3話 髪のマガツキ
んがぎぎぎぎっ!!
声にならない咆哮を上げながら、歯に力を込める。
『何か』を噛んでいるような確かな感触が歯と顎に伝わってくる。
こんの腐れ髪がっ! クソなめてんじゃねーぞっ!
イタイ
イタイ
ナゼ サカラウ
ナゼ サカラウ
ヤメロ
ヤメロ
うるせーよっ! テメェこそさっさと俺を解放しろっ!
確かに噛みついているものの、依然として口や鼻の周りは髪の束に覆われ満足に息をすることが出来ない。
さらに視界までも髪に覆われはじめ、女子高生が日本刀を振りかざして突進を始めて以降の視覚情報は途切れている。
間もなく女子高生の刀が自身の身に迫り、切られるであろう現状。
力を振り絞りあまり力みに血管が切れるんじゃないかというほどに顎に力を込めると、とうとうブチブチっと、髪が千切れる音がした。
アアアアアアアアアアア!
アアああアアあぁアアあ!
髪の異形の叫び声が脳内に響いたと思った瞬間、体を覆い尽くしていた髪が一気に剥がれて霧散した。
「なっ!?」
それに驚いたのは、女子高生だった。
既に刀は振り下ろされハジメの頭上から走り始めている。
「くぅううっっ!!」
突如として、異形の姿から人間に戻り、女子高生の表情から攻撃すべきではないと判断したことは分かる。だが、振り下ろされて走り始めている刀を止める事は既に不可能な状況になっていた。
女子高生は、それでも腕を引き、体を曲げ、できる限りの工夫をもって刃圏を狭め、人間を切らずに済むように尽力する。
ハジメもまた、目の前に迫りくる刃から逃れようと体を逃す為に後ろに飛ぶように体を動かす。
二人の思惑をよそに、その刃は冷徹なまでの速さで二人の間を通り過ぎて行き、無理な体勢がたたってか女子高生が振り下ろした刀は道路に当たる。
……が、道路に当たった刀は止まるどころか、まるで道路がバターになったかのようにその刀身を受け入れ、勢いよく切り込みが走り、深々と地面に突き刺さった後に止まった。
ハジメと女子高生は、突如発生した負担の大きな動作と焦りから、互いに浅く、早い息をしながら、瞬発的に体を起こし、改めて驚いたようにお互いの顔を合わせる。
『お。俺、生きてる?
ねぇ。俺生きてる?』
『だ、大丈夫。
とりあえず生きているように見える。
切り傷もなさそう。』
言葉に出さずとも、目が口ほどに物を言い会話を成立させていた。
……双方の咄嗟ながらも力を尽くした結果、最悪の事態だけは免れる事ができたようだった。
ハジメが生きている事を確認し、女子高生はその瞬間に安堵したように年相応な表情で大きく息を吐きだす。そしてすぐに表情を引き締め霧散した髪の異形へと目を向けると、髪の異形はのた打ち回るように動きながら、はるか彼方に逃げていく姿が確認できた。
既に生身の人間の速度では追跡不可能と判断せざるをえない程の距離が開いており、その現状を把握した女子高生は一瞬苦虫を噛み潰したような表情を見せたが、小さく顔を振り「ふん」と小さく一息吐いた後、やや不機嫌そうな顔して、ハジメに向きなおった。
「……あなた……本当に何者なの?」
女子高生は強めの視線をハジメに向ける。
「ぺっ! ぺっ!
うぇぇ…………飲んじまった。
ぺっ! ぺぇっ!」
だが、生存を確認し、安心したハジメはそれどころではなかった。
噛み千切った髪を刀を避ける拍子に結構な量を飲み込んでしまっていたのだ。
それにまだ口の中に髪の残骸が残り気持ち悪い。
四つん這いになり、口の中の物を吐き出していると、イラついたような女子高生は、ハジメの顔を両手で押さえ、自分に向けた。
「ちょっと! ちゃんと聞きなさいよっ!」
突然女子高生が自分の頬に触れ、顔を持ち上げて綺麗な顔を間近に寄せてくる。
丁度、太陽により空が白み始め自分の顔を触っている女子高生の顔がはっきりとわかった。
うわっ。
可愛いというより美人だ。この子。
ただの美人じゃねぇ。特上の美人だ!
うっわ。緊張する!
それになんかいい匂いが……
美人女子高生が自分の顔に触れている事に顔が赤くなるのを感じるハジメ。
……てーか、こんな近くに顔を寄せてくるなんて、なんか顔が熱くなっちまうわ。
もう部分的にかなり熱くなってきてる気がする。
……ん?
……部分的?
「あっ。」
女子高生が変な声を出し、そしてどこかバツが悪そうな表情に変わる。
ポタポタっと、顔の下に何かが垂れ落ちるような音が聞こえ、下を見ると点々と血が落ち、その量は増えはじめている。
ふと顔に触れると、ぬるっとした感触がし触れた手が赤く染まった。
「……な、なんじゃこりゃあああああっ!!」
叫ぶと顔が色々痛い。
どうやら、命は助かったが万事無事というワケではなかったようだ。
それもそのはずである。
ハジメは髪を噛み千切ろうとして顎に精一杯力を入れ、そして噛み千切った。
故に、顔だけ前のめりになっているような恰好にならざるをえず、前に飛び出ていた顔は刀を完璧に避ける事などできるわけもなく、額から鼻、そして頬にかけて斜めに切られてしまったのだった。
むしろ致命傷や失明になるような傷ではなかったことの方が奇跡に近い。
女子高生はハジメの傷を見た後、すぐに問いかけを止めて冷静にスマートフォンを取り出し、どこかへと連絡をし、そしてハジメひとしきり自身の傷に慌てた後、心労か、それとも変な物を飲みこんでしまったせいか、気を失うのだった。
--*--*--
ぼんやりとした世界。
ハジメは何となく自分が夢を見ているだろうことが理解できていた。
夢の中で、大きな金毛の猿のような生き物が、何かを食っている。
その姿は、猩々と呼ばれているような架空の生き物に見えた。
何かを貪り食らう猩々を眺めていると、ふとその猩々は自分を見ている視線がある事に気が付いたのか、こちらへと向き直る。
夢を見ているはずのハジメと視線が交わると、小さく口角を上げ、まるで笑ったように見えた。
そして言葉のような物が響き始める。
―― 食え ――
―― 喰らえ ――
―― 自由に ――
そして猩々はまた喰いはじめ、意識は遠のいて行った――
――
「変な夢を見た。」
誰に言うでもなく、突如として覚醒を促されたような感覚に、口が勝手に動いた。
「痛って……」
顔に感じる痛み。
言葉を発する度に痛みが走る。
見慣れない天井に明るい部屋。
病院……ではなさそうだ。
だが、顔に触れると、包帯が巻いてあるのを感じ、治療を受けた事が分かる。
「……どんな夢を見たんですか?」
「ん?」
声がした方を向くと、俺の顔の傷の原因を作った女子高生の姿。
普通にイスに座って文庫本を読んでいる。
変な夢の後は寝起きに女子高生という、これまでに無かった非日常に、驚きのあまり固まる。
だが、同時にベッドに横なっている自分からは、ベッドの脇のイスに腰かけている女子高生の太ももが非常によく見え、そしてスカートに隠れた奥のデルタゾー……
「……だから、劣情に満ちた目で見ないでほしいのですが」
「……スマン。
いや、スマン!
混乱して! ついっ!」
そう。
混乱した現状が悪いのだ。
いや、本当はエロい俺が悪いのだが。
……そして言葉を発するとやはり傷が痛む。
女子高生は俺の様子にため息を一つだけつき、そして立ち上がった。
あぁ。ゴメンなさい!
怒ってどっか行かないでください。女子高生ともっとお話ししてみたいです。
今は会った時みたいなポニーテールじゃなくて、ロングなストレートなんですね。とてもお似合いです。はい。
そう思いはする物の、俺の口が開く事は無い。別に喋ると痛いからではなく、なんせこの女子高生。
とても美人なのだ。
余りにも美人な人の前だと、なんというか恐れ多くて声を発する勇気が出てこない。
「この度は、誠に申し訳ございませんでした。」
「へっ?」
そんな俺はさておき、女子高生が綺麗に腰を折って謝罪を始める。
「貴方の命を危険にさらした事も、その顔の傷も私が招いてしまったようなもの。
本当に申し訳ございませんでした。」
「ちょっ!?」
腰を折ったまま顔を上げない女子高生。
美人に謝られっぱなしというのは逆にストレスが溜まる。
俺は慌てるが、いかんせん美人と意識してしまっているが故に、なかなか言葉をかける事が出来ない。
とりあえずなんでもいいから頭を上げさせようと試みる。
「あ、あの。そ、
も、もういいんで。はい。
なんか、ち、治療も終わってるし! うん!」
女子高生が顔を上げる。
その表情を見る限り、本当に申し訳なさそうな顔をしていた。
悲愴な面持ちも……ふつくしい。
「と、と、とりあえず…ここがどこで、今、何がどうなってるのかとかを聞いても大丈夫……ですか?」
思わず敬語になる。
「それでしたら、少々お待ちください。
私より説明に適した人間を呼んできますので。」
女子高生は部屋を出ていく。
動きがあったせいか空気が動いて、いい香りがする。
女子高生の残り香クンカクンカ。
痛い。
クンカクンカだけで痛いとなると、もうどうしろと。
とりあえず身体を起こすも、とにかく顔が痛い。
なんせ喋るだけでも、その都度、顔全体にビーンと痺れのような痛みが走る。
痛みの感じから、どうやら顔に大きな切り傷が出来てしまった事は容易に理解できるし、元々怖いと言われているのに、さらに威圧感が増すんじゃなかろうかと気も重くなる。
ゆっくりと鼻からため息を付くと、溜息だけでも鼻が超痛い。
あぁ、もう嫌になる。
傷が開く可能性も高そうだし、とにかくあまり反応をしないように気をつけよう。
今から俺は無表情マシーンだ。そう、機械のように無表情になろう。
デデンデンデデンの、あのマシーンみたいになるんだ。
一人痛みを起こさない方法に考えを巡らせていると、部屋の入り口付近から女性同士と思わしき話し声が聞こえてきて目を向ける。
やがて出ていった女子高生と一緒に、スーツを来たショートボブで、骨太のメガネをかけた20代後半と思わしき女性が部屋に入ってきた。
パッと見、飄々としつつも、仕事はしっかりやりそうな印象を受ける女性。そんな女性が人好きのしそうな笑顔を浮かべて声をかけてくる。
「どうも初めまして。神喰 一さん。
この度は災難でしたね。」
どうして名前を?
と、言おうと思ったが喋ると痛いので、黙ったままコクリとゆっくり頷く。
もちろん表情をつけても痛いので、無表情を心掛ける。
……そんな俺を微笑みながらも瞳の奥で値踏みするような視線。
「……まずは、私が何者かからお話した方が良さそうですね~。
私、国見と申します。どうぞ宜しくお願いします。」
名刺を差し出され、無口&無表情のまま軽く礼をして受け取る。
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NSMA
支援・保証推進グループ 主任
国見 沙緒理
KUNIMI SAORI
------------
軽く目を通すが、シンプルな文字だけが並んだ名刺。
携帯やメール等の連絡先が記されているだけで、会社名と思わしきアルファベットの並びに心当たりも無く、よくわからない。
そんな俺の様子を見て、国見が話し始める。
「なーんの飾り気もない名刺で分かり難いかと思いますので、一応簡単に説明させて頂きますと、この度不幸にも発生してしまった事故の後始末をする保険屋のような物だと思って頂けましたら幸いです。
今、滞在頂いたおりますのも弊社直轄の病院のような物とご理解頂いて大丈夫ですよ。
で、とりあえず今回起こりました事故等についての怪我の保証や、起きた事故の情報確認などをさせて頂きたいと思い……すみません。座ってもいいですかね?」
矢継ぎ早に話されるが、理解の範疇に収まっている事もあり、とりあえず頷く。
「じゃ、失礼して。
あ。ユキちゃんも座ろ? ほいイス。」
控えのイスを渡し、ユキと呼ばれた女子高生がさっきまで座っていたイスに腰掛ける国見。
タイトスカートのスーツで、これまた座ると足が魅力的だ。が、さっきも視線を女子高生に怒られたばかりなので、全体を見るようにして足はうっすら視界に入るような感じでギリギリ眺める。同じ轍はふまないのだ。そう思っていると、国見が同情を全開にしたような声を発する。
「いや~……しかし、まさか車両の爆発事故が起こるなんて大変でしたね~。
治療に当たったお医者様に確認したら、お顔を50針も縫ったそうですよ? いやぁ本当に災難でしたね~。爆発した車両はお勤め先の車両のようでしたが、いかがですか? 車両の管理に問題はございませんでしたか? 弊社の調査ではメンテナンスの不備があるように思えそうな点があったのですが……」
……この人は一体何を言っているんだ?
話している内容に疑問を感じ少し眉が動く。だが、それだけで痛みが走り、とりあえず無表情を貫く。
国見に対して『勘違いしてませんか?』と伝えようとするが喋ると痛い事もあり、なにかいい伝言方法が無いかを考えていると、国見は俺の様子を見て軽く微笑んだ後、言葉を続けた。
「……と、まぁ本来であれば、今話したように起きた事案を誤魔化し、神喰さんがここから退院する時には、しっかりと起きたことが事故であると認識してからお帰り頂くような形を取るのですが……今回はユキちゃんの要望もあり、特例として本当のお話をさせて頂きますね。
これは本当に異例中の異例ですよ。」
異例と発した当たりで、人好きのする笑顔から、どこか冷たそうな目つきに変わる。
が、口調はそのままで言葉が続く。
「分かり易く説明させて頂くと、弊社は有象無象から国民の皆様の安全をお守りする為に設けられた国の第三セクターみたいなものでして……え~……まぁ、神喰さんは、昨夜は色々な経験をされたかと思いますが、要するに『あんな物』から皆様の生活を守っておりますのです。はい。
で、私は事後担当と申しますか、トラブルが起きた場合の手助けをするグループに所属しており、後、ユキちゃん達の面倒を見る役なんかも兼任しております。」
国見の話は、まったく想像していなかったことではあるが、なんとなく合点がいき、ユキと呼ばれた女子高生に目線を向けると、真っ直ぐに俺を見ている。女性と目が合うと確実に逸らされる事に定評のある俺が見ても一切逸らす事も無く、その目力にドキリとする。
……そんなに真っ直ぐ見つめられると、惚れてしまう危険があるよ?
なんせ、俺と視線を合わせる女は、これまでオカンしか存在しなかったんだから。
思わず顔がにやけそうになるが、痛いので頑張って無表情を保つ。
「……一応、言っておきますが…ユキちゃんは本物の女子高生ですからね? 手を出すと犯罪ですよ~。」
国見の言葉に、これ以上惚れしまわないよう慌てて目線を国見に戻す。
「はい。では続けますね~。
早速本題ですが、ユキちゃんの話を聞くに、神喰さんはどうやったのか噛み千切ったそうですね。
マガツキを。」
国見から笑顔が全て消え、真剣にこちらを見ている。
マガツキというのは、きっと髪の異形の事だろうと察しがついたので少し戸惑いながら小さく頷く。
「ふむん……神喰さんは『マガツキ』という言葉はご存じでしたか?」
『まがとき』などであれば『大禍時』の事だろうと推測できるのだが、『マガツキ』は生憎聞いたことが無い言葉だった。
普段であれば『禍月』という言葉かな? とでも想像するんだろうが、いかんせん髪の異形と関連することが分かっている今となっては、適当な想像は出来ないので横に首を振る。
国見は一度メガネを中指で直すような素振りを見せて、そして説明を始めた。
――国見の話の内容をまとめると、マガツキとは、悪い神によって人ではなくなり害を及ぼすようになった元『人』の事。
悪い神自身が人に取り付いている場合もあれば、神の一部を取りつかせただけのマガツキもいるそうで、今回のマガツキは悪い神が取り付いた部類のマガツキであり、これは『人の手におえる存在ではなく、現在に置いて4人の人間だけしか対応できない』という事だった。
「なのにどうして、神喰さんは、そんなマガツキを噛み千切って、しかも飲みこんだというじゃないですか?
どうやっても嘘としか思えません……が、ユキちゃんは嘘を言うような子ではないですからね……でしので、こうして特例としてお話をさせて頂いているというワケです。」
そういえば俺、あの気持ち悪い髪の毛を飲んじまったんだった。うわぁ。
国見の言葉で、髪の異形『髪のマガツキ』の事を具体的に思い出してしまう。
そして同時に、髪のマガツキの気配を感じた。
――近くにいる。
と。
髪のマガツキが、俺に奪われた一部を取り返したがっている。
『返せ』『返せ』と、まるで思念を送ってきているようにすら感じる。
そして、なぜかそれを受けた俺も『髪のマガツキ』を一部を飲み込むだけではなく、もっと手に入れたい……『全部食ってしまいたい』と感じていた。
自分の中に沸き起こった気色の悪い感覚に戸惑い。
痛いから喋らないとかいってる場合じゃねぇと口を開く。
ちなみに国見さん。
都会的に洗練されたキャリアウーマンといった感じの美人。
なんとなく緊張します。
「か、髪のマガツキが……近くにいる。」
国見とユキが俺の言葉に一度顔を合わせ、俺に向き直り、表情で『続けろ』と促す。
「お、おれ、あ、あの、髪……食いたい。」
……
あーあーあー!
何を言ってるんだ、オ・レ・は!
どう考えても頭おかしい人間だろう。
やっちまった人間だよ。
ほら見ろ、国見さんもユキちゃんとやらも、なんかポッカーンとした顔になってるじゃねぇか。
あー! 言葉をまーちーがーえーたー!
「……居場所がわかるのか?」
おっと、ユキちゃんさっきまでのおしとやかな口調じゃなくて、昨日の夜みたいな口調になってるよ。
そりゃそうですよね。不審者が側にいたら戦闘モードにもなりますよね。ハッハハ。
「い、いる。 俺……わかる。」
ユキはヘアゴムをポケットから取り出し、ロングヘアーを後ろで縛り、ポニーテールにくくる。
「案内を頼めるか?」
ユキの言葉は『頼む』という単語とは裏腹に、有無を言わせないような迫力があり俺はただ頷く。
そして国見の運転する車に乗り込み、俺の「あ、あっちの方」という漠然とした案内に従って車を走らせていくと、やがて廃病院のような場所に辿り着いた。
車を降り、ユキが乗り込もうと勾玉に手を伸ばした時、俺は咄嗟にユキの前に手を出して止める。
俺の行動を国見とユキが不思議そうな顔をして俺を見ている。
美人二人に見つめられた俺は、精いっぱい恰好をつけてみる事にした。
「……俺が行く。」
殺されかけたはずなのに、俺の噛みつきで逃げて行った髪のマガツキに対して、不思議ともう負けるような気がしなかった。
顔以外は痛くないので、きっとイケる。
いや、もちろん顔は痛いし、口がちゃんと開けれるか不安は残るけど……なんというかそれを超えたところで、あの髪のマガツキを『食わなきゃいけない』と感じている自分がいるのだ。
俺の様子を見て何かを言おうとしたユキちゃんを国見さんが制する。
きっと国見さん自身の目で俺が何をできて、どんな人間なのかを見極めるつもりなのだろう。
ユキちゃんもそれを察したのか、不満そうな顔ながらも国見さんの後ろに引いた。
「じゃあ、お任せしますね。」
国見さんに送り出された俺は、廃病院の中へと一人で進んで行く。
--*--*--
廃病院の中に入ると、髪のマガツキは隠れもせず堂々と俺を待っていた。
そして俺の頭に一言発する。
『オマエ ヲ クウ』
恐怖に駆られるでもなく、自然と笑いがこみ上げてきた。
『上等だ 俺が逆に食ってやる。』
勝手に動く思考。
放たれた言葉の後、すぐに襲い掛かってくる髪の触手。
素手で触手を掴もうとするが、やはり髪は手をすり抜け、掴むことはできない。
パンチを撃ちこんでも、するりと腕が通り抜けていくだけ。
髪のマガツキはその様子から安堵したのか、髪を鞭のように変えて俺を打ちはじめる。
俺の攻撃は一切通じず、マガツキの攻撃は確実に俺にダメージを与え始めていた。
痛い。
痛い……が、不思議と怖くない。
俺が全く攻撃できないが、不思議と不安が無く、髪のマガツキの行動を観察していた。
そして、髪のマガツキは一度噛み切られた俺の『口』だけに気を付ければいいと考えているように見え、余裕を感じているように見える。
その余裕からか一気に勝負を決めてしまうつもりになったようで、昨日のように髪を一点にまとめ、まるで猛獣のような口を作りだして、俺に向かってきた。
昨日の夜。俺に迫ってきた口。
あの時はユキちゃんに助けられた。
今は助けは無い。
でも俺は、多分
―― この口を受け止める事が出来る ――
そう思った瞬間。
手がまるで黒い手袋をしたような状態に変わる。
どこから出てきたのか、髪のマガツキと同じような髪が手を覆ったのだ。
そして髪を纏った手で、襲い掛かってくる口を『受け止めた』
「おらあぁぁあああっ!」
受け止めると同時に。腰投げのように猛獣の口を地面へと投げ飛ばす。
そしてそのまま髪の手袋に覆われた右手で、ハンマーを振るうように鉄槌打ちを繰り出して全力で打ちこむ。
髪を纏った拳で攻撃を受ける度に、髪のマガツキに効いているのが分かった。
そうして、拳を打ちこむ毎に弱っていく姿を見て、俺は思う。
―― コイツを喰いたい ――
叫び。
大口を開ける。
そのせいで顔の傷が開いて血が流れだす。
だが、そんな事が気にならない程にコイツを食いたい。
沸きあがる衝動に任せ、髪のマガツキに噛みつき。
そして、貪った。
……気が付けば、顔の傷から流れる血は止まっていた。