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【前哨】夜会の支度

【前哨】夜会の支度



 ああ、なんて可哀そうなのだろう。

 妙な二つ名をつけたれた我が身を嘆くのは、ひとりきりのわたし。


 例の最上等客室の豪勢な寝室、その化粧台の前の椅子に座り、頭を抱えている。


 いったいわたしが何をしたというのか。


 しがない田舎教師の身でこの豪華客船に乗り、王太子の旅に同行するだけでもいたたまれない。その上、指輪の呪いだか魔法だかのせいでおかしくなった彼のことを、どうにかして隠し通せ、と随従たちはのたまわった。


 プリンス・ミストレス。笑ってしまいそうな役目だけれど、つまりおそれ多くも王太子殿下相手に命令、というかお願いして、どうにか普通の状態であるとごまかすのだ。さっき船長に対してやったように、他の人々にも。


 その中には目的地であるグラン・リオンで待つ、レオポルド王太子の姉姫、つまりアストレアの王女である人も含まれるのだろう。たしか、そのミルドレット王女が嫁いだ先はグラン・リオン国王だったような。


(……きつい)


 普通の状態でも会うには気の遣う相手だ。他にこれからどんな人々に会わねばならないのか、想像すると胃が痛かった。というかもう考えたくない。


「無理です……本当、勘弁して」


 これ以上ないぐらい困り果てている。どうしたらいいのか、正解がさっぱりわからない。頭が痛いよ、本当に。


 憂鬱な気持ちで溜息をつくと、鏡が曇った。香水が入っているらしいガラス壜の金蓋を、指先でつついて開けてみる。ラベンダーの香りが鼻をくすぐった。


 香りのお陰で苦悩を一瞬だけ忘れていたら、ドアが叩かれる。高貴すぎる下僕がまた来たのかと思ったら、違った。


「失礼します、船の乗組員のモリー・エバンズです」


 女性の声だ。返事をして、寝室からリビングに出ていった。するとそこには白と薄緑のストライプの制服に、エプロン着用の娘が立っていた。


「ミス・リントンですね? 初めまして、わたしはこのお部屋の担当をしていますモリーです」


 よく日に焼けた小柄な娘で、きゅっと目の端がつりあがっている。茶褐色の髪の上には白いキャップ。モリーはきびきびした調子で言葉を続けた。


「先に申しあげておきます。わたし、ふだんは客室の掃除が主な仕事です。つまり掃除係です。当たり前ですけれど、掃除というのは決して暇なお仕事じゃありません。終わりなんてない、無限の作業です。汚す人がいる限り」

「はあ。ええ、そうでしょうけれど」

「ですから、その上に別な仕事を押し付けられても、余っている時間なんてほんのわずかに決まってます。だって普段の仕事をおろそかになんてできないでしょう」


 何が言いたいのだろう。モリーがわたしに何を要求したいのかがわからない。


「あの?」

「本来のわたしの仕事じゃないんです。それに普段、この客室を使われる貴婦人がたは、皆さま当たり前のように、ご自分の侍女くらい連れて来るものなんです!」


 気のせいだろうか。この掃除係、ちょっと怒っていないか。


「そもそもですね、貴婦人付きの小間使いは専門の教育を受けているものでして、わたしにそんな期待をされても」

「モリー、待って。何が言いたいの?」


 一方的にまくし立てようとするのをやっと止められた。ぐっと詰まったモリーは、今度はゆっくり、低い声で言った。言いたくなさそうに。


「……ミス・リントン、わたしは乗船中、あなた付きのメイドとして働くよう命じられています」

「ああ。……そういうこと」


 なるほど。掃除係のモリーはわたし付きのメイド、つまり侍女の役目をするよう命じられたのか。命じたのは……船長だろうか。王太子殿下の客のはずの娘が貴婦人でもなんでもない田舎教師で、侍女のひとりも連れていないことに気を利かせたのだろう。まさか本当に、うるわしの王子にその役目をやってもらうわけにはいかないし。


 むうっと口をへの字に曲げて待つモリー。しばらく考えて、わたしはこう言った。


「わかりましたわ。ではモリー、教えて下さるかしら」

「教える?」

「洗濯物はいつどこに出せばよろしいの?」


 きょとんと眼を丸くする。それでも彼女は答えをくれた。


「備え付けの袋に入れておいてもらえれば。控えの間の椅子に出しておけば、朝、担当の人が回収を」

「そう」

「ランドリーサービスは本国のホテルと同じ程度なんだと思います。……リネン類のアイロンはどうしますか?」

「自分でしますわ。アイロン台一式を借りられる?」

「後で運んでおきます。――他には」

「今は特にありません。ご自分の仕事に戻っていただいて結構よ。ベッドメーキングも結構、それぐらいできますから、替えのシーツだけ置いておいて」


 ではご自由に、と手を出口に向けた。出て行ってと言いたいわけではないけれど、やってほしい用事もない。モリーが余計な仕事を迷惑だと考えているのなら、仕方がない。事実、わたしは自分のことぐらい自分でできるのだから。


 一瞬ためらったけれど、結局モリーはうなずいた。部屋を出ようとして、何かを思い出したように振り返る。


「あの……晩餐会に出るのでは」

「晩餐会……晩餐会! そうね、忘れていたわ」


 思い出させてもらえて助かった。上流には上流の、複雑怪奇なルールに満ちた儀式が待ち受けているのだった。船の上だろうと、彼らは陸と同様の社交界の行事を粛々とこなすのを好む。


「ありがとう。教えてちょうだい、晩餐はホワイトタイかしら」

「はい、今夜は再出港の祝いでもあります。マカリスター船長が、王太子殿下はもちろんミス・リントンも、自分のテーブルへお招きしたいと」

「まあ、光栄ですこと。最上等の装いで来いという意味ね」


 これから後の試練を思い、考えをめぐらす。鞄の底に詰め込んであるたったひとつの手袋、そのサイズがきつくなってませんようにと。


 さっそく準備にかかろうとするわたしに、まだモリーが話しかけてきた。どちらかというと気の毒そうな様子で。


「あの、わかってます? さっきも言いましたけれど、わたしは侍女ではないので、髪型を整えてあげることもできません。礼装は持っているんですか?」

「そうね、国王陛下に拝謁できるような一式は持ち合わせていませんわね。でもどうにかしますわよ、今夜ぐらい」

「……歓迎されませんよ、ミス・リントン。あなたのことはすでに伝わっています、他の貴婦人がたが大勢、手ぐすね引いて待ってますから。目の敵にされるに決まってます」

「そうなの? どう伝わっているんだか、考えると恐ろしいわ。ああ、まさか今さらこんな目に遭うなんて。だから嫌でしたのに」


 厄介の種が増えたものだ。王太子その人だけでも手いっぱいだというのに、その取り巻きまで船に乗っているのだろうか。


「大恥かく前に、行くのをやめるという手もありますよ。体調悪いとか」

萎黄病(クロロシス)にでもかかってみようかしら? そうね、気鬱の病で逃げるのもひとつの手ですわね」


 モリーなりの同情なのだろう。侍女も連れていないような田舎娘が、貴婦人連に苛められては可哀そうだと思って忠告している。わたしの身を案じてくれているだけでも有難いかもしれない。


 たしかにそそる考えではある。船室に籠りっぱなしでいれば、その類の心配はない。

 でも。


「ずっと隠れているわけにもいかないでしょう。でしたら、最初の晩の顔見せだけで満足していただくとするわ、物見高いお方がたには。どうということもない田舎教師だとわかれば、安心なさるでしょうしね。

 モリー、マカリスター船長には、喜んで招待をお受けしますと伝えてもらえるかしら」


 隠れたせいで、余計な興味を持たれても困る。だったら、このジゼル・リントンが、王太子を狙う貴婦人がたのライバルになどなり得ない木っ端娘であることを、とくと見せつけておけばいい。最初に。



(やっぱりこの手袋、ちょっときついわ。いつ作ったんだったかしら)


 鞄の底にしまってあった長手袋をはめると、案の定、少しきつい。手袋をはめた手を握ってみると、そのたびにきゅっと高い音がした。動かしにくいけれど仕方ないか。


「あ!」


 準備はできた。部屋を出ようとして、思わず大きな声が出る。ひとつ、とても大きな忘れ物があった。そもそも鞄にも入っていないので、どうしようもないのだけれど。


 結局、ドレスの着付けだけは手伝ってくれたモリーが怪訝そうに尋ねる。


「ミス・リントン?」

「~~扇子は実家だわ。取りに帰れるわけでもありませんし、いいわ、無しで行きましょう」


 貴婦人の必需品。わたしはそれを、一年以上も前から忘れている。




 一等客室の住人が集うのは、船で最も格式の高いダイニングルームだ。二層の吹き抜けになっていて、対になった大階段が上下の階をつなぐ。そういう造りだとモリーが簡単に説明してくれた。


「ミス・リントン! 会いたかった」

「……。まあ、なんてもったいないお言葉でしょう……」


 しばし離れていた高貴な下僕との再会は、そのダイニングルームの二階部分へつながる扉の前でのこと。綺麗な色ガラスで飾られたドアの前でお立ちになっていたレオポルド王太子様は、このしがない田舎教師を、まるで十数年離れていた家族か何かのように、両腕広げて迎えて下さいました。


 わたしを見た途端、晴れやかに笑ってくれる人。それに居心地が悪いような、とても面映ゆいような複雑な気持ちになっていたら、綺麗な笑みを浮かべた王太子が右腕を出す。軽く肘を曲げて。


(ああー。そうですよね)


 おそれ多くも王太子殿下が、わたしをエスコートして下さるようです。晩餐会に。


「あなたを晩餐会にお連れしたい。ミス・リントン、供は私でいいだろうか?」


 いや、『でいい』とかの問題ではないだろう。お供なのはこちらのほう、どう考えても主賓はあなたじゃないのか王太子殿下。


 高貴な腕をお貸しいただく栄誉にうち震えることも、うるわしの王子様にエスコートしてもらえる喜びにときめくこともなかった。けれども出された腕におそるおそる自分の腕を回し、腹をくくる。もう逃げようがない。


「ありがとう存じます、殿下。こちらこそ光栄ですわ」

「うん。では行こう」


 これぐらいのやりとりならば普通の範囲だろう。だからここまでは順調と言えなくもなかったのだ。ここまでは。

 わたしの本当の試練は、王族を前に緊張しきったドアマンが、ドアを開けた時から始まるのだけど。


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