【日記】半分のあなた
【日記】半分のあなた
可愛らしい従者兼魔女協会会長は、座った椅子からすぐに立ち上がった。
「偉そうにするのはこの辺でやめておききましょうか。王太子殿下、あなた方と僕らは元々そう無関係でもありません。政府は認めませんがね」
「しかし。……お前が魔女だというなら、どうして私の従者などしていたんだ? 何のために」
「何のためにかと言われれば、ま、あなたのためですかね。とにかく、全部を説明するにも立ったままではね。ここはあんまり落ち着かないんで、さっきの居間へ行きましょう」
お茶ぐらい淹れますよ、とリップは請け合った。それにしても。
(……だったら最初からそう言ってくれればいいんじゃないかしら)
部屋を移り、居間に置かれた大きなソファに座るよう勧めたリップ。今は素朴なキッチンストーブに薬缶を載せ、お湯を沸かそうとしている。
「ぜんぶわかっていたなら、話してくれてもよかったんじゃないの? リップ」
「ですよねえ。僕も思ったんですけれど、レディ・クラリスが余りにもシラを切るものですから。だったら僕も、ちょっとは秘密を楽しんでもいいかと」
「……」
ぐっと詰まる。しかしわたしと違って後ろめたいことなどないレオポルド様は、気にせず尋ねた。
「お前が協会会長なら、こちらから何も説明する必要はないな?」
「ええ、もちろん」
「知っての通りだ。リップ、ミス・リントンの指輪を外せるか。――いや、そんなことよりも」
勧められたソファにも座らず、レオポルド様はリップに詰め寄る。従者だった者に。
「何が起こっているんだ? 私と彼女の身に」
「――何か思い出しましたか」
「いや。……ただ」
リップの冷静な問いに、彼は言いよどむ。こちらを振り返ろうとしたのかもしれないけれど、その動作は途中で止まった。
「自分の手が。この手が」
わたしに背中を見せた彼。避けているのだとわかった。
「殴ったんだ。彼女が、動かなくなるまで」
わたしは自分の手元に視線を移した。わたしも彼を見ていられなかった。
しばらく誰も口をきかなかった。三人とも他と目を合わせない。しかし。
ピーヒョロロと、どこか明るく間延びした音が部屋の中に響く。薬缶だ。
「……すいません。お湯が沸きました」
「お茶、わたくしが淹れましょうか」
「僕がやりますよ」
薔薇の花の絵の可愛いポットに茶葉が入り、お湯が注がれる。キルトのポットカバーに銀色の茶濃し。牛の形のミルクピッチャー。ごく家庭的な光景が、張り詰めていた空気を少しゆるめた。
それでも立ち尽くしていたレオポルド様に、リップがお茶の入ったカップをむりやり押し付けて座らせる。三人ともそれぞれ座って、やっと部屋の主が語りだした。
「どこまで話しましたっけ? あ、いや、何も話してないのか。つまり最初からってことですね。とりあえず」
とりあえずと言いながら、リップは自分が座っていた椅子の上、つまり自分のお尻の下から一冊の本を取り出した。表紙がぼろぼろで、ずいぶんと古ぼけている。
「この日記。僕の曾々祖母の日記です。そして曾々祖母は名前をヘカテーといいます」
「ヘカテーですって?」
「覚えていますか? なら話は早い」
始まりはやはり北方の王国。ヘンリック王とエレオノーラ王妃の悲劇だ。
*
その男が“わたし”の前に現れたのは、塔に火がかけられた時だった。
「お妃様。お気の毒に」
そう言って哀れんだ。
実際その時のわたしは、誰もが哀れんで当然の状況だった。
「だ、だれ」
「産みの苦しみは何ゆえかくも重く辛いか。しかも、それだけの苦しみを乗り越えて尚、実を結ぶとは限らない。おお、女人とはなんと哀れな生き物なのだろう」
まだら模様の服を着て、歌うようにそう語る。その男の言うとおりだった。
敵国の兵で埋め尽くされた砦の小塔に、数人の侍女とともに立て籠もったわたし。王である夫との初子を産気づいたのは、そんな時だ。子どもを産むには最悪の時と場所。エレオノーラ王妃は完全に追い詰められていた。
そこへ忽然と現れた謎の男は、優しい声で言った。
「お助けしましょう。わたくしめが」
「たす、助けるって。あなたは、何者なの? ヘンリックの使い?」
「おお、そうですとも。わたくしめはまさしくあなたの国王の使い。ヘンリック王より遣わされた、悪魔にございます」
激しい陣痛の波に襲われて、侍女たちの悲鳴すら聞こえなかった。そしてそれが収まったとき、二人きりになっていた、悪魔とわたしの。
それでもなけなしの気力を振り絞った。
「あ、あくまが何をしてくれるというの? 去りなさい、わたくしは神のしもべよ」
「わかっていますとも。ですが慈悲深く敬虔なエレオノーラ王妃、あなただからこそわたくしめはお助けせずにはいられないのです」
身動きできないわたしに、その悪魔が顔を近づける。目が異様に大きくて、とても怖かった。
「お救いしましょう、美しいあなたの魂と引き換えに」
「たましい?」
「あなたの魂と引き換えに、失われつつあるひとつの命を救えるのです」
そして高らかに言った。
「どちらを助けたいですか? お子か、ご夫君か」
「え……」
「命を助け、さらにこの危機を脱出させて差し上げましょう。ただしどちらか一人だけ」
代わりにあなたは死後、魂をわたくしめに捧げるのです――と悪魔は囁いた。
そしてついでのように教えてくれる。
「残念ですが、エレオノーラ王妃。あなたに助けは来ませんよ。どうしてかわかりますか」
「どうして」
「ヘンリック王が惜しんだからです、あなたの命をあがなう金銭を。代わりに彼の部下、コリン・ノワールが救われることになりました」
どっちだったのだろう。そのときわたしの身と心が凍りついたのは、ひときわ激しい陣痛か、それとも悪魔の囁きのせいか。
「どうしますかお妃様。砦につけられた火はわたくしめが抑えましたが、敵兵に囲まれていることには変わりません。
こんなところでお子を産んで、無事に脱出できると思いますか。それとも、一の部下を取り戻し、さらなる戦に赴かんとするご夫君を助けますか」
「……」
「お妃様。ご自身の魂と引き換えに、助けたいのはどちらですか?」
*
悪魔に託した我が子が、その後どうなったのか。それは今のわたし、クラリスにも知る術がない。調べようにも時代が古すぎる。悪魔に魂を売ってまで救った息子の行方は、杳として知れない。
エレオノーラ王妃の直接の死因は、産褥によるものだった。敵兵に囲まれた塔で子どもを産み落とし、そして息絶えた。見捨てられたと知った絶望の中で、悪魔に魂を売ってまで救った我が子の延命だけが、ひとつの光だった。
「壮絶ですねー。母は強しというかなんというか。残念ながら曾々祖母はエレオノーラさんの息子さんの行方まで書き残してません。ただ、悪魔も放り出したりはしなかったと思いますが。魂と引き換えに救うと約束したんですからね」
と、古ぼけた日記の表紙を手で撫でながら、リップは語りを終えた。
わたし、クラリスは打ちのめされていた。語りを聞き始めたと同時に、押し寄せるように記憶が蘇ってきた。元からエレオノーラの記憶はおぼろげで、死の直前ことは思い出せていなかった。
だけど今はっきり思い出し、強いショックを受ける。
(悪魔と契約を)
呪われた王妃の運命。その原因はすべて、エレオノーラが悪魔に魂を売ったせいで起こっていた。そこから始まって、何百年ものあいだに、何度も繰り返した。
「ではもうこの呪いは解けないのね? わたくしと」
自分が悪魔の贄であるという衝撃はとても大きい。絶望で息が止まりそうになる。
けれど。
「――レオポルド様は? どうしてこの人まで悪魔の贄に? わたくしのせいなの?」
同じ運命で結びついた“彼”。いつもわたしを苦しめてきたこの人は、どうして巻き込まれているのだろう。なぜ“彼”なのだろう。
「ヘンリックも悪魔に魂を売ったのね? ――そうね、そうなんだわ。だって悪魔自身がそう言っていたのだから」
さっきから避けていた視線が交わった。灰色の瞳の王子様と。
王子がわたしの下僕になんてなるはずがない。でも、そんなことが起こってしまった理由はもうわかっている。悪魔の贄となった二人。一方が一方を苛むようになっていたさだめは、すでに入れ換えられていた。魔女によって。
わたしが魔女に救いを求めるのは、これが初めてじゃない。
「わたくしがヘカテーに救いを求めたから。だからレオポルド様は“半分”になってしまった。魂を半分封じられて」
「ええ。まあそういうことですね」
あっさり肯定されてしまい、ぎゅっと目を閉じ、左手を右手で上から覆った。
レオポルド様の魂は封じられている。この薬指の指輪に。
「返す、返します」
「ミス・リントン」
「やはり指輪はあなたに、レオポルド様。こんな状態のまま生きていくなんて、そんなことさせられない」
魂入りの指輪を持つ田舎教師を、ご主人様として追ってしまう王太子様。それだけでもとんでもないのに。
(これを許したら、わたしは自分を許せない)
夢を追うということを知らない人。やりたいことがないと語る人。家族から『生きているのか死んでいるのか、それだけでもはっきりしてくれ』なんて言われてしまう人。空っぽの人。
半分の王子様。そんな状態のまま放ってはおけない。たとえ――。
「いいんですか、ミス・リントン? 指輪に封じられたものを解放するということは、つまり」
真剣な眼差しで問われる。明るく軽い笑顔を忘れたリップは、猫のような緑色の眼を、ひたとわたしに据えて問う。
「元の関係に戻ってもいいんですね?」
「……」
残酷な問いかけだ、とても。
今のわたし、クラリスの人生の指標を作ってきた過去の数々。
愛妾との仲を見せつけられ、嫉妬に耐えながらも結局は刺客を向けられて暗殺。
狂ったように殴る暴力男に委縮し、反抗すらできずに撲殺。
山城に監禁されて発狂し、周囲の男を片っ端から誘惑し始めて最後は衰弱死。
馬鹿で浪費癖の夫に染まり、自分まで民衆に憎まれるほど散財し、反乱によりギロチン送り。
それらの過去から学んだのだ。ああはならないために、賢く、慎ましく生きようと思ってここまで来た。公爵家という王室に近すぎる実家を出て、辺境で穏やかに一生を送ろうと決めていた。
「いやよ。とてもじゃないけれど受け入れられない」
手に入れてしまった自由を、そう簡単には手放せない。でも。
「レオポルド様がわたくしの下僕のままでいるのは、もっといやだわ。本当にもう、心の底から迷惑です」
「あ、そ、そうですかー」
脱力したのはリップ、「それほどだめか……」とつぶやいて目を逸らしたのはレオポルド様だった。