冬の姫君――壱――
自室に淡々と本を捲る音だけが静かに響く。外から大きなものが落ちる音がしたから、恐らく庭の柳に積もった雪か落ちたのだろうと文字を追う思考の片隅で考える。
正座をしたままに読み進めていた本がようやく読み終わり、ひとつ息をつく。数時間ぶりに体勢を崩すと脚に血液が駆け巡り痺れが苦痛となってじわじわと襲い掛かる。
「……痛い」
少し高い少女の声。雪のように真っ白な髪を腰まで伸ばした少女は、紅の瞳の端にほんのわずかに涙を浮かべ、痺れが引くまでしばし耐える。そんなに長くない程度の時間で引いた痺れに、またひとつ、ほう、と息をつくとのどの渇きを感じた。
「……部屋の加湿が些か不足していましたかね」
部屋の加湿のためにと置いていた水差しの残量はないに等しく、水差しの方も空になっていたことを思い出す。
「……やれやれです」
女中に水差しの交換をさせよう。
そう心の中で呟くと、数刻ぶりに部屋の外へと出た。
「失礼」
「雪様。いかがされましたか」
女中からの声に少女――雪は静かに答える。
「水を少々。それと、部屋の水差しの水が切れていたので交換をお願いします」
「かしこまりました。飲み水はいつもの場所に」
「わかりました」
礼を言って水瓶の傍の柄杓を手に取り、一口飲んで喉を潤す。部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、正面から父、露が歩いてきた。が、その顔はいつもより幾分か険しいように見えた。
「父上?」
「む。……ああ、雪か。どうかしたのか」
「いえ……少々考え事をされているような風でしたので、何かがあったのかと」
その言葉に露は顎に手を当て、何やら考えていた様子だったが、ふと雪の服装へと目をやりながら問いかける。
「……今日は冷えるな」
「はい?そうでしょうか」
その問いに首を傾げる雪の服は、薄い水色の薄衣を一枚。一方の露はといえば、白の着物に獣の毛で作られた上着を羽織っている。その上外を見やれば雪は音もなく降り続いている。言うまでもなく、今日は寒い日だと言える。なのにも関わらず雪は大したことはないという。その発言に露は眉間の皺を濃くしたが、雪は気が付かない。
「そうか。……いや、なんでもない。これから人と会う。それと、この頃賊が出ると報が入った。今日の夜から人を置く。以上だ」
「心得ました」
横に一歩ずれて頭を下げる。父が去るのを待って頭を上げて自室に戻り、自室の襖を静かに開け――る途中でその手を止めた。
「うーん……本当にここに例のやつがいるのか?俺にはどうにもそう思えんのだがなあ」
「……」
自分に背を向けて寝転がる一人の男が堂々といた。転がっているだけならまだしも、呑気に団子のようなものを食べていた。幸いにも外を見るような方は向いてはいないがどう考えても先ほど話した賊であろう。
何事もなかったかのように雪は無音で襖を閉めると、父の部屋へと急ぎ、正座してその襖を叩く。
「父上、失礼致します」
襖を開くと厳めしい父の目が冷たく突き刺さる。
「何用だ。今、客人を」
「わたくしの部屋に賊が」
「――は?」
父の呆気に取られた声というのは初めて聞いた。そんなことを思っていると、客人という桃色の髪の男が苦笑いしながら呟く。
「やれやれ、あの者ときたら……」
「桜殿?」
桜――父にそう呼ばれた人物は疑念の声にああ、と軽く手を振る。
「なんでもありませんよ。それより、賊だというのなら疾く捕えたほうがよろしいかと」
「む、そうであるな。――ということだ。剣、槍」
露の後ろに控えていたこの家の用心棒が立ち上がる。
「雪の居室にいると思われる、捕えよ。ただし殺すな」
「「御意のままに」」
一言を残し、二人が部屋を出ていく。その様に桜は口元を覆い軽く微笑む。
「大変ですね」
「いやはや、お見苦しいところを失礼しました」
「失礼ながら父上……」
「ああ、紹介が遅くなり申した。桜殿、こちらが私の娘の雪だ」
紹介を受けて雪は姿勢を正し、頭を下げる。
「お初にお目にかかります、雪と申します」
と、彼の方からわずかに笑う声が聞こえた。
「どうか頭を上げてください、雪殿。美しい顔が見えずに隠れてしまってはもったいない」
「……失礼」
顔を上げて改めて雪は桜の顔を見る。翡翠を連想させる翠色の瞳。桜を投射したような桃色の長髪を後頭部の少し上の方で結んでいる。垂れ目が彼の雰囲気を柔らかくしていて黄色の上衣がそれを調和させている。
「そして雪、この方は桜殿。隣国から旅をしてきたとのことだ」
「ご丁寧に痛み入ります。突然の来訪失礼致します。隣国より見聞を広げるべく旅をしております桜と言います。どうぞお見知りおきを。それと、桜でいいですよ」
互いの紹介を済ませると、にわかに外が騒がしくなってきた。
「さて、賊を捕まえたようだな。桜殿、申し訳ありませぬが……」
「よければ、私も同席させていただけませんか?こんな明るいうちに侵入して捕まる賊なんて、そう見れるものではありませんからね」