『エッジ』 第7章 祖父の贈り物(15)
願坐韻の頭から流れる関ヶ原の戦いは、映画など比べ物にならないほどのリアルさだった。
360度、全方位がスクリーン。そして雨の感触、樹々のにおい。作り物のない世界だった。
じっと見つめる願坐韻に意識を向け、ごくりと唾を飲んだあと、
「信じました」
と念じた。
それは願坐韻に通じ、目を閉じて大きく数回頷いた。
「私は、時を渡った。帷面という、遥か鎌倉から続く密なる集団に潜り込み、時超えの技で送り込んでもらった。もちろん、その一度きりだ」
帷面権現に関して、礼韻も知識はあった。室町時代に起きた応仁の乱より、その名は頻繁に出るようになる。戦いの神を信仰する集団で、修行により、戦闘の武器となる技を習得できるという。空を飛ぶこと、強靭な脚力、透視、などだ。信州から北陸にかけ、土着的な信仰が変化したものだという。
ただ、それは知識として頭にあるだけで、当然それは噂程度としか認識していなかった。現実主義者の礼韻にとって、超常現象など興味の外だった。
しかし体感させられれば、それは信じざるを得ない。なにより、祖父とは、言葉なく意思の疎通をはかっているのだ。
「何人もの武将が帷面の特殊能力を得ようと、信者になっていった。しかし多くは、まともに術も習えず、去っていった。去った者は自身の力不足を棚に上げ、帷面の術など偽物だと周囲に喚いた。その後徳川の世になり、戦いのない時代になると帷面は忘れられていった。彼らは歴史の表舞台から降り、深く深く潜っていった」
「まだ、連綿と続いているのですか?」
「続いている。表向きはなんの変哲もない一般人として暮らしてるよ。誰にも分からない。しかし、教義と術はずっと引き継がれている」
礼韻は室町初期から今もって滅びた南朝の供養を続けている川上村を思い浮かべた。何百年もひそかに続けているものが、この狭い日本にもあるのだ。
「そうだ。川上村のようなものだな。その土地の者が、この現代までも守り続けているのだ。おそらくこれから先もそうだろう」
礼韻の頭の中を読んで、願坐韻が答えた。
「彼らは、基準に達した人間しか受け入れない。術は、誰にでも習得できるものではないからだ。どうやら私はそれに達していたようで、2年半の行を修する「籠り」へと入っていった。そして時を渡ることができる身体になったのだ」
礼韻は黙って聞いていた。その前に座る、祖父の眼光を受けながら。この人であれば、いにしえから続く修行にも耐えられるだろう。礼韻は他意なく思った。
「そして、礼韻よ。どうだ、お前も時を渡ってみないか」
祖父の言葉に驚いた礼韻が「えっ!」と声をあげ、付き人たちが一斉に目を向けた。