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【試練】ご主人様、デビューする

【試練】ご主人様、デビューする



 わたしと高貴な下僕さまは、二層になっているダイニングルームの、その二階部分に入った。すぐ眼前に現れたのは、下の階へと通じる大階段だった。これからそこを下りて行く。


 ゆるくカーブした大階段の手すりやその柱を飾る彫刻は、それは見事なものだった。二手に分かれた階段の真ん中には天秤を持つ女神の大理石像が飾られ、その女神アストレアがこの船の船籍をはっきり示している。

 

 この見事な大階段がたぶん、船の中で最も力を入れて作られている部分。ようするに目玉だ。

 そして、その目玉の場所を下りて行くということは――。


(うっ)


 心の準備はしたはずだけど、それが一瞬で吹っ飛ぶ。


「王太子殿下だわ!」

 目ざとく気づいた誰かの声で、一斉に集まった視線。


 広いダイニングに集まった、紳士諸氏ならびに着飾った貴婦人がた。すでにテーブルにつき、下から上を見上げる彼らの視線を遮る物は何もなく、誰もがしっかり目撃しただろう。


(……だめよ、気が遠くなってる場合じゃないわ!)


 できることなら目立ちたくない――というわたしの希望は、このとき儚く潰えた。いや、予想しておくべきだったのかもしれないけれど。


 船でもっとも高貴な賓客を迎えるために、紳士貴顕が立ち上がる。


 遠慮など欠片もなくジロジロと見つめられる中、王太子殿下と、その供のわたしが大階段を下りて行きます。怖い。さすがに怖いです。動作のひとつひとつを監察されている状態で冷静に振る舞うのは、よほどの胆力がないと無理だ。さすがに怖気づく。


 しかしさすがというべきか、隣のお人は慣れたものだった。


「中は暑いな。ミス・リントン、あなたは平気だろうか?」

「え、ええ……あ、暑いんですか?」

「上着のせいかな。いつも思うのだが、どうしてこうも男女で格好が違うのだろう? 同じ気温の場所で過ごすというのに」


 苦笑する様子は今までと変わらない。彼は否応なしに集まる視線ことなど何ひとつ気に留めず、恐ろしく超然としていた。まるで、周りのことなど一切関係ないと言わんばかりに。


 すごいなこの人。初めて素直に感心した。


 注目されようがどうしようが、どこまでも落ち着き払っていられる王太子にエスコートされ、わたしは無事にテーブルへと着いた。ダイニングルームのど真ん中に位置する丸いテーブルに。


「王太子殿下! お待ちしておりました、どうぞ、お席はこちらです」


 いそいそと出て来た船長みずからの案内で王太子が席につくと、やっと、立っていた他の人々も着席できる。わたしも含めて。


「あ、待て。ミス・リントン」

「え?」


 唯一空いていた椅子が自分のだと思い、そこに座ろうとした。すると慌てて立ち上がったのは王太子様。隣同士ではなかったことに不満でもあるのかと思ったら、違った。


「椅子を」


 優しく微笑むレオポルド様、何をするのかと思えば、椅子を引いて下さいました。もったいなくも、この木っ端な田舎教師のために。


「……」


 されるがまま、座らせてもらう。すぐに反応できず、無言で。


(だめだ)


 赤くなってる場合じゃないんだから。しっかりしないと。

 

 わたしが思いがけず動揺する一方で、そのやりとりはばっちり見られている。誰にって、誰もかれもだ。昨日の夜とは比べ物にならないほどの驚きが、ダイニングルームを支配した。中には声にならない悲鳴もあったかもしれない。


「その、コホン。ご紹介させていただきましょう。皆さま、こちらはミス・リントン、南セントジョセフ島から乗船されました」


 同じように驚いていたマカリスター船長が我にかえる。同じテーブルについている人々にわたしの名を告げると、そのついでに彼らのことも語ってくれた。


 あまり冷静ではない状態で知る。今夜ここに集まっている客層は、昨夜とは全く違う人たちだと。さもありなん。


 外交官であるエリスター侯爵とその妻に、三つの大陸に不動産を持つ大富豪の準男爵。侯爵夫人の横に座る苦み走った白髪の紳士は、アストレアの新聞王だそう。そこに王太子殿下という賓客が加わることで、テーブルの格がさらに上がった。


 男性も女性も、それぞれ最上等に着飾っている。比べるのはおかしいけれど、辺境の島のダンスパーティーとは雰囲気からして違った。貴婦人がたは当たり前のようにダイヤモンドや高価な宝飾品を身につけ、ドレスはきっと社交界の最新モードか何かだ。頭に光るのは羽根飾りやティアラ、鼈甲(べっこう)の櫛。制服のように黒のイヴニングコートで決めた紳士がたにパッと見の違いはないけれど、その姿はやはりスマートだ。


 対してわたし、ジゼル・リントンは。朝、急いで詰めた荷物から出してきたばかりドレスだ。もともと今の自分が持っている中で、夜会にも着ていけるようなドレスはただの一着。


 胸元が大きく開き、袖はごく短いローブ・デコルテ。色はほんの少し青の入った薄緑で、クリーム色のレースが要所を飾る。もちろんコルセットで腰を絞り、スカート丈は少しばかり床をひきずるほどの長さ。


 一年、いや二年以上前だ。仕立たのは。実家を出て島に来る時、念のためと思って持って来たけれど、一度も腕を通す機会はなかった。素朴なセントジョセフ島の人々は、夜会用ドレスの露出も慎ましやかだから。


 しかしここは違う。他の貴婦人たちのドレスはわたしとそう変わらない。もちろんよく見れば、細部の違いはあるだろうけど。値踏みされた結果は、エリスター侯爵夫人の視線でわかる。合格でもないけれど、ぎりぎり不可でもないというところか。


「それで、ミス・リントン? ええと、ご旅行ですか、船に乗られたのは」


 おっと、衣装ばかりを気にかけている場合じゃなかった。白いお仕着せの給仕によって、すでに最初のコース料理が運ばれている。食事では周囲の人と会話しないと。

 隣席の不動産富豪が戸惑った顔をしていた。孔雀の群れに紛れこんだ一羽のガチョウのようなわたしに、何を話しかけたらいいかわからないのだろう。


「――ええ、はい。わたくしはセントジョセフ島で教師をしているのですが、これからグラン・リオンへ向かう予定です」

「ほう。ではその、あちらで何かご予定でも?」


 何をって。困った王子様を操縦するためですわ、と正直に答えられるはずもない。


 田舎教師がどうしてまた、王太子に同行して船出したのか。

 こんな疑問を向けられた時のため、すでに相談はしてある。中尉たちと。


「植、植物を研究していまして。その、趣味で。それであちらでも、珍しい植物の観察をと」

「ああ、植物学ですか! なるほどわかりましたよ、さてはそれで王太子殿下と意気投合されたのですな? 島で下船されていた間に」

「そう、そうなんです。もったいないことですわ、それが高じまして、おそれ多くも殿下の旅行に同行させていただく栄にあずかることに」

「ではあちらでも同行なさるのですか! 驚きましたな、ミス・リントン。きっとあなたはその道のエキスパートに違いない。ずいぶんと見込まれているのでしょう」

 

 紛れこんだガチョウ、わたしという人間の立場を自分なりに理解できたのだろう。不動産富豪の孔雀はずいぶんとほっとした様子だった。

 同好の士ならば、身分が天地に離れていても関係ない。平凡な一教師を王太子が連れ歩いても、それほど不自然でない口実だ。


 それにしても植物学。なんだか妙に繊細そうなこの学問が、王太子が大学で専攻した学問だそうだ。どうしてまた、とはわたしも思った。


 美しい人間には美しい花の研究こそが相応しいから。とかいう理由だったらわたしは生あたたかい目で見るしかなかっただろう。しかし違うらしい。


『ダーツが刺さったから』。


 というのが、植物学を選んだ理由だと教えてくれた。なんでも専攻を決める時、教授の名前を書いた紙を壁に貼り、てきとうにダーツを投げたそうだ。そして、刺さった教授の講座に入ったと。


 別の意味で頭が痛くなる理由だけれど、本人が真顔でそう言うのだから本当だろう。昔と違って王権に実体がない以上、王子が何を学ぼうが自由かもしれないが。


 その本人に、ちらりと目を向ける。テーブルの斜め右、花が盛られた大きな花瓶ごしに見たレオポルド様のご様子はというと。


「うん? どうかしたのか、ミス・リントン」


 隣席の船長としゃべっていたはずが、こちらの視線を受け取った途端、高速で訊いてくれた。まさかわたしの動きに注意を払い続けているのかしらと、また気が遠くなる。


「いいえ、王太子殿下。なんでもありません」


 引きつりそうなのをこらえ、どうにか笑顔でそう答えた。すると。


「――たいそうご執心でいらっしゃるのね、王太子殿下?」

「レディ・ジュリエット? 執心というのは何のことだろう」

「まあ殿下ったら。おとぼけになられるおつもり? 嫌だわ」


 手で口元を隠し、おかしそうに言ったのは、たいそう美しい女性だった。


 長いまつげに縁どられたのは青い瞳。目鼻立ちがはっきりした美人で、透き通った白い肌はクリームのようになめらか。白いひたいには芸術品のように完璧に巻かれた金の髪が垂れ、プラチナにダイヤモンドをあしらったティアラを頭頂に飾る。ドレスは目を引く鮮やかな赤、大きな黒いレースが右肩から左腰をななめに横切り、そのデザインがなんとも洗練されていた。


 あでやかで華やかな美人だ。隣のレオポルド王太子と並ぶと、なかなか見映えのいい一対かもしれない。しかしさっき聞いた説明によると、この美人は人妻だ。新聞王ジョーダン氏の妻でレディ・ジュリエットと呼ばれていた。


 妻と呼ばれるには若すぎるようなレディの両頬にえくぼが浮かぶと、その魅力に愛きょうが加わった。明るい声で言う。


「何もお隠しになる必要はありませんのよ、わたくしには。結婚しても、わたくしがレオポルド様の忠実な“友”であることは変わりませんわ。ねえ、ダニエル? お許し下さるでしょう」


 と自分の夫に同意を求めるが、そのジョーダン氏は別の会話に混ざっていた。聞いていなかった夫は鷹揚に片手を上げ、また元の話に戻っていってしまう。妻も特に気に止めず、話を続ける。


「それにしてもねえ、レオポルド様も。わたくし、つくづく思いましたの。どこへいらしてもあなたを追いかける娘たちがいっぱいで、殿下はさぞかしお困りなのではないかしらって」


 尋ねられた王太子が「そうだったか?」と首を傾げる間にも、レディの口舌は止まらない。


「だってそうでしょう? 見ましたのよ、あの島でも。嵐が来ている中で集まった彼女たち、きっと島中から集まったのでしょうね。一目でいいからレオポルド様のお顔を拝したかったに違いありませんわ。微笑ましいこと」


 その「微笑ましいこと」という言葉には、「なんて愚かな人たち」という響きがある。


 それからレディは、もちろん気持ちはわかりますけれど、と前置きして、笑い含みに言う。


「でもね、もしかしたら見るだけでは気が済まず、たいそれた願望を抱いていた娘もいたかもしれないと思うとおかしくって。滑稽でしょう、平民の娘にそんなことが起こるはずありませんのに。現実はロマンス小説とはまるで違いますわ。

ああそうだわ、今ここには、あの島の人がいたのでしたわね。お尋ねしてみようかしら」


 いいことを思いついた、とばかりに両手を合わせる。そしてやっと、こちらに目を向けた。美しいレディ・ジュリエットが問いかける。あくまで愛くるしい仕草で。


「ミス・リントン、答えていただける? あなたのあの島で、こんな者はいなかったかしら?

 愚かな平民の身で、王太子殿下の目に止まろうとする娘は? 野暮ったい田舎娘という己の立場を忘れて、高貴なお方の隣に立とうとする勘違い女はいなかったかしら? のぼせ上った挙句、船にまで乗り込もうとする身の程知らずはいないの?」


 さすがによくわかった。言い方がストレート過ぎてむしろ驚いた。

 わたしは食事の手を止め、返事を吟味し、それから答える。ゆったりと。


「いいえ、レディ・ジュリエット。そのような者はいませんでしたわ」

「あら。そうですの。不思議だわ、本当に」

「島の娘たちは素朴で、それは純情ですの。お顔を拝したかったのも、純粋に王室の方々をお慕いするからです。わかりますでしょう」

「――ええ。当然よね」

「ですからそのように図々しい真似ができるのは、わたくしぐらいですわね」


 あまりに平然と言ってのけたせいか、レディ・ジュリエットはすぐには返事できなかった。


「まあ、あなた――」

「不相応だとわかっていますわ。おっしゃるように、殿下にお声がけしていただくだけでもわたくしには充分身に余る栄誉ですもの。ですから」


 ひとこと分だけ間を置き、周囲を見渡して語る。いつの間にかわたしとジュリエットの会話に聞き入っていたテーブルのメンバーひとりひとりに、目で微笑みかけながら。


「こうして同行させていただいていること、生涯の思い出にいたします。この席で、王太子殿下はもちろん皆さまのような偉大な方々とご一緒できたこと、わたくしの人生で最も華やかな一瞬として、一生覚えているでしょう」


 目を閉じ、胸に両手を当ててこう続けた。演出過剰だったかもしれないが。


「さきほど殿下に手を取っていただいた時から、ずっと夢見心地ですわ。今夜これほど素晴らしい夜を過ごさせてもらったのですもの。もしも明日、天に召されても、きっと悔いはないでしょう」


 “華やかな上流階級の世界を一瞬だけ垣間見た、平凡な娘”。台詞といい仕草といい、今の自分の演出はやりすぎなくらい完璧だった。そう自負している。身の程を知るミス・リントンは、今夜だけの夢だと理解した上でここにいるのだと、そう伝わったはず。


 しかし、こちらの目論見など通じない人がいた。


「そんな、ミス・リントン! 天に召されるなどという、不吉なことは言わないでくれ」

「え。いえ、今のはただの例え」

「あなたが召されてしまったら、私も死ぬしかないではないか。お願いだミス・リントン、生きていてくれないか。私のためにも」

 

 だからただの例えですから、王太子様。わたしの言葉に顔色を変え、彼は言い募った。真面目なのかなんなのか。そんなに必死にならなくていいと思うのだけど。


 必死な主賓に、周囲は呆気に取られた。レディ・ジュリエットは信じられないとばかりに目を見開く。ナイフを握る彼女の手が震えたのは見なかったことにしよう。


「――と、とにかく。レディ・ジュリエットという古い友に加え、ミス・リントンという新しい友を得られたということでしょう、王太子殿下が。男女間に友情は生じないなどという話はよく聞きますが、そんなことはないと私は思いますよ」


 この奇妙な空気をとりなそうとしたのか、ここで不動産富豪がシャンパングラスを持つ。


「古きも新しきも含め、すべての友情に」


 不動産富豪がグラスを高く掲げると、侯爵夫妻も後に続く。皆それにならい、友情に乾杯した。鼻白んだ顔のレディも続き、さらに事情を知らない他のテーブルにまで波及する。


 そして結果的にこの乾杯が、今夜の晩餐会のハイライトとなる。

 つまり。


(無理だわ)


 次にどんな発言をするのかわからないレオポルド様。どうごまかそうにも無理がある。彼の操縦、というかフォローなど不可能ではないだろうかと、痛感させられた。

 

 心底、あの二つ名を返上させてほしい。




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