異世界のオークな決闘
「そうか。ならばいっそのこと決闘で決着をつけるというのはどうだ?」
少女の凛とした声が広間に響く。
「決闘ですと?」
応えたのは中年の男だった。
「まさか姫様と、この私が決闘するというのではないでしょうな?」
「まさか。私はよくても、今のケレネス卿に決闘は苦しかろう」
若い頃のケレネス伯爵は、ひとかどの武人として知られた男だった。しかし年を取り、不摂生な生活を送ってきたため、今のケレネス伯爵はすっかり肥満体だ。
「これはお恥ずかしい。しかし、では誰と誰を戦わせるおつもりでしょうか?」
「お互いに一名ずつ代表者を出すというのはどうだ?」
「それは――」
「ケレネス卿の配下に剛の者がいることは知っている。確かワズンといったか?」
「ご存じでしたか。確かに私の知る限りワズンは最強の武人です。もし姫様が戦うおつもりでしたら、誠に失礼ながらおやめになった方がよろしいと思いますが」
「案ずるな。私の配下にも剛の者がいる。私など足元にも及ばないほどの、な」
「ディアンの剣姫と呼ばれるセレーネ殿下にそこまでいわせるとは、相当の自信があるようですな」
「当然だ。だから決闘を申し込んでいる」
セレーネの態度は堂々としており、言葉通り自信に満ちていた。
「私が勝てば、今回の件は全て不問に付した上、我が息子との婚約も了承するとのお言葉に、二言はないのですな?」
「ない」
透き通るような、そして力強い声でセレーネが断言する。
「ニフラムの女神に誓おう。よろしいですかルジナス殿」
「確かに承りました」
ルジナスと呼ばれた若い男が一礼する。身につけているゆったりとした白い衣服は、ニフラムの女神を信仰するニフラム教の神官服だ。
「ではケレネス卿もよろしいですか?」
「いいだろう。私もニフラムの女神に誓おう」
「わかりました。これで両者の誓いは神聖な誓いとなりました。もはや破ることは許されません」
ルジナス神官の言葉を聞いて、ケレネス伯爵がニヤリと笑った。
ニフラム教の神官を立会人として、女神の名で誓ったことは絶対だ。もし破れば神殿を敵に回すことになる。セレーネがここディアン王国の姫であっても、いや王国の姫だからこそ、そんなことはできない。
セレーネ姫にはかなりの自信があるのだろうとケレネス伯爵は思った。私など足下にも及ばない、という彼女の言葉は大げさだとしても、自分で立ち会い、勝てなかった腕利きを配下として連れてきているに違いない。
幼い頃から剣の天才とたたえられ、男であれば天下無双も夢ではなかったものを、とまで言われたセレーネ姫だ。ディアンの剣姫と呼ばれる彼女に勝てる者は、王国広しといえどそうはいない。
そんな彼女に勝った男ならば、やはり並の腕ではないのだろう。
しかしセレーネ姫はワズンという男を知らなかった。それが姫様の敗因です、と心の中で笑いながら、ケレネス伯爵は彼を呼んだ。
「ワズン! いるか」
「はっ! ここに」
戦いになったときに備え、あらかじめ広間の外に待機させておいたため、ワズンは返事とともにすぐに現れた。
「いかがですかな姫様? これがワズンです」
「なるほど。これは強そうだ」
ワズンは巨大な男だった。身長は二メートル近い。そして背が高いだけでなく体つきも大きい。肩幅は広く、胸板は厚く、全身が筋肉の鎧で覆われているようだ。
初めてワズンを目にした者は、まずその大きさに呆気にとられる。
ところがセレーネはあまり驚いた驚いた様子を見せなかった。
彼女が目を見張って驚くことを期待していたケレネス伯爵は、当てが外れてがっかりしたのだが、すぐに虚勢を張っているのだろうと思い直す。
今更勝負をなしにはできませんぞ姫様――内心で笑うケレネスは、セレーネの全身をなめるように見ながら、さらに妄想を膨らませる。
息子の嫁にする前に、まずは自分で楽しむというのはどうだろう。
セレーネはその強さだけでなく、美しさでも知られた姫だ。まだ十五歳でありながら、すでに男を惑わすような色香もただよわせている。胸が小さいことだけが残念だが、それでもこの高貴で美しい少女が自分のものになると思うと、次から次へとやりたいことが浮かんでくる。
そんな妄想に耽っていたからだろう。ワズンは気付くのが遅れた。近づいてくるその足音に。
「な、なんだ?」
重々しい足音ともに床がかすかに揺れた。ワズンがそれに気付いたのは、足音の主が広間のすぐ外まで来てからだった。
まるで何百キロもあるような巨体が、ゆっくりと歩くような重々しい足音が響く。
「私の方も来たようだ。リョーチ、入って来い」
「はい」
地の底から響くような返事とともに、広間の扉が開き、声の主が入ってくる。
何百キロもありそうな巨体が歩くような足音の正体は、そのまま何百キロもありそうな巨体が歩く足音だった。
身長は三メートルを超えているだろう。全身が黒ずくめだった。頭には黒い金属製のフルフェイスマスク。首元から脚の指先まで、やはり黒く分厚い金属製の全身鎧を装備している。
「ば、化け物……」
両目を見開いたケレネス伯爵の口から、そんな震え声が漏れる。どう見ても、これは人間のサイズを超えている。
「失敬な」
リョーチと呼ばれた男が低い声で応える。リョーチというのは彼の正しい名前でない。この国の言葉では正しい名前の発音が難しいためリョーチと呼ばれているのだ。彼の本当の名前はリョウイチという。
本名天城良一。日本生まれ日本育ちの日本人。
大学を卒業後、大手自動車メーカーの系列会社に入社。以後勤続十年。大きな失敗もなかったが昇進もなし。ただ元々出世欲はなかったので気にしておらず、仕事よりも趣味の方が大事。独身で恋人もいない。そんなどこにでもいそうな日本の会社員。
そんな俺が、なんでセレーネ姫の配下として決闘してるんだ? どうしてこうなった?
この世界に来てから、何度も何度も繰り返してきた問いかけだが、もちろん答えは出ない。
とにかく今は決闘に勝つことを考えようと良一ならぬリョーチは思い直し、対戦相手のワズンという男を見る。
ワズンは見るからに強そうな男だった。もし日本にいた頃のリョーチが彼と戦うことになっていたとしたら、即座に土下座してあやまっていただろう。
だがそんな強そうなワズンも、今のリョーチを見て顔色を変えている。
それはそうだろう。今のリョーチは身長三メートルを超える巨漢なのだ。あのケレネスとかいう男の言うように化け物である。そして実際に化け物でもある。
リョーチが身に覆う黒い全身甲冑は、防具としてだけではなく、鎧の中の正体を隠す役目も持っている。
今のリョーチは人間ではなく、この世界でオークと呼ばれる化け物になっていた。
口から長い牙を生やした、醜く凶暴な顔。暗緑色の肌に、筋肉の塊のような巨大で強靱な体。三メートルという身長も、成長したオークとしては小柄な方らしい。
知能は低く、性格は凶暴かつ残忍、しかも性欲旺盛。人間を見れば問答無用で襲いかかり、若い女なら犯して子を産ませ、それ以外なら殺す。凶悪かつ強力なモンスターとして、この世界で恐れ嫌われている存在。それがオーク。それが今のリョーチだ。
どうしてこうなったかはわからない。日本で死んだら、異世界でオークになっていたのだ。
先程のケレネス伯爵の言葉もリョーチは否定していない。失敬なと言っただけで、自分が化け物ではないとは言っていない。
当然、オークであることは秘密にしなければならない。もしオークだとわかれば、問答無用で討伐されてしまうだろう。そのための黒い全身鎧だ。幸い、知能の低いオークが人の言葉をしゃべるなどあり得ないことなので、言葉を話すリョーチはどうにか人間扱いしてもらっている。
「それでは場所を移すとするか」
セレーネの言葉に従い、広間にいた全員が屋敷の中庭へと移動する。
今リョーチたちがいるのはケレネス伯爵の屋敷だった。かなりの広さがある屋敷で、中庭も広い。一対一で決闘するぐらいのスペースは十分あった。
そこでリョーチとワズンは数メートルの距離を置いて向かい合う。
ワズンが手にしているのは、巨体にふさわしい大振りの剣だった。並の男でも持つのがやっとというぐらいの大剣を、軽々と構えているのはさすがだった。
一方のリョーチが手にする武器は太くて長い鉄の棒だった。直径十センチ、長さは三メートルぐらいで、こちらは並の男では持ち上げることも無理だろう。
オークの力は圧倒的だったため、とにかく振り回しても壊れない頑丈な武器を、ということで造られたのが、この無骨な鉄の棒だった。
「それでは始め!」
審判を務めることになったルジナス神官が決闘の開始を告げると、いきなりワズンが動いた。
「うおおおおおおおっ!」
雄叫びを上げて突進するワズンの様子は、どこか追い詰められた獣を連想させた。
彼は両手で剣を振り上げ、渾身の力を込めて振り下ろす。狙いはリョーチの左足だった。
ワズンとしては、狙えるなら頭を狙いたかった。頑丈な兜をかぶっていても、上から衝撃を与えれば脳震盪が狙えるからだ。だがリョーチの身長が高すぎて剣を届かせるのは難しい。そこで狙ったのが足、それも膝の関節部分だ。ここは構造上どうしても弱点となる部分だった。
リョーチは立ったまま動こうともせず、ワズンの一撃は狙い通りリョーチの左膝に当たった。
重い金属同士をぶつけた音が響いたが、リョーチは小揺るぎもしなかった。
膝などの関節部分が弱点になることはわかっていたので、そこには鎖帷子を重ね着込んで補強してあった。人間ならば重さが問題になっただろうが、オークの力ならば問題ない。
それでもワズンの一撃は強烈だった。受けたリョーチにはそれがよくわかった。前のリョーチの体なら、鎖帷子を着けていても、衝撃で足の骨を折られていたかもしれない。
だが今のリョーチはオークだ。元々オークの頑丈さはよく知られている。人間の一撃など、オークにとっては子供のお遊び程度、などと言われるぐらいなのだから。さすがに素肌で剣の一撃を受ければ傷付くが、分厚い鎧の上から叩かれても平気だった。
姫様の言った通りか、とリョーチは思った。
リョーチはセレーネから戦い方の指導を受けていた。強靱なオークの体を持っていても、リョーチは戦いに関して素人だったからだ。日本で生きていた頃は、武道どころか運動すら滅多にやらない生活だった。
いかに力が強くても、ただ力任せに動くだけでは、本当に技量の高い相手に不覚をとるかもしれない。
「実際、オーク相手に一対一で勝てる者もいる。それはオークの知能が低いからだ。人間はそこにつけ込み勝機を見出す。だがリョーチには考える頭がある。お前がそれなりの技量を身につければ、おそらく一対一で勝てる者はいなくなるだろう。魔法使いは例外だが」
そう言ってセレーネはリョーチにある戦い方を教えた。
単純だが、リョーチにしかできない戦い方だ。それは――
「その程度か?」
わざと馬鹿にする口調でリョーチが言った。
「這いつくばって許しを請うなら、許してやるぞ」
露骨な挑発だったが、それなりの効果はあった。
「ほざけ!」
怒りもあらわに、再びワズンが斬りかかる。狙う場所は先程と同じ左膝。一撃では無理でも、攻撃を重ねればダメージは蓄積していくはず、という考えからだ。
リョーチはその攻撃にタイミングを合わせる。
攻撃をよけるというのは難しかった。ワズンはパワーだけでなくスピードも兼ね備えており、その鋭い一撃を回避するだけの技量をリョーチは持っていない。
だが攻撃に合わせてこちらも攻撃することはできた。
ワズンの二撃目がリョーチの左足に当たる。それにワンテンポ遅れ、リョーチが横に振った棒がワズンを捉えた。
両者とも攻撃が当たった点では相打ち。だが与えたダメージは大違いだった。
ワズンの攻撃は、最初の一撃と同じようにリョーチにほとんどダメージを与えられたなかった。
だがリョーチの一撃はワズンに大ダメージを与えた。
リョーチは右から棒を横に振った。力任せの一撃だったが、力が力だけに恐ろしく速い。しかもワズンも攻撃態勢にあったので回避は不可能だった。それでも彼はとっさに左腕を上げてガードしようとしたのだが、それで防げるわけがない。
鉄の棒はワズンの左腕の骨を粉々に粉砕し、そのまま彼の巨体を吹き飛ばした。体重百キロを超えるような巨体が宙を舞い、数メートル先の地面に激突、それでも勢いは止まらず彼の体は何回転かした。
「ぐおおおっ!?」
地面に倒れ、折れた左腕を押さえたワズンから、獣のような悲鳴が上がる。
「勝負あったな」
笑みを浮かべてセレーネが言った。隣のケレネス伯爵は顔面蒼白だ。
リョーチがとった戦法は、相手の攻撃に合わせて自分の攻撃を当てる、いわゆるカウンターだった。
本来カウンターは危険が伴う高等テクニックだ。タイミングが遅れれば一方的に相手の攻撃を受けるし、同時に攻撃が当たれば相打ちという、まさに肉を切らせて骨を断つ戦法である。
だがリョーチの頑丈なオークの体と、常識外れの分厚い鎧が、カウンターを安定した戦法に変えてしまった。
今の両者の攻撃も、明らかにワズンの方が速かった。これが人間同士なら、斬られて倒れているのはリョーチの方だったはずだ。
だがリョーチは相手の攻撃を難なく受け止めて、相手より少し遅れた攻撃が見事にヒットした。
「どんな達人であれ、力を入れて攻撃すれば隙ができる。お前はそこを狙うんだ」
というのがセレーネの教えで、リョーチはそれを練習していた。
並の相手ならオークの力でごり押しすれば勝てる。ごり押しで勝てない相手にはカウンターを狙え、というわけだ。
これも一種のチート戦法だよな、とリョーチは思った。普通の人間には決してマネのできない、オークとなったリョーチだけができる戦い方だ。
「さて、まだやるか?」
折れた左腕を押さえてうずくまるワズンを見下ろし、リョーチが訊ねた。
現代日本にいた頃のリョーチはケンカもしたことのない人間だったが、今こうして人の腕を折ったというのに少しも動揺していない。
事前にセレーネからワズンについて聞いていたのも、落ち着いていられる理由の一つだろう。
「奴は確かに強いが評判はよくない。強さにものを言わせて、女を襲ったり金を奪ったりとやりたい放題。無実の人間を何人も殺しているような奴だから、遠慮はいらんぞ」
日本にいた頃のリョーチなら、そうは言われても、やはり人を傷つければ強い罪悪感を覚えたはずだ。
多分オークになった影響だよな、とリョーチは思った。
この世界に来てオークになってから、自分がひどく暴力や他人の命を軽く感じるようになったことをリョーチは自覚していた。
すでにリョーチは戦いで何人も殺しているのだが、罪悪感は非常に薄い。例えるなら、ゲームの中で敵キャラを殺すような感覚だ。
自分の精神が変わっていく事への恐怖はあるが、殺し殺されるのが当たり前のこの異世界では、それで助かっているのも事実だ。
「どうするんだ?」
再度リョーチが訊ねると、
「……俺の負けだ」
苦渋に満ちた声でワズンが負けを認めた。
決着がついたので、リョーチは彼に背を向けてセレーネのところへ戻ろうとした。戦いに抵抗がないとはいえ、無抵抗の相手を殺すのはやはり嫌だった。
だがうずくまっていたワズンがいきなり立ち上がり、歩き去ろうとしたリョーチへ背後から襲いかかった。
叫び声を上げたワズンは、リョーチの背中に飛びついた。ワズンは巨漢だったが、身長三メートルを超えるリョーチの背中にしがみつく様子は、まるで子供が大人におんぶされているようだ。
左腕が折れて使えないというのに、ワズンは右腕一本でリョーチの首に手を回してぶら下がる。そしてその右手には、彼が持っていた短剣が握られていた。ワズンはその短剣を、鎧の首の接合部分から差し込もうとしたのだが、やはり右腕一本だけでは上手くいくはずもなく、短剣は鎧の表面にガチガチと当たるだけだ。
ワズンがこれで本当にリョーチを殺せると思っていたかはわからない。無駄だとわかっていながらも、負けを認められずにあがいたのかもしれない。
だが一度負けを認めると言ったのに攻撃してきた以上、リョーチは容赦しなかった。
リョーチは右腕でワズンの右腕をつかみ――そのまま握りつぶした。
骨が砕かれる音とともに、またもワズンが悲鳴を上げたが、リョーチは構わず、右腕をつかんだまま一本背負いのような格好で彼の体を地面にたたきつけた。
身長三メートルを超えるリョーチが力任せにたたきつけたのだから、その威力はすさまじいものだった。
頭から地面に激突したワズンの首はおかしな方向へ曲がり、彼は二度と動かなくなった。
「今度こそ決着だな」
「はい。確かに見届けました。女神の名においてセレーネ様の勝利を宣言致します」
余裕の笑みを浮かべるセレーネ、そして穏やかに告げるルジナス神官。
「では、さっそく約束をはたしてもらおうか」
「ま、待って下さい!」
当初の約束のことを思い出したケレネス伯爵が、慌ててセレーネに懇願する。
「いきなり全ての奴隷を持って行かれては、当家も成り立ちません! どうか半年、いえ一月だけでも――」
セレーネとケレネス伯爵の間で交わした約束では、伯爵が勝てばセレーネが伯爵の息子と婚約することになっていた。
そんな条件を飲むぐらいだから、当然ながらセレーネの方もそれに見合うだけの要求を伯爵に飲ませていた。
彼女が出した要求とは、勝てば伯爵の奴隷を全員もらい受けるというものだった。しかも、
「すぐに全員、という約束だったな?」
「はい」
セレーネが確認すると、ルジナス神官がうやうやしく頷く。
この世界ではまだまだ奴隷制が広く施行されている。ディアン王国にも奴隷制度があり、貴族ともなれば大量の奴隷を抱えている。
そんな奴隷を一度に全て譲渡するとなると影響は非常に大きい。日本で例えれば、大量のバイトを一気に全員引き抜かれるようなものだ。そんな危険な勝負をケレネス伯爵が勝負を受けたのは、やはり勝つ自信があったからなのだが、あっさりと負けてしまった。
ニフラム教の神官立ち会いの下で交わされた約束を反故にはできない。それでも少しでも条件を緩和してもらおうとケレネス伯爵は必死に訴えた。対するセレーネは、
「リョーチ」
呼ばれたリョーチが無言でケレネス伯爵の前に立つと、それだけで伯爵は腰を抜かした。
「ひい!? わかりました、わかりましたから!」
リョーチはそんなケレネス伯爵を少し哀れに思ってしまったのだが、すぐに思い直す。
こいつは奴隷たちを酷使し、ひどい目にあわせてきた男だ。奴隷を失ったとしても自業自得というものだ。
王国における奴隷の待遇は主人次第で、中には平民同様に奴隷を扱う主人もいる。その中でケレネス伯爵は奴隷に厳しい主人として知られていた。そんな男に同情するつもりはなかった。
リョーチにおびえたケレネス伯爵は、すぐに奴隷たちを呼び集めた。とはいっても、外で農作業に従事している奴隷などは集めるだけでも時間がかかるため、ひとまず屋敷で働く奴隷だけが集められた。
その数二十三名。ほとんどが女性と子供だった。男の奴隷は外で力仕事をさせられているのだろう。
集められた奴隷たちは、リョーチの巨体を見て一様に目を丸くしていた。
そしてリョーチはガタガタと震えていた。鎧からガチャガチャと金属音が鳴り、奴隷たちがおびえた目を向ける。
「落ち着け」
とセレーネに言われても、落ち着けるわけがなかった。なにしろ目の前には本物がいるのだから。
リアルだ。本当にリアルなケモミミだ! それもこんなにたくさん!
集められた奴隷たちは皆、普通の人間ではなかった。頭の上に耳が生え、腰の後ろあたりから尻尾が生えている。彼らはこの世界で獣人と呼ばれる種族だった。
一方のリョーチは、日本にいた頃はケモミミ好きのオタク、ケモミミストなどと呼ばれる人間だった。
獣人たちは、人間にケモミミと尻尾を生やした姿をしており、そこを隠せば人間と見分けがつかなくなる。これはケモノが好きなケモナーまでいかないリョーチの趣向にどストライクであり――よくあることだが、ケモミミ好きとケモナーの線引きも微妙な問題であり、リョーチも何度もネットで議論を交わしたこともあるのだが、ここでは置いておく。とにかくリョーチはケモミミが好きなのだ――リアルケモミミを前にして、落ち着けというのが無理だった。
最初、いきなりこの世界に飛ばされて、しかもオークになってしまったことに深く絶望したリョーチだったが、ケモミミの獣人たちがいて、しかも彼らが人間たちに奴隷として虐げられていると知り、リョーチは己のやるべき事を悟った。
ケモミミたちを助ける! これこそが使命に違いない!
幸か不幸か神様などには会っていないため、自分がどうしてこの世界にやってきたかはまるでわからないのだが、すでにリョーチは自分のやるべき事を見つけていた。
リョーチがセレーネに協力しているのもそれが理由だ。今、彼女は小さな獣人奴隷の女の子の前でしゃがみ、その子の頭を優しくなでている。
美しい光景だった。見た目はとんでもない美少女のセレーネが慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、かわいいケモミミの女の子の頭をなでているのだ。これを美しいといわずして、何を美しいというのか。
だがリョーチは知っている。セレーネの女神のような笑顔の下に、邪神のような欲望が潜んでいることを。
彼女もまたリョーチと同類なのだ。ケモミミのかわいい女の子が好きという、まさに同じ趣向を持つ同志なのだ。そして彼女の夢はかわいいケモミミ女の子を集めてハーレムを作ることだという。
これがもし、イケメン王子だったならリョーチは協力しなかっただろう。何がハーレムだと暴れていたかもしれない。なにしろ今のリョーチはオークなのだ。ケモミミの女の子に触ることも許されない。
だがセレーネは美少女だった。だったらいいかなと思ってしまった。人間の美少女とケモミミ美少女がキャッキャウフフするのは、リョーチの一押しアニメだった「魔法少女列伝リリカ」そのままであり、実際この目で見ても美しい。
それにセレーネからはしっかりと確約も取っている。獣人たちは全員奴隷から解放し、改めて対等の契約を結び直すこと。本当にハーレムを作るにしても、決して無理強いはしないこと等、彼女が暴走するなら責任を持って止める覚悟だった。
ちなみにリョーチがこの世界に来たのは、「魔法少女列伝リリカ」の劇場版公開初日に、映画館へ向かう途中で落雷にあって死亡して、だった。せめて映画を見終わってからにしてほしかった、という思いは今も強く残っているが、この美しい光景を見て少しは心癒された。
しかし同時にもどかしい思いもこみ上げてくる。
リョーチも今すぐあそこに行って一緒に混ざりたいと思った。直接ケモミミに触れて、ケモミミ女の子と楽しく戯れたい。
だが今のリョーチはオークである。この黒い鎧を脱ぐことはできない。日本で服を脱いで女の子に飛びかかれば逮捕だが、ここで鎧を脱いでケモミミ女の子に飛びかかれば、逮捕どころか討伐されてしまう。
うずうずしながら衝動を抑え、リョーチは自分に言い聞かせた。
それでいいじゃないか。一度死んでしまった自分が命を拾い、リアルケモミミ少女を見ることもできた。それでいいじゃないか。なお、この場にはもちろん男の獣人もいたのだが、リョーチにそっちの趣味はなかったため視界に入っていない。
せっかく拾った二度目の人生、いやオーク生だ。自分のためではなく、ケモミミ少女たちのために尽くそう。
そして事実、リョーチはこの異世界でケモミミ少女たちのため、激動のオーク生を送ることになる。
十月二日はケモミミ人にとって重要な日である。その日がケモミミ共和国の二大祝祭日の一つ、解放記念日だからだ。
大神歴一〇五五年十月二日。ディアン王国のセレーネ姫によって、ケレネス伯爵が所有していた三百八十三人という大量の獣人奴隷が奴隷身分から解放された。解放記念日はそれにちなんだ祝日である。
それまでも奴隷から解放された獣人はいたし、大量の奴隷が脱走したという事例もあった。だがこれだけ大量の奴隷が、一度に合法的な手段によって解放されたのは、この時が初めてのことだろう。
その時の出来事について、ケモミミ共和国初代大統領のルーゼック・ハインドは、バイゼルンとの開戦を告げる演説の中で次のように語っている。
奴隷解放と聞けば、多くの人は喜びに沸き立つ獣人たちを想像するだろう。だがその時の我々に喜びはなかった。小さな子供だった私は、そもそも奴隷から解放されるという意味すらわかっていなかったし、大人たちも事態を理解出来ず、戸惑っているだけだったと思う。
代わりにその場にいた人間たちのことは強く印象に残っている。
後のディアン王国女王セレーネ姫は、女神のように美しく、慈愛に満ちた笑顔で私たちのことを見ていた。
後に獣人の社会的地位の向上に大きく貢献してくれることになるルジナス神官は、泰然とした様子で立っていた。
そして彼は大きかった。初めて彼を見た我々は、その巨体に圧倒された。
偉大なる黒い戦士リョーチ。彼はその巨体を小刻みに震わせていた。鎧の下で顔は見えなかったが――そう、初対面の時から彼はあの巨大な黒い鎧を身につけていたのだ――おそらく彼は泣いていたのではないだろうか。奴隷から解放された我々を見て、感激の涙を流していたのだと思う。
そして彼はおもむろに右手を天に突き上げ叫んだのだ。
「ケモミミ最高!」と。
それにつられるようにして、セレーネ姫もまた「その通りだ。ケモミミは最高だ!」と声を上げた。
今でこそ、我々は誰でもケモミミという言葉を知っているが、初めて聞いた私には理解不能だった。何を言ってるんだこの人たちは、と恐怖したのを今でも覚えている。
後にリョーチ自身から、ケモミミとは彼の生まれ故郷の言葉で、まるで幻のように尊く美しい存在を意味すると教えてもらった。そして彼はこうも言った。獣人こそが自分のケモミミなのだ、と。
その言葉にウソはなく、彼は我ら獣人たちを心の底から愛し、獣人たちのために尽くしてくれた。彼が我々のためにしてくれた貢献はあまりに大きく、我々が彼に返せた恩はあまりに小さい。
我々は、我々をケモミミと呼んだリョーチのためにも、常にケモミミであらねばならない。
不正な侵害には断固として立ち向かい、常に誇り高く美しいケモミミであらねばならない。
私は解放の日に、あの偉大な三人のおかげで自由を手にすることができた。そんな私だからこそ、いまだ隷属に苦しむ多くの同胞たちを救う義務がある。
今度は我々自身の手で、歴史に新たな開放の日を刻むのだ。
ケモミミ最高、ケモミミ万歳!
シュバ・バーン「ケモミミ共和国の物語」より抜粋