【決断】指輪の誓い
【決断】指輪の誓い
わたしの決断を聞くと、魔女協会会長はうなずいた。
「とにかくよかったです。やっぱりね、王太子が一教師、いや公爵家のお嬢様に言いなりになってるってのも問題ですよ。ご夫婦ならぎり許容範囲ですが。そうだ、そういう方向での調整ってどうです?」
「できかねますわ」
「おやまあ気の毒に、王太子殿下。振られたんですね。
でも大丈夫ですよレオポルド様! 女性なんて他にいくらでもいますし、今までだっていたでしょう。遊び飽きたら適当に決めたらいいじゃないですか」
「リップ。勝手なことを言わないでくれ」
「失礼、まだ傷心の身でしたか。お許しを――どうにも混ぜっ返したくなる性分でして」
このとんでもない会長を頼って本当に大丈夫か、心配になってきた。
わたしの疑いが読みとれたのか、リップは片目をつぶった。
「ご心配なく。僕ら魔女協会にお任せあれ」
と言ってさきほどの日記を、芝居っけたっぷりに高く掲げる。しかしそこで、なぜか虚をつかれた顔をした。
「忘れました。ひいひいばあちゃんの糸車、あれがいるんでした。ちょっと取ってきます」
そして運び込まれたのは、年代物の糸車。綿から糸を紡ぎだすための道具で、木製のはずみ車と糸つむがある。居間の床にその道具を置いたリップだが、その姿はとうてい魔女には見えなかった。だが本人は特に気にしたふうもなく、日記を取り上げる。
「ぶっちゃけて言うと、ぜんぶ曾々祖母の残した術ですよ。レティシア妃の生まれ変わり、つまりクラリス様のためにね」
「ありがたいけれど。……どうしてそこまで? 何かしましたかしら」
「ああ、それも長い話でして。ちょっとした恩を受けた、そんな感じです。
それにね、レオポルド様。我々はこの国アストレアからも負債をおってまして。東大陸でのあの時代、僕らの先祖はそりゃあ迫害されていました。ひどいですよ、拷問にしろ処刑にしろ。人を人とも思わない暴挙がまかり通っていたわけです」
「魔女狩りのことか。アストレアでもなかったわけではないが、東大陸ほどじゃない。だからあちらを脱出した魔女は、みな我が国に逃げてきたと」
「その通り。あなたがた王室は僕らを保護したわけでもありませんが、そこにいることを黙認してくれた。だから会長である僕が直々に、王太子の従者になってあげたんです」
リップの手が糸車のハンドルを回し始めた。くるくると。
くるくる。回る輪。巡る運命。
「では――クラリス様。最後の試練の場へどうぞ」
「え」
試練って。そんなの聞いてませんわよ――という言葉は暗闇に吸い込まれた。
*
明るくなったと思ったら、矢が飛んできた。自分めがけて。
「きゃ!」
間一髪、頭を抱えてしゃがんでよけた。そして異変に気付く。周囲がものすごくうるさい。人の声や馬のいななき、ひずめが地面をたたく音。鈍い衝撃音や金属音。
「……。ちょっと」
伏せていた顔を上げると、周りの光景は一変していた。アストレアの一般家庭のような居間にいたはずが、屋外にいる。さらに、そこら中が武具で身を固めた兵でいっぱいだ。馬もいる。
飛び交う矢、交差する剣。ここはどう見ても戦場だ。そんなところにいる自分。
冗談ではなかった。巻き込まれて殺されてしまう。
「なんで?」
『おっと失礼。ズレました』
どこからかリップの声がした。その姿は見えないのに。またなの?と問う前に、また変わった。
*
その沈黙が怖かった。狂気を孕んだ静けさ。また“彼”が激昂する、その前触れだとわかっていた。凍てつく氷の嵐が吹きすさぶ、その前兆だ。
長く続く冬に耐えるため、城の壁は厚く築かれていた。部屋同士も分厚い壁に阻まれて、その部屋の音が外に漏れることはない。
暗く閉ざされた部屋の中、それまで無言だった男が口を開いた。
「……何かおかしいのか」
「え? いいえ陛下。何もおかしくは」
「嘘を申すな。そなた今、笑ったではないか」
背筋が凍る。またか、と。
その人の前では笑い声ひとつたててはいけない。そもそも女は男の付属物で、自分の意思を通すことなど一切叶わない、奴隷も同然の立場である。目前の嵐におびえる皇妃アナリーサには、抗う術も逃げる道もなかった。
皇妃を立たせたまま、ひとり食卓につく男。雪のごとく白い顔には外の冬と同じくらいの冷たさが宿る。鷲のように鋭く光る眼光に、眉間には深い縦皺。口元には陰険そうな笑みをたたえ、鳥の肉を骨ごと咀嚼している。
後の暴君、その崩御時には国中が快哉を上げたという皇帝グロフトニフ四世。
「下らぬ」
「……」
「下らぬ嘘をつくな。――アナリーサ!」
何で引き金が引かれるのかがわからない。理由らしい理由もなく暴発しては、妻を蹂躙する男。狂気を孕んだ目は獲物を捕らえた獣も同然だ。いや、獣にすら劣るほど常軌を逸している。
殴りたいだけ殴った皇帝は、いっそすっきりした表情だった。狂った鬱憤を晴らし、満足気ですらある。そして血まみれで倒れた皇妃――暴君の生贄に対し、笑って言った。
「許してやろう。嘘をついたことは」
「……」
殴られたわたしは、うつろな目で天井を見上げていた。
その時、立ち上がることもできないわたしの耳に、声が聞こえた。
『ひどいな。想像以上だ』
『どうしますか? やり返す方法ならありますよ。ほら』
皇妃アナリーサの手の中に、魔法のように忽然と、一振りの短剣が現れた。
皇帝は気が付かない。背を向けて、自分の食卓に戻ろうとしている。
立ち上がり、その背に剣を突き立てる力は残っているだろうか。無防備な背中に致命的な一撃を与えられるか。どうせ殺されるなら、いっそのこと。恐怖と暴力で支配する夫に制裁を加えて、いったい何が悪いというのだろう。
残っているのは意志の力だけだ。気力だけで立ちあがる。
紐を解いた。アナリーサの華奢な体を異常なまでに強く締め付けていた、コルセットの紐を。
「――っ、えい!」
「うっ」
“わたし”は立ち上がった。
立って駆け寄り、相手の肩をつかまえて振り向かせ、その頬を思い切り平手で打った。
「……ずっと! ずっと、こうしてやりたいと思っていたわ!」
自由になった体で。万感の想いを込めた一撃だったのは言うまでもない。
わたしはクラリスだ。電気と自動車の時代を生きるクラリスは、もうアナリーサじゃない。大人しく従いながらも夫への暗い怨嗟を募らせていた彼女はもういない。殴ったのはアナリーサのためだけど、剣は不要だ。そんな物がなくても、切り抜けていく方法は探せる、きっと。
一方で、淑女の平手打ちを食らった皇帝はというと。それほどの痛手でもなかっただろうに、その場に倒れてしまった。仰向けに。
「え? わたくしそんなに強かったかしら」
いくらなんでもと思いながら、倒れた人の顔を覗き込む。驚いた。
「れ、レオポルド様!?」
平手打ちを食らって倒れたのは黒髪の王子様だった。おかしい。さっきまで暴君だったじゃないか。どうなっているのだろう。
「いやあ、レディ・クラリス。見事な一発でしたね! ほれぼれしました、僕は」
「リップ! どうしましょう、レオポルド様を殴ってしまったわ」
「ええ、お見事でしたよ。見事、あなたは試練に勝った。おめでとうございます」
現れたリップは拍手をしている。うんうんと、うなずきながら笑っている。
わたしは自分がクラリスに戻っていることに気付いた。殴られてもいないし、血も出ていない。男物の乗馬服姿の、変わった淑女だ。
「さて。どうすればいいのかはわかるでしょう? ということで、お二人に任せますね。では僕はこの辺で、さようなら、ジゼル」
とつぜん現れたリップは、言葉どおりまた消えてしまった。
「……任せると言われても」
困った。下僕下僕と言われても、まさか殴ってしまうことがあろうとは、思ってもみなかった。殴ってもよかっただろうか、王子様を。よくはない。
「レオポルド様。ごめんなさい、大丈夫ですか?」
「……」
実際、衝撃はそれほどではなかったのだろう。倒れたレオポルド様に呼びかけると、目を開けてくれた。その頭のそばに座る。
「ああ……。頬が赤いです。どうしよう、しっかり手の跡が。本当に申し訳ありません」
「謝らなくていい」
やけにきっぱりそう言うと、レオポルド様はまた目を閉じた。
「刺してもよかったんだ。あなたはきっと、それぐらいしてもいい」
「……」
「それぐらいしなければ釣り合わないだろう。今までのことを考えれば」
そうか、と理解した。この人もすべてを思い出したのだ。
「思い出したことがある。ずっと昔、まだヘンリックだった頃」
「レオポルド様?」
「その指輪。ミス・リントン、手を」
瞼を上げた彼はわたしの手を取る。左の薬指にはまったそれを見た。
「永遠の愛を捧げると、エレオノーラに誓ったのに。まるで違った。少しもそれを守らなかった」
「でも、それは」
「悪魔の姦計にはまったのは私の落ち度だ。あなたも巻き込んだ」
だから、と一度は取ったその手を押しやり、こう言った。
「もういい。このままでいい。この空洞を抱えたまま生きていく、それが私の罰だ」
「だめですよ」
「それにもうあなたを苦しめたくない。封じられたものが戻れば、私はどうなるのだろう。それを考えると怖い。傷つけたくないんだ」
「……」
ふいにわかった。どうしたらいいのかを。
この指輪。今やっと思い出した。わたしがこの指輪に何を誓ったのか。
「あなたは何もわかってませんね」
「……?」
「何度も夫婦になったのに、いまだにわかっていない。結婚の何たるかを」
どうすればいいのかはわかっている。わたしは自分の指にはまった指輪を、すっと外した。何の引っかかりもなく、今度はすんなり外れた。
「一人でするものじゃないんですよ、結婚は。二人でするものなんです」
「それぐらいは」
「わたくしも誓ったの、ヘンリック。永遠の愛を、この指輪に」
わたしの言葉じゃない。クラリスがレオポルド様に向けたものではなく、エレオノーラが言いたかったこと。彼女はこうするだろうと、わたしは思う。
「愛してるわ。わたくしがあなたを助けましょう」
外した指輪を彼の指にはめようとしたけれど、サイズが小さい。仕方がないから、小指にはめておいた。黒い金剛石の嵌った指輪は、レオポルド様の指にしっくり合った。
やがてその色は、元の無色透明に戻っていった。まっさらな色に。