プロローグ02
「篠原君、早くしないと」
まことの言葉を無視して、颯太はゆっくりと靴を履き替える。
遅刻は遅刻なのだ。急いだところで、この事実は変わらない。怒られることも、謝らなければならないことも同じなら、別に慌てる必要はない。
「だから、急ごうよ。どうして篠原君って、やたらのんびりしているの? それに授業中、いつも寝てばかりだしさ。こんなこと、聞いて良いか分からないけど、躰のどこか具合でも悪いの?」
……ウザい。
この一言に尽きる。聞いて良いか分からなければ、聞くな。
コンタクトをわざとはずしてきている颯太である。
まことを凝視した目つきが、悪くなっているのは、自覚している颯太。
唇をギュッと噛んだまことは、頭を潔く下げた。
「ごめんなさい。言いたくなかった……よね。分かるよ、その気持ち。病気とかすると、悲観的になってしまう部分もあるみたいだし、治療とかも大変だと思う。篠原君、でもね、でもさ、それでもこうして、学校へ来られているだけ良いよ。うちの……」
自分の脇を素通りして行く颯太を、まことは慌てて追いかける。
「待って。怒っちゃった?」
先回りして、階段を上って行く颯太の顔を、まことは覗き込む。
「大丈夫だよ。篠原君、頭が良いしさ。病気だって、乗り越えて行けるよ。私、応援するから、一緒に頑張ろう」
呆れて見ている颯太へ、まことは小さく微笑み、急ごう。と腕を掴んだ。
言い返すのも面倒な颯太は、なすがまま足を動かしていく。
静まり返った廊下に、二人の足音だけが響く。
教室の前。
立ち止まったまことは慌てて身なりを直し、颯太に目配せをする。
その仰々しさに、吹き出しそうになってしまう。
見られた。
と思った颯太は赤面する思いで、渋い顔を作り直す。
まことが頬を緩ませ、ドアに手を掛ける。
そっぽを向いている颯太に、小さな声で「行くよ」と言う。
たかが遅刻ぐらいで、と、中へ飛び込んで行くまことを見ながら、颯太は呆れてしまう。
「遅れてすいません」
バカが付くほどの真面目なまことに、颯太はついていけないと思う。
「ああおはよう。有賀が遅刻なんて珍しいな。寝坊か?」
面を食らったように言う担任教師、保科にまことは苦笑で返す。
中へ入って行くタイミングを計る颯太を、目敏くクラスの一人が見つける。
「え? 篠原君と一緒って。ええ! 二人って、もしかして、そういう仲だったの?」
「そういう仲って、遅刻仲間ってこと? 一人で怒られるより、二人の方が良いのではと思いまして、不肖ながらわたくし、有賀まことは、駐輪場にたまたま居合わせた篠原君を、拉致って参りました」
まことはおどけて、敬礼をして見せる。
呆れの極みである。
無言で自分の席へ着こうとする颯太に、まことが食って掛かる。
「待って篠原君。まだ先生に、遅れてきたこと、謝っていないよね」
制服の裾を掴まれ、行く手を阻まれた颯太は、うんざりと見やる。
目を反らそうとしないまことに、颯太は渋々謝り、席へ着く。
たった数分のやり取りではあったが、颯太を相当くたびれさせるものだった。
ほほ杖をつき、外を眺めているうち、瞼が重くなってきてしまう。
「有賀、どうした?」
遠くで、保科の声が聞こえ、次の瞬間、頭に衝撃を覚える。
「痛っ」
いつの間にか机に長くなってしまっていた颯太が顔を上げると、怒った眼をしたまことが見下ろしていた。
「きみはどうしてそうなの? 瞬息で寝てしまうほど具合が悪いなら、大人しくお家のベッドで寝ていて。それが嫌なら、ちゃんとしなさいよ。躰が弱くて大変なのは分かる。だけどせっかく、学校へ来られているのだから、そこは頑張って、起きて授業を受けようよ。それでも、どうしても無理そうなら、私、いくらだって協力するからさ」
勘違いも甚だしい。
そう思う颯太だが、向けられたまことの目はあまりにも真剣で、言い返しそびれてしまう。
「何だ? 篠原、調子、悪いのか? だったら保健室へ行っても」
教室が、再びざわつきだす。
真剣に見つめてくるまことの目は、赤く潤んでいた。
目を反らし、一呼吸置いた颯太が、ポツリと言葉を返す。
「ちげーし」
「それなら良いが、有賀、気が済んだら席へ戻りなさい」
保科に促され、まことは渋々と席へ戻って行く。