【椅子】魔女協会会長
【椅子】魔女協会会長
黒い石の指輪。左の薬指にはまったそれを、もう一度見る。
光を一切弾かない、純黒の石。この石の正体が、わたしはやっとわかった。
「ダイヤモンド……」
『金剛石と金の指輪を』。この指輪はあの時もらった物だ。ヘンリックがエレオノーラに贈った指輪。遠い昔、北の国で生まれて死んだ彼らの永遠の愛の証が、何の因果か、今わたしの指にある。
そしてこの指輪が“わたし”のところへ戻るのは、これが初めてではない。
ひとつ前の前世。クラリスとして生まれる前、わたしは東大陸の南海にある小国ゴウラのレティシア王妃だった。
独裁者の国王夫妻を断頭台へ送ったゴウラは、今は共和国だ。レティシア王妃は断頭台へ送られる直前、ひとりの魔女に会った。そこで己に課せられた運命を初めて知り、救いを求めた。この運命を断ち切ってほしいと。そして、魔女ヘカテーがそれに応じたからこそ、この指輪は黒くなった。
本来の輝きを失って、その内に抱えるようになった。真っ黒なモノを。
「ミス・リントン! やっと見つけた」
「殿下……」
レオポルド様がわたしを見つけた。わたしが指輪を見つけたように。
必ず見つけるはずだ。この指輪には、彼にとって最も貴重なモノが封じられているのだから。
どんな冒険を乗り越えてきたのか、今のレオポルド様はずいぶんと汚れている。髪には小枝が引っ掛かり、服は泥だらけ。それでも彼の表情が輝くのは、強く求めているからだ。
「よかった。もう会えないかと思うと怖かった」
「……」
抱き締められる。腕に込められた強い力が悲しい。この人が抱きしめたいのは、決してわたしではない。彼が恋い慕うのはまったくの別もの。
『神の域の美青年、でも中身はからっぽ』。
魔女によって魂の一部を切り離されたまま、レオポルド様は生まれ変わってきた。
この人は本当に空っぽだった。だからこそ強く求めた。
わたしではなく、指輪の中に封じられた自分の魂を。
『あなたこそ私が求めていたひとだ』
『もうあなたなしには生きられない。失えない』
『真剣に、従いたいと思っている』
『嬉しいんだ、今はただ』
『一日でも長く共に過ごしたい。離れたくない』
笑顔も服従も優しさも、ぜんぶ。彼の執着は、自分自身の魂を見つけた喜びだった。
「……泣いているのか?」
言われて知った。目と頬が熱い。レオポルド様が覗き込んだわたしの顔は、涙で濡れていた。
わたしは泣いている。『生きている手ごたえ』がないこと。魂を失くしたまま生きていたこの人が、本当はどれだけ苦しんでいたか。苦しめないことがどれだけ哀れなのか。それを想って泣いている。
「そんなつもりじゃなかったの」
「え?」
「どうしたらよかったの? だって――裏切ったのはあなただわ。わたしを見捨てた。そのせいでわたしまで、悪魔に魂を売ってしまった!」
さらに押し寄せてきた別の記憶に、わたしはとうとう錯乱する。困惑するレオポルド様の胸を叩き、彼にはあずかり知らない過去で責めた。止めようにも止められない。だってこれは、わたし一人だけの恨みじゃない。引きずられる。
そこへ。
「っちょ、ちょっとお待ちを!」
「……え?」
「ミス・リントン、僕が悪かったです、僕が」
「え?」
二回目の「え?」がわたしのだ。一回目はレオポルド様。二人そろって、ここで聞くはずのない声に驚く。いや、そんなことはない。従者の主人は予想していなかっただろうか。
わたしは振り返る。
「リップ! どうしてここに」
「いやちょっと、先ぶれにと思って。それよりもミス・リントン」
従者のお仕着せのままのリップは、山の中では非常に場違いだった。本人は少しも介さないが。
そして可愛らしい従者は、どうしてか、緑色の板を目の前に突き出してきた。
『アストレア国魔女協会』。そこにはこう書かれている。
「……看板? どこにあったのよ」
「いやあ、割と下のほうに。……やっぱり緑色はまずいか、風景に溶け込むんだな」
口の中で何かつぶやき、それから悪びれたように笑う。
「とにかく無事でよかった。お二人とも、ここからは僕がご案内しますよ」
「どこへ――」
「え? いやだなあ、わざわざここまで来ておいて。魔女に会うんでしょう、ブロッケン山の。さ、ちゃっちゃと頂上へ行きますよ」
と言って、本当にさっさと歩き出した。
突然のリップの出現で、わたしの頭は冷えていった。さっきまで叩いていた人を見る。
「わ。ご、ごめんなさい」
「いや。……構わない、いくら叩いても」
「え」
その言い方はちょっとひく。とんでもない方向へ行こうとした思考を振り払い、視線を逸らした。頬の涙をぬぐう。
「い、行きましょうか」
「うん。しかし知っているのだろうか、リップは。魔女の居場所を」
*
先ほどまでいた場所から、それほど登ったとは思えない。しかし先を進んでいたリップは、いくらも行かないうちに振り返って明るく笑った。
「さ、どうもどうもお疲れ様です! 着きましたよー」
「もう!? 嘘でしょう」
だが本当だった。木立が切れ、いきなり視界が開ける。するとそこは町だった。
「え……」
「広いな。本当にここがあの山の頂上か?」
並ぶ家々。白い壁の、可愛らしくて小さな家が軒を連ねている。屋根の色はそれぞれ違うが、総じてカラフルだ。そういう家が、青い芝生の中に立ち並んでいる。
「どうなってるんでしょう。ここ、霧の中ですよね」
「そのはずだが。――空が見えているな。山の周辺より天気がいいかもしれない」
「お二人とも、立ち止まってたら進みません、行きますよ」
足を止めて町に見入っていたら、リップに促される。おそるおそる足を踏み入れた魔女の山、その町。よく見ると町の人がちゃんと住んでいた。子どもが遊んでいるし、主婦は家事をしている。ごく普通の町のようだ。だが。
「……男がいないな。女性ばかりだ」
「あら。本当ですね、みんな魔女なんでしょうか」
「かもしれない。ならばここの女性には逆らわないほうがいいんだろうか」
妙な心配をするレオポルド様。しかしわたしは気が付いた。
町の女性の服装や容貌は、ごく普通のアストレアの一般女性とそう変わらない。でもちょっと違う。
(すごいわ。みんなレオポルド様を無視してる!)
神の域の美青年が歩いているというのに、この町の女性は特に反応しない。見えていないわけでもないだろうに。
わたしが余計なことを考えていたら、明るい声が飛び出してきた。
「フラッピー! どこ行ってたのよ」
「うわっ。なんだよ」
家の陰から飛び出してきたのは、お下げ髪の少女だ。そして少女はなんと、勢いのままリップに飛びついた。熱烈に。
「あ! ほんとだフラッピーだ」
「おかえりフラッピー! どこ行ってたのー?」
「ねえねえお土産は? 今度は何買ってきてくれたの?」
しかも少女はひとりじゃない。年齢はいろいろだけど、女の子が次々やって来てはリップに飛びついて離れない。可愛らしい顔の従者は、もっと可愛い女の子たちに囲まれている。しかしリップの対応は、どこかぞんざいだ。振り払おうとする。
「なんだよ、離せ。今おまえらの相手してる暇はないんだ」
「どうして、フラッピーはあたしたちのでしょう。みんなのフラッピーよ」
注意しても収拾がつかないと思ったのか、一番年上と見られる少女に対し、リップが言った。
「こいつらを大人しくさせてくれよ、シルフ。客を連れて来たんだ」
「え? あーらま、珍しい」
「ばあちゃんたちにも話は通してある。館へ行く」
こっちへどうぞ、と腕に捕まる女の子をもぎ離しながら、リップはわたしたちに言った。
そろそろ理解した。
「リップは魔女だったのね。そうだったのね!?」
「……ん、ま、説明は後で。まずは館へどうぞ」
またも案内され、リップの後について行く。そして連れて来られたのは一軒の大きな館。館という名のとおり、他の家と違って造りが重厚だ。黄色い石を積んだ厚い壁や、何本もの煙突。淡い緑色に塗られた窓枠が印象を明るくしている。
館の玄関へ続く細い道を進みながら、リップは振り返った。
「なかなかいい家でしょう? ほら、あそこ」
「あそこ……あ」
リップが指さしたのは家の壁。赤い蔦の絡まるその壁には丸くて青い金属プレートがかかり、金色の文字で『アストレア国魔女協会本部』と表示されている。わかりやすいと言えばわかりやすいが。
「な、なんか緊張感が」
「リップ。ランサムや他の者が山の中で消えたのだが」
「ああ、ご心配なく。あんまり関係ない人には山を下りてもらっただけですよ、無事です」
と言いながら、玄関扉をさっと開いた。外観はごく普通の家だけれど内部はどうなのか。どきどきして入ったら、やっぱり普通。民家の広い居間にしか見えない。
「大仰なのは好きじゃないんでね。人をもてなすにもこれで充分なんです、どうぞまだ奥へ」
居間から続く奥の部屋へと通された。
そこで止まった。
(大仰なのは好きじゃないって。これだけやれば充分大仰でしょ)
それほど大きな館ではなかったはずの、家の奥。
居間の奥の扉を開けると、そこは宮殿の一間だった。
大理石の床と柱。天井ははるか高く、豪奢なシャンデリアが下がっている。よく磨かれた床の上には、何やら複雑な文様を織り出した絨毯。壁には絵画のように精緻なタペストリーが掛かっていた。そして何に使うのかまったく謎な大小の物体が、部屋の脇に並んでいる。
大広間と呼んでもいい部屋の奥は、一段上がって舞台のようになっていた。
舞台の上にはただ一脚の椅子があるだけ。何の変哲もない木の椅子だが、その誰も座っていない椅子に向かってリップが手を上げた。それこそ舞台俳優のような、大仰な動きで。
「じゃーん! ではご紹介いたしましょう、アストレア国魔女協会、その会長を!」
しかしそこには誰もいない。椅子は空だ。
するとリップはそのまますたすた歩いて行った。そして座る。たった今、自分が指し示した椅子へ。そこで偉そうに胸をそらし、満足げに笑った。
わたしはしばらく固まっていたけれど、やがて隣の人と顔を見合わせた。真顔のレオポルド様はわたしの顔を見た後、再び自分の従者へ目をやった。
「魔女だったのか!」
「……いや。遅いですよ、殿下」
リップは呆れたようにそう言って、尊大な態度でひじ掛けに頬杖をついた。
「どうも、アストレア国魔女協会、会長のフラップ・J・リップです」
「やっぱり女の子なのね!」
「男ですよ」
どうだろう。わたしはまだ疑いを捨てられない。