【指輪】プット・ミー
2.【指輪】プット・ミー
夕刻、バーリー家の一番いい馬車で送られたわたしとサラが、南セントジョセフ島で一番大きな町、ウィングタウンに到着した。
わたしが住む南セントジョセフ島は全体に平地で、町や集落だけでなく、広い農場がいくつもある。自然ゆたかで空気は綺麗、住む人はおおむね暢気だ。林檎の花が咲きそろう頃には本土から見物客が集まり、ひとときの憩いを過ごしていく保養地でもある。
クリーム色にすみれの花模様のドレスは、ほっそりしたサラによく似合った。腰には白いオーガンジーのリボンを結び、とても可愛くて華やかだ。髪は上半分をふんわり結い上げ、残りは巻いて垂らした形。わたしが結ってあげたその髪には、薔薇の形をした銀ビーズの髪飾りをつけている。この前の誕生日にサラの母親が贈った、手作りの物だ。
サラがわたしを振り返った拍子に、その金の巻き髪が顔の横で揺れた。
「ねえ、ジゼル。あれ」
「ああ。北島から来たのね」
パーティーには大いに人が集まったらしい。そのため急遽、会場は町長宅でなく、町の公会堂に変更されたそうだ。その前庭は中に通されるのを待つ若者たちでにぎわっているが、中には海軍の制服を着た人もいた。
南セントジョセフ島から少し離れた北の海には、北セントジョセフ島がある。北島には海軍の基地が置かれていて、今夜のパーティーにはその艦隊の兵士まで来ているようだ。
しかしいざ会場に入ろうとすると、サラの顔は不安そうに曇る。
「ジゼル。わたし、変じゃない? 子どもっぽく見えないかしら」
「いいえ、よく似合っているわ。きっと申し込みが引っきりなしだから、覚悟していたほうがいいわね。休む暇もないわよ」
「いやだ、そんな。もう、すぐからかうんだから」
思った通りの言葉を口にしたので、心外だった。ロジャーがこの場にいたら心配でならないだろうとも。
わたしにも同じ心配がある。バーリー夫妻がわたしの同行を条件に出席を許したのは、きっとこのジゼル・リントン教師ならうってつけだと思ったからに違いない。
(しっかりしなきゃ。今夜はサラの付き添いなんだから)
変な男が近づかないよう、見張るのが役目だ。気をしっかり引き締めないと。
煙ったような青の、生地自体は綺麗だけどドレスにすると少し地味な服を着てきたのもそのためだ。昼間と同じ固くひっつめた髪型も眼鏡も、役目に徹するため。個人的な目的もなくはないけれど、今夜は主に、サラのデビューを見守る予定。
会場に通されると、わたし予定はすぐに、裏切られることなく実現した。
広い板間の舞踏室には着飾った男女が集う。奥の舞台では楽団が、前の曲の最後の数小節を終えたところ。次の曲が始まろうとする時、部屋に入ったわたしたちの前、正確にはサラの前には、魔法のように申し込み者が現れた。
服装、靴、それらの手入れ具合を素早くチェックする。雰囲気からして学生だろうか。二十歳前の快活そうな学生を前に、サラはわたしをうかがうように見た。目でうなずき、許可を出す。するとわたしの秘蔵っ子は花が開いたように微笑み、大人の世界へ最初の一歩を踏み出した。
とりあえず第一目標は叶った。サラは壁の花になることなく、相手の男性のリードに乗り始める。ひと安心だ。わたしがほっと胸を撫で下ろすと、
「お嬢さん。どうかお相手願えませんか」
驚いたことに、そんな誘いがかかった。あら、と内心どぎまぎして振り向く。すると。
(仮面!?)
もっと驚いた。そこにいたのは、高価そうな服装こそ立派だけど、その顔の上半分に白い仮面をつけた紳士だったので。
今夜は仮面舞踏会だったっけ? いいえ違う。そんな物をつけているのは、この、やけに背の高い男性だけだ。わたしは失礼にならない程度にゆっくり観察し、態度を決めた。
「……嬉しいお誘いですけれど、遠慮いたしますわ。実は、足を痛めていまして」
「おや。それならどうしてこちらに?」
「今夜はわたくし、友人の付き添いで来ていますの。ごめんあそばせ」
ほほほ、とおっとり笑って見せて、速やかにその仮面紳士から距離を取る。ゆっくり、何気なく。
(変な人だわ。たぶん島の人ではないし)
仮面舞踏会でもないのに顔を隠しているのは、あまり褒められたものじゃない。それに、一瞬だけどしっかり観察した。よく磨かれた靴や、体にぴったり仕立てられた服からは都会の匂いがした。だめだ。仮面をつけていなくても、お近づきにはなりたくないタイプだ
出鼻をくじかれたわたしは、その後、何度かダンスの申し込みを断ってしまう。そして何曲かやり過ごしているうちに、完全に壁の花となってしまった。
音楽に合わせて踊る男女の中、いつまでもひとりで立つ自分。
(まずいわ。人の心配なんてしてる場合じゃなかった)
どうしたものかと焦る。いつまでも壁の花で立っていたら、ときおりかすめる気の毒そうな視線が気になってきた。そもそも壁の花を認識すらしていないほど互いに夢中なカップルがそばを通りすぎ、無性にいたたまれなくなる。
(えーっと。そう、飲み物を。飲み物でももらおう)
仕切り直さないと。舞踏室を動き回るサラを視界に入れながら、壁際を移動するのは骨が折れた。そうしてやっと、居場所を見つける。ダンス中、軽くつまむ食べ物や飲み物を用意したテーブルのそばで。
しばらくすると、踊り疲れたサラがテーブルのそばのわたしを見つけて歩み寄ってきた。残念そうな表情の、さっきのとはまた別の青年の視線を背負いながら。
「ジゼル! もうくたくた、休まないと」
「そうらしいわね。ほら、パンチよ」
喉が渇いているだろうから、ガラスのパンチボウルから飲み物をよそってあげる。やることができてちょっとほっとしたのは内緒だ。林檎入りのパンチはサラの好物だけど、その視線はテーブルの別の場所へ向けられていた。
「わたしもあれがいいなあ……」
「だめよ、シェリーはサラには強すぎるわ」
「ジゼルは飲んでるのに」
「わたくしはいいの」
当然、という顔で反論を封じると、根が素直なサラはそれであきらめてくれた。良い子だ、本当に。大人しくフルーツパンチを飲んでいたサラだけど、やがてハッとした表情になる。
サラが見たものを見て、わたしも少し目を見開く。そして微笑む。心の中で、こっそり。
「ロジャー」
「サラ」
赤毛の男の子だ。青年と呼ぶにはまだ大人になりきれていない。慣れない正装に、決まり悪そうな様子の少年。
来てたんじゃないのと、外野のわたしもちょっとわくわくする。でも口では何も言わない。わたしは気配を殺し、ロジャーが「ん」と、ぶっきらぼうに出した手と、それを見つめるサラの反応を待つ。
「……しょ、しょうがないわね。ジゼル」
「はい、いってらっしゃい」
渋々、という態度を取りながらも、サラは喜びを隠しきれていなかった。妹みたいな子が、今夜一番幸せではち切れそうになっているのを知りながら、わたしは送り出す。
(もう、本当に甘酸っぱいんだから)
至近距離では目も合わせられないらしいサラとロジャー。さっきまで軽やかに踊っていたはずのサラの脚が、緊張でたどたどしいステップを踏む。そしてその足を踏まないよう気を使うロジャーの表情は、どこか固い。
(……ああ。好きだから、か)
好きだから緊張するし、どんな顔していいのかわからないくらい動揺している。
その初々しいカップルは、見ているほうが恥ずかしかった。なんだか見てはいけないものを見ているような、趣味の悪い覗きでもしているみたい。お目付役って、こういう気分まで味わうものなのね。……正直辛い。
「はあ……」
「そろそろお役から解放された?」
「はい!?」
溜息をついていたら、いきなり横から声がかかる。見上げるとそこには、さっきの仮面紳士。口元にはニヤリと人の悪そうな笑みが浮かぶ。
「え……ええ。いえ、そういうわけでは」
「きみ、本気で今夜は踊らないのか? シャペロンで気張るほど歳くってないだろうに」
「いえ、ですから。足を痛めていまして」
「へえ。気の毒に」
まったく気の毒だと思ってなさそうな言い方だ。まあその通りですけれど。
「まあいいか。綺麗なドレスだね、地味だけど」
「ありがとう。地味ですけれど」
「真面目そうだなあ。家庭教師みたいだって言われないか、きみ」
「教師ですわ、実際に」
「納得。――ああ! 思い出した、そういう色のドレスはアロミンスターでよく見たな。そう、たしかハートフォード公爵の……」
仮面男は何気なく言ったのかもしれない。でも、その名詞がわたしに及ぼした影響は大きかった。運が悪い。ちょうど飲んだばかりだったので。
「ゴホっ! ゴホ……ふっ。ケホっ」
「お嬢さん!? おい、大丈夫か」
むせた。口に含んだばかりの甘いお酒を気管に入れてしまい、激しくむせる。
(あ、焦り過ぎだわ)
我ながら平常心を失い過ぎだ。冷静に、冷静に。
「お、お酒が強過ぎたようですわね。その、失礼いたします。少し外の空気を」
なんとか誤魔化そうと、とりあえず退散を決め込む。仮面男から。だけど相手は引き下がらなかった。
「いや。ひとりで大丈夫か? よかったらついて」
「結構です!」
なんて非常識な。知らない男性と二人きりで抜け出すほうが問題じゃない。
*
夜風を顔に受け、ふう、と息をついた。パーティー会場を抜け出ししたわたしを追いかけるのは、音楽と喧噪の声だけ。公会堂の前庭を抜ける散歩道をゆっくり歩くと、少し肌寒いくらいの気温をちょうどよく感じる。
(はあ。これじゃだめだわ)
サラのパーティーデビューは成功したと言っていいだろう。でも一方で、わたしがほんのり抱いていた期待は叶いそうにない。
仮面紳士の言う通りだ。わたしだって、本当はただの付き添い役で終わるつもりはなかった。素敵な人がいたら、ダンスだってしたかった。何か、その次に繋がるような出会いを期待していた。
だって素敵な男性――素敵な農場主との出会いを求めてわたしはここに来たのだから。
南セントジョセフ島には多くの農場がある。そのどこかの農場主か、その跡取り。それがだめなら小作人でもいい。とにかく働き者で素朴で、地道にこつこつ大地を耕す人だ。都会を好まず、平和な島での生活を愛する人。過去のことを色々検討した結果、結婚するならそういう人がいいと決めていた。
島へ来て一年弱。だけどまだ巡り合えていない。地味な学校教師に、社交辞令以上の興味を抱く人はいない。……モテないと言ったほうが早いけれど。
今夜は島の若者が多く集まるだろうから期待していた。でもうまくいかなかった。声をかけてきたのはほとんど軍人で、しかもけっこう歳のいった人たちだった。
いや、もしかしたら。別にそれでもいいのだろうか。
(そうよ、えり好みなんかしてる場合じゃないわ)
出世しそうにない人なら海軍でもいいか、と守備範囲の拡大について考えること数秒。
地面から光が射した。
「ん?」
周囲は暗い。それなのに、光る何かが地面にある。
そこは歩道から外れた芝生の上だ。芝生の上になぜか盛り土があり、そのてっぺんで何かが光った。なんだろうと歩み寄り、思い手を伸ばす。拾う。
半分土の中に埋もれていた、“それ”を拾いあげること。
思えば、ここがわたしの運命の分かれ道だったのかもしれない。
土を払い、てのひらにのせる。目の高さに近づける。
「指輪……」
光る物、それはどうやら指輪らしい。小さな金の輪に石の飾りがひとつついていて、それが篝火にでも反射したのだろう。周囲が暗いせいもあるけれど、色みが濃いその石は、真っ黒に見えた。
それだけの代物だ。誰かの落とし物だろう、黒い石がついた指輪。
でも。
プット・ミー(私を嵌めて)。
思いがけず、わたしは強く魅入られた。こんな世界の片隅で、偶然そこにあったただの指輪が、わたしを見つけた。そう、見つけたのはわたしではなく、指輪がわたしを見つけたのだ。
おかしい。なんだか胸が痛い。泣き出しそうなほどの痛みが胸にある。これは……もしかして懐かしさ?
指輪の持つ不思議な力に導かれるように、右手が動いた。不思議な懐かしさすら感じながら、自分の左手の薬指にそれを嵌める。ぴったり納まった。
この指にぴったり嵌った指輪を見ていたら、頬に温かいものが伝わった。どうしてだろう、泣いている。嬉しいのか悲しいのかわからない。でもこれだけは確かだ。
わたしのもの。これはわたしの指輪だ。だって、ずっと前に――。
「……?」
ふと我に返った。後ろを見る。
今、後ろの公会堂からひときわ大きな歓声が響いてきた。尋常じゃない喜びと興奮を感じる。どうしたんだろう、パーティーで何かあったのかな。
でも、わたしの心はまだ指輪に奪われたままだ。中にいるサラのことを思い出したけれど、ロジャーが一緒だからもう少しいいだろう。このままもう少し、ひとりでいたい。
誰もいないベンチを見つけたので、そこに座る。左手を掲げて指輪を見た。
さっきと同じだ。何の変哲もない、古ぼけた指輪。飾りの石すら特に綺麗でもない。
だけどわたしは必死に思い出そうとしていた。この指輪に誓ったのは、何だったか。
考えることに夢中だった。外に出てからどれくらい時間が経っただろう。冷えた体が夜風にふるりと震え、お陰でやっと、わたしは気がついた。
「! どなた?」
いつの間に現れたのか。数歩の距離のところに誰かが立っている。立って、座っているわたしを見下ろしていた。
空には月が出ていた。お陰でさっきよりは視界が開けている。
男の人だ。羽織ったインバネスの下にはイヴニングコート、頭にはトップハット。脱いで片手に持った革手袋からホワイトタイ、純白のシャツに至るまで、完璧に整った紳士スタイルだ。こんな辺境の公会堂ではまず見られない。恐らく上流階級だ。
彼が帽子を取ると、黒髪が現れた。同時に、見えにくかった表情が露わになる。
そこにあるのは無感動な瞳。笑ってもいなければ怒ってもいない、完全な真顔だ。
だけど――わたしは呆然とした。声を失う。だって、月明りの下にいる“彼”がどれだけ美しいのか、語る言葉なんてないから。
「みつけた」
言葉のないわたしは無意識に立ち上がる。座ったままでは無礼に当たると、何故かそう思った。腰をかがめ、ドレスのすそを持ち上げようとして、衝撃を受ける。ガンっと、頭を殴られたように、いきなり理解した。自分の無意識の行動で、相手が誰か、わかってしまった。
全身が震える。恐怖で。
怖いのに抗えない。目も逸らせない。その場にひざまずく彼を、止めることすらできない。おかしいのに。他人に向けてそんなことをするはずのない、高貴な人なのに。
今度は彼がわたしを見上げる。
その無表情が一変した。瞳が熱を帯びる。やめて、微笑まないで。そんなに綺麗に笑わないで。
「やっと会えた。あなたこそ私が求めていたひとだ」
わたしの左手を取った彼は、その薬指に嵌まった指輪に口づけした。そして再び顔を上げ、口を開く。その口が告げるのはきっと、わたしが最も聞きたくない言葉だ。でも耳を塞げない。逃げられない。
こちらの心情など知らない彼は、おごそかに告げた。
「誓います。――私は一生あなたのものだ。ご主人様」
……ん? ちょっと待て。今のは聞き間違い?
「……。え?」
『ご主人様』って。どうしてそうなる。