『エッジ』 第9章 時渡り(9)
礼韻にとって、願坐韻はやさしい祖父だった。
いつも穏やかな口調で、礼韻が何を聞いても、きちんと向き合い、丁寧に話をしてくれた。
そしてまた、実際の対応だけではなかった。眼差しが、包み込むかのようだった。小さな子どもというのは理が発達していない分、感覚が研ぎ澄まされている。礼韻は、眼差しという漠然としたものから、やさしさを感じ取った。願坐韻の眼差しからは、負の感情を感じたことがなかった。いい加減さも、惰性も、面倒に思う気持ちも、子ども心にがっかりしてしまう感情が、一切見えてこなかった。願坐韻には疲れているときも、集中したいときも多かったに違いない。しかしいかなる時も、礼韻と対したとき、誠実に、真剣に、向き合ってくれていた。
もちろん、願坐韻のタイプのやさしさが伝わらない子どもも多いに違いない。やさしさというものは、受け取る側の感情に左右されるものだからだ。
礼韻はかねてから、やさしさというのが一般的に、その人の持つ性格として語られることに疑問を持っていた。「あの人はやさしい人だ」、というように。
もちろん個人的な性格があることも分かる。しかし、と礼韻は思う。人と人との組み合わせによって、やさしさというのは評価される。むしろその方が多いに違いないと思っていた。
いかに願坐韻が穏やかに接しようとも、そこに情緒的な言葉は一切ない。願坐韻が性格上、情緒性を嫌うからだ。礼韻は「いい子だ」とか「可愛い」などと言われた記憶がまったくなかった。願坐韻から受ける誉め言葉は、いつも具体的だった。「この本を読んだのか」とか、「これを暗記してしまったのか」など、個別の行為に対する誉め言葉だった。だから、いい子いい子と猫っ可愛がりされたい子どもにとっては、願坐韻のやさしさは伝わらなかったことだろう。
つまりは、礼韻と願坐韻は気質と能力が合ったのだ。だから、礼韻の行動と願坐韻の言葉が響き合ったのだ。願坐韻は自身の持つ気質のままに孫を誉め、孫は誉められたいと思うところを的確に評価された。
礼韻はあらためて、大事な人を失ったと思った。煙の闇を歩きながら、涙が一条鼻筋を伝わり、あごから首へと伝った。




