『エッジ』 第11章 裏切り(16)
―― なんだろう、あの表情。
涼香は気になった。この、体の内からざわめくなんとも言えない感覚。なにかある。なにかを優丸は知っている。
そう思ったものの、それがあまりに漠然としたもので、どう聞いたらいいのか分からない。それに、なにか優丸に異常な気配を感じれば、まずは鋭い礼韻が気付くはずだ。そう思った涼香は、首を傾げながらも再び望遠鏡を手に取った。
ここで流してしまったことを、後々、涼香は後悔することになる。
望遠鏡の向こうでは、相変わらず小早川秀秋がわめきたてていた。わめいたところで事態がよくなるわけでもない。でもおそらく、そうせずにはいられないのだ。
「そろそろ鉄砲隊のお出ましだろうな」
礼韻が小さく言う。そして望遠鏡を、予測する方角へ向ける。涼香も礼韻の動きに続いた。
「どちらでもいい。どちらでも構わないから、大勢が決してくれぬものか!」
優丸が読唇術を続ける。この小早川秀秋の言葉は口の動きがわずかで、涼香には分からなかった。
今、この瞬間であれば、小早川秀秋は、たとえ西軍が勝ったとしても身の安全は保障される。もちろん三成や宇喜田、大谷吉継あたりから、なぜ傍観していたと責められることだろう。しかし処罰にまではもっていけないはずだ。小早川家と競るほどの大規模な大名などいないし、一応は西軍の総大将である毛利家の縁戚だ。それに傍観者は、吉川や島津など他にもいる。傍観者を処罰したら、西軍の勢力は3分の1以下となってしまう。秀秋の気持ちとしては、態度を表明することなく、関ヶ原の一戦が終わってほしかった。
秀秋は、西軍からも勝利後の好待遇を約束していた。三成直々に、太閤豊臣秀吉の遺児、豊臣秀頼様が成人されるまでの間、関白の職に就いていただきたいと言われているのだ。秀秋としては、どちらに転んでもいい立場だった。
「殿、やはり殿が兵を動かさねば、東軍勝利ののち、お立場が違ってくるかと……」
平岡頼勝も必死のようで、やはり顔に汗を浮かべている。先ほどからまったく動いていないにもかかわらず。西軍に勝たれた場合の、小早川秀秋が翻弄されるさまが汗の元に違いない。涼香は今度、頼勝に思いが行った。もしも現代に生まれていたなら、いい経営者になったのではないか。なんだかもったいないと、掛け値なく思った。
「ううぅ……」
小早川秀秋はうめき声を上げて前につんのめった。重圧に耐えられない、という姿だった。
「せっかく松尾山に陣取ったというのに……」
松尾山は、日和見をするにはこれ以上ないほど好条件の場所だった。北へ目を向ければ、遥か石田軍まで、西軍諸将をずらりと見て取れる。少し東に目を移せば、合戦場となっている盆地があり、その向こうに家康の陣地があった。すべてを見渡せて、状況を的確に判断できるのだ。
しかし、状況が分かる場所にいるはずなのに、自身の判断した情勢と違うことを頼勝が言う。秀秋は混乱の極致だった。それが、行動に出てしまう。まるで過呼吸かと思えるほど口をパクパクさせながら、
「な、なぜ東軍が勝つと断定できる?」
呻くように言った。
そのとき、家康の周囲を囲んでいた三河軍がいっせいに前へと進んだ。
それはほんの数歩分のことだった。しかし4万に近い精鋭部隊の、そしてまた恐ろしいほどまでに規律の取れた動きは、見るものに衝撃を与えるものだった。
「あれほどまでの軍を温存している家康殿に、敗北は考えられないかと」
すかさず平岡頼勝が言う。口が開いた小早川秀秋のあごからよだれが垂れた。
「来るぞ!」
礼韻が鋭く言う。鉄砲隊が来るという意味だ。
史書では、小早川秀秋の態度に怒った家康が、本当に東軍のために動く気があるのかと問う、「問鉄砲」を撃ったとある。その自分に向けられた鉄砲攻撃に恐れをなした小早川秀秋が、ようやく態度を決めて西軍の横っ腹に大軍を突っ込ませるとなっている。情勢が一気にひっくり返る、関ヶ原の合戦での最も劇的な場面だ。もちろん、あまりに劇的すぎるきらいがあり、本当にあったのかどうかは分からない。それゆえ、礼韻はたった一度、一日だけの時渡りを、この場所での観戦に決めたのだった。
「三河軍のあの動きは、問鉄砲の進行から目をそらせるためのカモフラージュだ。布施源兵衛を筆頭に、臨時に組まれた鉄砲隊がこの松尾山に向かってきているぞ」
最大の関心ごとを前に、礼韻の声も震えていた。




