『エッジ』 第8章 帷面権現(8)
一頭の熊がいた。
礼韻はゆっくりと、体を熊へと向けた。
じっと熊の目を見つめ、その心理を読む。もちろん祖父との心の会話のような、的確なものではない。しかし見つめれば、目と息遣いからある程度は分かる。
礼韻は、熊が攻撃性を持っていることを読んだ。人間に出会って戸惑っている様子はなく、このまま去っていこうという気配は微塵もなかった。むしろ襲うタイミングを計っている気配がありありと見えた。
礼韻は体の力を抜き、両腕を垂れた。こういったときはへたに構えず、気を張らないのがいい。すぐに動きやすいし、相手の攻撃性をいなせる。
熊は、初めの数歩こそゆっくりした足取りだが、そこから駆け出した。礼韻はすぐさま、そばの木に登っていった。
礼韻の登っていった木はさほどの太さではなく、熊が手をかけると大きく揺れた。
そのときには、礼韻はとなりの木の枝に飛び移っていた。それは太さも十分な大木で、礼韻は枝を伝って幹に着くと、木の股に寄り掛かった。
熊は木を揺さぶるのをやめ、きょろきょろと見回している。礼韻はじっと息を殺し、熊が興味を失って去るのを待った。
しかし熊は、立ち去ろうとしなかった。目標物は見失っても、まだにおいがあるのだ。うろうろしては立ち上がり、それを繰り返していた。
礼韻は、弱ったなと腕組みした。熊一頭を倒すのは、できないことではない。しかし無駄な殺生はしたくなかった。礼韻の方が、勝手に熊の領分に入っていったのだ。それで熊に危害を加えるなど、申し訳ないことだ。
これは持久戦だと、礼韻はじっと待った。
右腕に刺すような痛みが走り、見ると毛虫が這っていた。礼韻はピンと弾いて払った。毛虫はもちろん好きではないし、痛みも強かった。しかし毛虫を嫌って動けば、熊に気づかれてしまう。刺されるのは痛いが、熊と対峙することに比べれば些細なことだった。
1時間、じっとしていた。礼韻にとっては、しかし退屈な時間ではなかった。
礼韻は、その習性を間近で見られるいい機会とばかりに、熊を見つめていた。もし本当に関ヶ原に行かれるのであれば、向こうで熊に出くわすことも考えられる。そのとき、今の経験が役に立つかもしれない。礼韻は格好の予行練習とばかりに、見続けていた。
そこで、2匹の犬が走ってきて、熊に吠えかかり、追い払った。
犬の来た方角から、髭面の男が歩いてきた。そしてすぐ、礼韻の世話になっている農家の主人もやってきた。
木を降りた礼韻に2人は近付き、なにも言葉を発せず、ただ礼韻を見つめていた。
髭面の男は濃いサングラスで表情が分からない。農家の主人は、家の中では見せない険しい表情をしていた。
「終始落ち着いていたな、君は」
ようやく髭面が口を開いた。礼韻は軽く頷くにとどめた。
なるほど、と礼韻は思った。一部始終を見ていたわけか。熊を使って試すとは、さすが帷面だと、感心した。
「いい判断力だ。そして忍耐も」
そして髭面は反転し、付いてきてくれと言った。
「いよいよか」
礼韻は胸の中で呟いた。ようやく帷面の行が始まるのかと、全身に緊張を走らせた。




