゃべってるのは勝手だが、半端な仕事で、人に迷惑かけんじゃねぇよ」
大野さんは、それだけ言うと、自分の席に引き返した。市田さんが、何か言い返したが、何も答えなかった。
その後すぐ、市田さんがいつも通り、大野さんの担当局にもデータを飛ばしてしまっていたことが判明した。朝のミーティングでも注意喚起されたことだったが、チケットのことで浮かれ、そのことを忘れていた市田さんのミスだった。
キー局担当の責任者である藤田さんという女性がすぐにミスを謝り、一緒に残業して作り直すのを手伝わせてくれと申し出た。
それを、大野さんは、
「あんたのせいじゃないし、かといって市田さんには手伝われたくない」
と断った。
当の市田さんも申し訳なさは勿論、感じていたし、謝罪もしようとしたが、それら一切を受け付けない、大野さんの態度にプライドを傷つけられてもいた。(そこまで怒ることか)と思ったし、いくらこちらに非があるとはいえ、(周りに人がいる中で、あんな風に罵倒するのは失礼だ)とも思った。
結局、締め切りぎりぎりで、大野さんの担当のテレビ欄は、何とか間に合った。
それにより、両者のぎくしゃくは依然、続いていたが、それでも部署に、ホッとした空気が流れた。誰もが、今度からは市田さんも気をつけるだろうし、時間が経てば大野さんの怒りも薄らいでいき、この件も一件落着するだろうと感じていた。
そして、そうした緩んだ空気を、市田さんは、「ミスした自分への許し」と受け取ったようだった。そのせいか、締め切り前、最後の読み合読み合わせの合間の雑談中に、市田さんはこんなことを言い出した。読み合わせ相手が、異動前の部署の、気心が知れた相手だったせいかもしれない。
「いっつもカリカリして自分ひとりで仕事してるつもりかっての。ただの派遣のローカル局担当者のくせに」
誰のことかは、明白だった。しかし、口調は軽かったし、少し、冗談が過ぎた程度のものだった。けれど、タイミングが最悪だった。
ちょうどその時、読み合わせをしている2人の横を、大野さんが通り過ぎたのだ。映画の資料を片手に持っていたから、資料室から戻ってきたところだったのだろう。日ごろから大きい市田さんの声は、はっきり大野さんの耳にも届いた。それが証拠に、ぴたりと大野さんは立ち止まった。
しまった、という表情で、何かを否定するように手を振りながら、慌てて市田さんが立ち上がった。その頬を、無言で大野さんは張った。パン!と短く、乾いた音がした。
一瞬の出来事だった。
しかし、市田さんが涙を流し訴えたせいで、事は事実以上の大事として、かつ、大野さんには不利な形で扱われた。つまり、「社員に対する、契約社員の一方的な暴力事件」として、幹部会議にかけられることとなった。市田さんは何度か呼び出されたが、大野さんへの聞き取りはなかった。大野さん自身も特にそれを望まなかった。
そして数日後、処分が決まった。
大野さんの即日解雇。
その日、朝から社長室へ呼び出されていた大野さんは、昼前に戻ってきた。大野さんへの処分は、午前中のうちに部署のメンバーにも知らされていた。そのため、密かに皆、大野さんの様子や、彼女がこの件に関して何か言うのではないかと注目していた。けれど彼女はいつものポーカーフェイスで、怒りも落胆も悲しさも窺えなかった。けれど、隣の席の自分には、彼女が席につく瞬間、ややうつむき加減に、微かに笑ったように見えた。
一方、市田さんは、自分の主張が通った喜びか、あるいは自分の訴えがもたらした、想像以上の厳しい処分への動揺からか、午前中はいつにもまして饒舌だったが、大野さんが戻ってくると、さすがに神妙な面持ちで仕事をしていた。
偶然、その日の夜の読み合わせは自分と大野さんの組み合わせだった。
読み合わせはいつも通り進んだ。
大野さんはいつものように、自分のあいまいな言い方に細かい確認の指摘をし、私語もなく、10分程で読み合わせは終わった。自分は、読み合わせが終わったあと、少し迷った。この機会を逃すと、改めて彼女と話をするタイミングはなくなる。席が隣なので、話すことは出来るかもしれないが、他のメンバーがいる部署の席では、落ち着いて話すのは無理だろう。
何か、彼女に伝えるとしたら、今しかない。しかし、何を言うべきか。そもそも、何か改まって言うほど、自分は彼女と親しかったのだったか。彼女の信頼を勝ち得ていたのだったか。いつも、自分の部署内でのバランスばかり考え、時に、本意でない彼女への嘲笑に加担、まではいかないが、打ち消すこともせず、傍観していたのではなかったか。一瞬、迷った。と、彼女がろうそくを消すように、細い息を吐いた。どこか、とおく、届かせるように。
「あんたが気に病むなって。どうせ辞めるつもりだったんだ」
そう言うと、自分の肩を叩きかけて、途中で照れ臭くなったのか、伸ばしかけた手を引っ込めた。
そのあとは予想通り、彼女と改めて話す機会はないまま、定時になった。
いつもは残業が常の彼女だが、最後のこの日は早々に荷物をまとめ、部署や上司への挨拶も済ませ、定時になると席を立った。
別れの挨拶はもう済ませたとばかり、最後の言葉はいつもと同じ、
「お疲れ様。お先に失礼します」
そっけないものだった。
足早に出口へ向かう彼女に、藤田さんが見送ろうとついていった。それにしきりに照れて、やめてくれと半ば本気で追い返そうとしていたが、いつもは温厚な藤田さんは少し、目に涙を浮かべて、この時ばかりは、頑として引かなかった。元気でと繰り返す藤田さんに、編集部の入り口の扉を開けながら、
「いつも助けられてたよ、あんた、気づいてないだろうけど」
そう言って、大野さんはニヤッと笑った。昼休みが終わっていることを自分に指摘された時の様に、少しはにかんで。
その日の夜、自分は会社を出ると、駅前の本屋に寄った。そこで、梶井基次郎の『檸檬』の文庫本を買った。かつて、大野さんが、言っていたのを思い出したからだ。
「わたしさ、この話の主人公、大嫌いなんだ。こんなの、甘えだよ」
その言葉だけ、今も栞のように心に挟まって、結局、いまだに自分は、彼女が大嫌いだという、その男が出てくる話を読めないでいる。(終)