【誕生】プリンス・ミストレス
【誕生】プリンス・ミストレス
銀のポットを扱う手さばきは、さすがに慣れたものだった。
「でもねえ、僕は今さらだと思うんですよ。殿下の奇天烈は」
「リップ! 言葉が過ぎる」
わたしのために食後のコーヒーを注いでくれたリップは、ランサム中尉の注意に軽く肩をすくめてみせた。ワゴンにポットを置き、自分の主人を見る。相変わらず王太子はわたしだけに視線を送っていた。その様子を見たリップは嘆かわしげに首を振った。どういう意味だ。
船室のダイニングでのことだ。とうに船は出港し、遅い昼食がいま終わったところ。ここは彼の部屋のダイニングで、席についているのはわたしと王太子のみ。コーヒーを淹れたリップはというと、いまはちゃんと従者然として、よく働いている。
しかし、自分の従者がとんでもない表現で自身を評したのに、レオポルド王太子は特に怒りもしなかった。いや、
「なんでもいいが、私はリップに頼みがある」
「はい?」
「教えてくれ。従者の仕事を」
さらに上を行ってくれた。わたしは聞きたくないから訊かなかったのに、馬鹿な中尉が理由を尋ねてしまう。
「従者? 従者の仕事なんか教わってどうなさるんですか」
「無論だ。ミス・リントンに仕えるために、何をしたらよいのか。やってみようとしたがさっぱりわからない。教えてくれ、リップ」
なんということでしょう。殿下は本気のようです。
わたしこれでも女性なので付くなら侍女ですわ、というのは、さすがに見当違いな指摘なんだろうな。性別の壁を越えてくれと頼むわけにはいかないし。いかないよね?
受け止めきれなかったわたしがやや混乱している間に、リップと中尉が止めに入った。
「いい加減、馬鹿なこと言わんで下さい! 王太子殿下が他人の、しかも婦人の従者につくなど、あり得ないでしょうが。非常識にもほどがあります!」
「殿下に下僕は無理ですよー。他人の世話なんでできる方じゃないです、僕が保証します」
見たところ、冷静さにおいては随従のランサム中尉よりもリップのほうが上だ。
王太子付きの従者フラップ・リップは、どうやら女の子ではないようだ。わたしとあまり変わらない背丈に細い体躯、可愛らしいその顔立ち。男にしておくにはもったいない可愛さだが、確かにその声は少女にしては低い。
ランサム中尉にでも説明されたのか、リップもあらかた事情は飲み込んだようだ。この一件について。そして。
「しかし困りましたね。国内にいるならともかく、これから海外ですからねー」
「そうだろう。ふざけていないでリップも考えてくれよ」
相談している。おかしくなった王太子様の案件について。
リップがさらっとした調子で言った。
「しかし殿下、どうしてまたこちらのお人なんです? もしかして惚れましたか、ミス・リントンに」
「え!?」
その言いように、わたしはまた飲み物を気管に入れるところだった。リップは構わず続ける。
「いいんですよ、惚れても。殿下は王太子でいらっしゃるんですから、お好きな婦人をこっそり船に連れ込むぐらい、大目に見ましょう」
「ケホっ、連れ込み……って待って」
「ですが、これだけは言っておきます。ミス・リントンは見るからにその筋の婦人ではありません。お遊びの相手になさるには、少々、酷ですよ。他ならぬミス・リントンに」
(『遊び相手』、ね)
実際、わたしもその疑いをまだ捨てていない。
『ご主人様』という呼び方もその他の言動もすべて王太子の戯れで、本当は、単に遊び相手がほしいから、こうして連れて来られたんじゃないだろうか、とか。だとしたら最悪だ。一時の遊び相手として連れて来られ、飽きたらポイとか。いかにも王族のやりそうなことではあるけれど。
「お遊びだと? 私は真剣だ」
「や、それはそれでちょっと困るような」
「真剣に、ミス・リントンに従いたいと思っている」
殿下、それは最悪よりももっとタチ悪いです。
王太子はコーヒーカップをテーブルに下ろすと、両の手を拳にしてその横に置いた。ミルクも砂糖も入っていない黒い液体の中を覗き込みながら語る。心のうちを吐きだすように、ゆっくり。
「女性として好ましいかどうかは関係ないんだ。彼女が彼女だから。出会ってすぐにわかった。あの時、ミス・リントンの指輪に口づけた時――もう二度と離れてはいけないと、直感した」
『直感した』。その言葉にどきりとする。
(直感……)
やはりそうなのか。わたしがかつて、 “彼”の王妃だったから。この妙な執着の理由はそこにあるのだろうか。何度も繰り返してきた過去の因縁。あの、呪われた運命が彼をおかしくしたのか。今までにない形ではあるけれど。
『見た瞬間にわかる』。その気持ちはわたしにも共感できた。だって――。
「指輪……」
「指輪だって?」
「指輪? 指輪というのは、ミス・リントンが着けておられるその指輪のことですか」
わたしのつぶやきを聞きつけたランサム中尉とリップは、思わず掲げたわたしの左手に注目する。すると中尉がもっと驚いた。
「え!? ミス・リントン、婚約しておられるんですか?」
「え。あ、いえ、これはその」
左手の薬指にはめるのは、ふつう婚約指輪か結婚指輪だろう。そこにはまった黒い石の指輪を目にして、ランサム中尉が驚いている。
「たしか昨夜はそんな物、してませんでしたよね? まさか」
「違います違います。その、ちょっと拾った指輪をはめてみただけで」
「拾った指輪って。どうしてそんな物を」
変なものを見る目で見られる。そうだよね、普通は拾った指輪を身につけたりはしない、他人の物なんだから。「見た瞬間にわたしのものだとわかりました」なんて言ったって、通じないだろう。中尉の主人と同類だと思われてしまう。
でも。考え込むように首を傾げたリップが言った。
「待って下さい。たしか殿下はさっき、こうおっしゃいませんでしたか。『ミス・リントンの指輪に口づけた時』って」
「あ」
「もしかしてと思いますが……その指輪が原因?」
そう言われ、わたしは慌てて指輪を自分の指から抜こうとした。だけど。
「……抜けない?」
なんで、と思い、指輪をまじまじと見つめる。そんなにきつかっただろうか。違う。ゆるゆるではないけれど、きつくはまっているわけでもない。だけど、横には回るのに指から抜けない。そこから全く動かない。
「抜けない? サイズがきついとか?」
「いいえ、そんなことは。ほら、回っているでしょう」
「……それだ!」
ランサム中尉が立ち上がって叫んだ。中尉もリップも、顔を近づけて指輪をもう一度よく見ようとする。
指に食い込んでいるわけでもないのに、なぜか抜けない指輪。変だ。
そして、しがない田舎教師を「ご主人様」呼ばわりして執着する王太子。こっちも変。
同時に起きている異常事態。結びつけない方がどうかしている。
「そうですよ。殿下が執着しているのは、もしかしたらこの指輪なのでは? どうですか、殿下」
「……うーん? 特には」
「指輪の持ち主に反応するようになっているのかもしれませんね」
続くランサム中尉の言葉が決定的だった。
「最も可能性が高いのは、“魔女”の魔法がかかっている、ということじゃないか」
「魔女の」
「ミス・リントンはご存じじゃありませんか? ブロッケンの魔女を」
“ブロッケンの魔女”。それはアストレア国に隠れ住む、異能力を持った存在のこと。
今この船が向かっている先、東大陸で起こった過去の歴史。東大陸では、魔女狩りと称して、異能を持った者たちを迫害する時代があった。飢餓や戦乱の続く時代で、少しでも人とは違う力を持つ者を、恐れ、憎んでいたのだ。
その迫害された魔女たちの多くは祖国を離れ、アストレア国のある西大陸に移り住むことを選んだ。亡命してきた魔女たちが集まり、最初に居を定めたのがブロッケン山。そして、魔女たちは今でもそこに住んでいると、まことしやかに語られている。
アストレア国の子どもなら誰でも一度は母親や乳母から聞かされる、いわばおとぎ話のようなものだ。
“魔女”たちは、不思議な“魔法”の力を持っているんだよ、と。
「もちろん知ってはいますけれど。でもそんなの本当に」
「おとぎ話じゃないかって? いやいや、これが今でもいるんですよ」
ランサム中尉が勢い込んで語ったところによると、例のブロッケン山は実在していて、その頂上では今でも霧が立ち込め、人の立ち入りを拒むらしい。登って行っても、不思議と誰も頂上にたどりつけないそうだ。
「でも山麓のどこかにこういう看板がかけられているそうです。『アストレア国魔女協会』と。運良くその看板を見つけられた者だけが、魔女に会えるって。従妹が好きでしてね、そういう話を山のように聞かされるんですよ。なんでも秘密の儀式があって、とある娘が婚約者から捨てられた時に……」
「ランサム中尉、話が関係ないところへ行ってる。今は殿下のことでしょうが」
中尉の長い説明はリップのお陰でやっと止まる。少女のような従者はそのまま話をまとめに入った。
「つまり、中尉はこうおっしゃいたいわけですか。その指輪には、魔女か、はたまた全く別の者による呪いが掛けられていると?」
「黒い石が嵌っているだろう。従妹の話だと魔女はたいてい、黒い器物を魔法に使うと」
「ふうん? 黒い石の指輪だから魔女だと言いたいわけですか。隷属の呪いでも?」
「隷属! その通りだ、だってよく言うからな、魔女の呪いは大概、卑猥な内容だと……」
「ランサム! 言っただろう、ミス・リントンに不埒な考えは抱いていないと」
黙って聞いていた王太子が、そこで叱責の声を上げた。一瞬、しんと静かになる。
(あ、この人も怒るんだ)
とんでもない従者にも怒らないレオポルド様がとうとう怒った。わたしはちょっと驚く。そしてなんだか安心した。『不埒な考え』ではないと、はっきり否定してくれたので。
「……大変失礼いたしました。殿下も、ミス・リントンにも」
「わかればいい。それに言っておくが、私の彼女への想いは決して魔法などでは」
「はいはい、そうなんでしょう、殿下。このリップ、よおっくわかっていますです。ご安心を」
王太子殿下の主張に力強く同意してみせたのはリップだ。けれど、続く従者の言葉は理解ある態度を裏切っていた。
「とにかく。解決するには指輪にかけられた魔法を解くしかないってことですな。僕は面白いとは思いますけれどね、このままでも。でもそういうわけにはいかんのでしょう、中尉?」
「当たり前だ。お前も真面目にやれよ、リップ。しかし困ったな、ブロッケンの魔女に指輪の呪いを解いてもらおうにも、アストレアへの帰国はしばらく先だぞ」
「東大陸にもちょっとぐらい生き残っているかもしれませんが、どこにいるかわかりませんしねー。確実なのはやっぱりブロッケン山に突撃することでしょうかね、帰国後に」
愛らしい笑顔を浮かべ、両手を打ち鳴らしたリップ。その視線がわたしに向けられた。
「というわけでミス・リントン。頼みましたよ」
「……このまま同行するしかないってことですね。指輪を外せない限り」
「当然。あなたもね、拾った指輪なんか着けるから悪いんじゃないですか。それと」
悪魔の従者もまた悪魔だということを、わたしは知る。
「あなたの言葉なら簡単に聞き入れて下さるようじゃないですか、殿下は。つまりね、あなたの『操縦』次第なんですよ。殿下が無事にこのご旅行を終えられるかどうかは」
「は。そ、操縦?」
「ええ――ちょっとお耳を拝借」
わたしの背後に歩み寄って来たリップは、そっとささやくように言う。
「ご存じかどうか、これから向かうグラン・リオン国の王室はレオポルド様の姉君の嫁ぎ先でして」
「はあ。それぐらいは知ってますけど」
「グラン・リオンは大国ですが、アストレアも負けちゃいません。つまり、レオポルド様の訪問は、それだけあちらの方々も大注目する一大イベントってことです。老いも若いも高貴も下賤も、誰もがアストレア王太子を見物したがる。美形の評判は東大陸にもしっかり伝わってますし」
「……」
「あちらでは殿下の一挙一動に注目が集まるでしょう。そろそろおわかりですよね?」
しごく嫌な予感。このとんでもない従者が言いたいことは何なのか。
「あなたの責任ですからね、殿下が恥かいたら。そして殿下の恥はアストレアの恥」
「だから、これはわたしのせいじゃ」
「関係ありません。ミス・リントン、祖国とアストレア王室の面子を丸潰しにしたくなかったら、レオポルド様を操縦して、なんとしてでも隠し通して下さい。王太子殿下が発狂……じゃなくて、ちょっとした戯れを楽しんでいる件は」
そして最後にこう言った。大きな声で、楽しげに。
「いやあ、楽しい旅行になりそうですね。眼鏡の王子使い?」
眼鏡をかけているのは事実だからいいとして、果たして、そんな妙な二つ名をつける必要があるのだろうか?
色々限界を超えたわたしの疑問は、明後日の方向をさ迷った。