『エッジ』 第8章 帷面権現(5)
険しい山道を登るかと思っていた礼韻だが、逆に、道は進むごとに緩やかになっていった。
礼韻は小さな集落に入った。これもまた意外なことに、閉鎖的な雰囲気はまるでなく、車も頻繁に行き交っていた。
願坐韻から教えられた、一軒の農家に入る。呼び鈴を押すと、シャツに作業ズボンの男が出てきた。
「願坐韻先生のお孫さんかぁ。よく来たね。まぁ上がってのんびりしててよ」
表情は柔らかく、とてもいしにえの術の伝授者とは思えなかった。この男はたんに連絡役なのかもしれない。礼韻はそう思いながら、男に従って2階の一室に入った。
なにもかもが拍子抜けだった。山道はなだらかで、距離もなかった。集落は閉ざされた感じなどなく、家も、都市の住宅地によくある2階建てだった。会った男も小太りで、「気」を感じることはなかった。礼韻は呼び鈴を押したとき、なんらかの技でも飛んで来た時を想定して、腰を落としてつま先立ちだったのだ。
菓子と飲み物を運んできた男が、消防の集まりで出掛けないといけないので、夕食時まで時間をつぶしていてくれと言った。散歩をしてもいいし、部屋でゴロゴロしていても問題ないという。男は無蓋の軽トラックで出ていった。
静まった家の中でノートを読み返していた礼韻だが、せっかくだからと表に出ていった。
車の通る道は避け、田んぼのあぜ道をゆっくりと歩く。稲が波のようにうねり、青空と相まって目を惹きつける。沿って流れる用水路は透き通る水で、せせらぎに似た水の音も心地よい。礼韻は緊張がほぐれていくのを実感した。
振り返れば、祖父が倒れてからというもの、頭の酷使がひたすら続いていた。ほとんど眠らずに、本や資料を読み、史跡を巡った。そして、それを題材としたレポート作成。願坐韻の要求はとどまるところを知らなかった。
これほどまで短期間に詰め込み、祖父の抱え持つ知識の、何分の一かには迫ることができた。祖父の血を引く以上、資質はあるはずで、このペースで吸収していけば、後継を周囲が納得するくらいの力量は持てるはずだ。
だが、それがどうなのだという思いもあった。自分のこの知識も、もう少し先だが、いずれ無となってしまうのだ。これから社会の中で上っていこうとする者には禁断の思いではあるのだが、しかし願坐韻の細く弱々しい体を見て以降、どうしてもその思いが消えなかった。
また、この緑の絨毯がその思いを強くした。気持ちのよいそよ風が、どう一生を生きてみたところでどのみち儚いのだよ、と言っているかのようだった。
あまりに観念的になるのは危険だと感じ、礼韻は思考をやめ、散歩を切り上げることにした。