【登山】霧の中へ
【登山】霧の中へ
リップがいないことを、翌朝になってようやく知った。
「まあ。いつからいませんの?」
「ここに到着した時にはいたのだが。そういえば、夕食前には姿を見せなかったな」
「殿下……」
朝食の席だ。家族用のダイニングテーブルでレオポルド様に挨拶すると、リップの不在を知らされる。
「それでいいんですか? あなたのお世話が仕事でしょう、リップは。勝手に出て行くなんて」
そう言いながらも心配になり、席を立ってブライトンのところへ行く。日が落ちると屋敷の周囲は真っ暗闇だ。近くに集落はなく、目印がない。そして湖がある。ブライトンに相談し、捜索してもらうことになった。
朝食の場に戻ってもう一度、行方不明の従者の主人と話す。
「湖に落ちたんじゃないといいですけれど」
「リップは頭がいいし物知りだ。暗闇が危険なことくらいわかっていただろうから、それほど心配する必要はないと思う。あれでもあなたより年上かもしれない」
「年上? まさか、嘘でしょう」
「さあ。そういえば知らないな。実年齢を」
それほど心配することはないと言われても、気にはかかる。町があるのは車で一時間行った先だ。車は残っているし、徒歩で外出しても周囲には湖と草原、羊だけ。外に出て何の用事があるというのだろう。
「――レオポルド様。準備ができましたが、どうしましょうか」
ダイニングルームの外から声がかかる。ランサム中尉だ。
「ミス・リントン、どうしたい? 先にリップを捜すか」
「……捜すと言っても。行先に見当も」
「見当ならある。もしかしたら先にブロッケン山へ向かったのかもしれない、あいつのことだ」
「! そうですわね。では」
とにかく、目的地へ急ぐことになった。探し物は魔女だけでなく、消えた従者もだ。
我が家のそばにも湖があるので、そこに浮かべて遊ぶボートを所有している。ボートを荷台に積み込み、その荷台を乗ってきた車に繋いで運んでもらった。
今日もまた、ブロッケン山は霧に包まれていた。白い霧が低い山を覆って隠した姿は、やはり不自然で不気味だ。周囲を囲む湖に、ボートを下す作業を見守った。
(……どうしよう。これでもし魔女なんていなかったら)
嫌な意味でどきどきする。王太子殿下の護衛やその他随従が予定外の重労働にいそしむ姿を見ていると、なんだかプレッシャーを感じた。おとぎ話のような伝説に導かれるままやって来てしまったが、本当に、我が家と目と鼻の先のようなここに、魔女なんているのだろうか。今まで聞いたこともなかったのに。
「ミス・リントン。島の周りをぐるっと見てきたんだが、少し左へ行けばボートがつけられそうだ」
「ええ、はい」
「ランサムが先に様子を見て来るそうだ。もう少し待ってくれ」
そう言ったレオポルド様の視線は、しばしこちらに留まった。彼が見ているのはズボン。考え方の古い人なら、女がズボンを穿くなどけしからんと言ってもおかしくない。
「これですか? 次兄の物ですわ、子どもの頃の乗馬服。ドレスで山登りはできませんもの」
「……ああ、そうだろうな。失礼した、じっと見たりして」
「いいえ、お目汚しかもしれませんがご容赦を」
代わりにこちらは身体の自由を得る。ツイードの乗馬ズボンにブーツ、実はコルセットすら省いたのは内緒だ。山に登るのだから許してほしいと思う。
先に小島へ行った人々が戻り、狭いが船を着けられそうな岸辺があったと知らされる。ひとけもないそこは特に危険でもないようなので、さっそく王太子とその連れも向かった。
まばらに草の生えた岩地に、わたしは降り立った。まだここに霧は出ていない。
「ここに……魔女が?」
「ですかねえ。俺も従妹に聞いていただけなので、はっきりとは」
「看板があるとか言いませんでしたかしら、中尉?」
「アストレア国魔女協会。……見当たりませんね」
ランサム中尉とわたしは顔を見合わせたりしなかったけれど、思いは同じだっただろう。
本当にここでいいのだろうか。伝聞やら噂を頼りにここまで来た自分たちは、ただの間抜けではないか。言い出しっぺの中尉もわたしも、そんな心配をしている。
「頂上に行けばいいのだったか? では行くか」
「いえ、お待ちを殿下。先に安全を確認してからに」
「危険などなさそうだぞ。人っ子ひとりいないどころか、鳥すらいない」
レオポルド様に言われてはっと気が付いた。そうだ、ここには生き物の気配がない。
その時だ。ランサム中尉の部下のひとりが、森の中を指さして言った。
「森に何かいます! 赤い服の……女の子だったような」
「女の子? まさか本当に魔女か」
「わかりません」
霧の山、ブロッケン。ここは本当に魔女の棲み処なのか。進んで行って、無事で済むのか。
決断を下したのは最も地位の高い人だった。
「行ってみよう」
王太子のその一言で決まった。
*
異変は少しずつ始まった。
「あれ? スコットはどうしたんだ」
道なき山を登る一行は、容易に先へ進めない。山の傾斜が緩やかだったのは初めだけ、徐々にきつくなると同時に、木々の重なりも深くなる。だから慎重に慎重にと、行けそうな場所を探しながら進んでいた。目印として、赤いリボンを目につくところに結びつけながら。
そんな中でランサム中尉が気づいた。最後尾を守っていた中尉の部下が、消えていることに。
「スコットー。どうした、遅いぞー?」
声をかけても返事はない。仕方がないので別のひとりがしばらくその場で待ち、わたしたちは先に行ってみることになった。
たぶん、その時点でやめればよかったのだろう。でなければ、それ以上魔女の山に、人が飲み込まれることはなかった。
当たり前だが、一行で最も体力のないのはわたしことクラリスである。よそのお嬢様がたよりはましだという自負はあるが、男性にはついて行けない。だがわたしが止まるとまずレオポルド様が止まり、彼が止まると全体が止まる。
「はあ……これは、大変ですね。一人で来なくてよかったです」
「大丈夫か? 辛そうだ」
「大丈夫です、水を飲めばなんとか。ありがとうございます」
森の木に背を預け、しばしの休憩を取る。なかなか息の整わないわたしを見て、レオポルド様が提案した。
「ミス・リントンはここで待っていたらどうだ。私が頂上へ行き、魔女がいたら連れてこよう」
「そんなわけには」
「だが……もしいなかったら」
彼はその先を口にしなかった。
山を登り始めてから、どれくらい時間が経ったのか。不思議と霧に包まれることはないが、何も見つからない。人がいる気配も、建物も。それから看板も。
そろそろ疑い始める頃だろう。ここはただの山ではないか、と。しかし。
「……さっきのスコットさんたち。追いついてきませんね」
「そういえば遅いな」
「赤い服の人を見たと言っていたのは」
「スコットだ」
ランサム中尉が断定する。みんなしばらく無言だった。そして中尉は再び指摘する。
「おい。ハリスはどうした」
「え? ……今ここにいましたよね?」
「いないぞ」
「ウィリアムズは?」
「パターソンもいない!」
どうして、いつからそうなったのか。
先ほどまで十人いた一行。しかし今、残っているのはわたしとレオポルド様、そしてランサム中尉とその部下二人。気が付いたら人数が半分になっている。
これはおかしい。深刻な表情のランサム中尉が言った。
「……レオポルド様。これ以上はまずいです。どうして部下が消えたのかわかりませんが、危険です。すぐ山を下りましょう」
「しかし。山を下りるといっても、彼らを置いて行くのか?」
「そういうわけではありませんが、殿下を山から下した後でないと捜せません。とりあえずお二人に山を下りてもらいます。ミス・リントン、歩けますか」
歩けないなどと軟弱なことを言うつもりはない。事態は深刻だ。
「大丈夫です、行きましょう」
心残りはあるけれど仕方がない。立ち上がり、登っていた山を下りる。赤いリボンの目印を頼りに。だけど――。
暗くなってきたと、突然気が付いた。
「あれ? 霧が」
ほんの少しの時間だと思う。下りにくい箇所があり、そばの木につかまって足を延ばしていた。その作業に夢中になった、そんなほんのわずかな一瞬だ。気が付いたら霧に包まれている。
そして最悪なことに。
「……殿下?」
ずっと、見守るようにそばにいてくれた人まで消えている。レオポルド様だけではなく、他の人たちも。前後に誰もいない。
ごくりと喉を鳴らした。消えたのはたぶんわたしだ。とうとう自分がはぐれてしまった。魔女の山の中でひとり、霧の中で立っている。
「……」
どうしようという不安と、冷静にならないとという焦りが戦った。下り始めた時、優しい下僕がついにわたしの荷物――水筒と食べ物、上着くらいしか入っていないけど――を取り上げることに成功したので、手ぶら状態だ。自分まではぐれるとは思ってなかった。
とりあえず周囲をもう一度見回す。霧で目印のリボンは見当たらない。だが傾斜があるので、下がどちらかはなんとなくわかる。
「じ、自力で道を見つけていくしかないわ」
と、声に出して自分を鼓舞した時だ。強い風が吹いた。立っていられないほど。
転げ落ちるのを防ぐため、その場にしゃがんだ。
「……っ」
身を低くしてやり過ごしたら、突然の風はまたぴたりと止んだ。顔を上げ、そして声もなく驚いた。
霧と樹木だけだったはずの空間に、人工物がひとつ。こんなところには到底なさそうなそれは、一台の糸車だった。
「なんで」
人間はいない。だが数歩ほど離れたところに置かれた糸車は、誰も手を触れないのに動き出した。
――カラカラ、カラカラ。
音がする。木の車輪が回る音がした。
回る輪。巡る運命。同じところをくるくると、何度も何度も繰り返し歩む。
「これは」
わたしはこの糸車を見るのが初めてじゃない。前にも見た。
遠い記憶。
よみがえるのは白濁した両の眼。語る声。回る糸車。
『――レティシア様。あなた様にかけられた呪いはこのようなモノです。回転し続ける糸車のように、永遠にこの世を彷徨うがあなた様のさだめ』
『呪いですって? わたくしはそれからどうやって逃げればよい? 呪いを解けば、あの断頭台から逃げられる? 生き延びられるのか?』
糸車の前に座った女。光を失った女は、糸車を回しながら続きを語った。
『――今のあなた様をお救いする道はありませぬ。レティシア様はすでに囚われておりまする、悪魔の罠に。傲慢の大罪に堕ちられたあなた様を、我ら同胞に迎える術もありませぬ』
『なっ! おのれ、そなたごときがわたくしを愚弄するか』
汚物のにおいのたちこめる、地獄のような牢獄で。
糸車の女と向き合うのは、驕慢な女。なけなしの誇りにしがみついた女は、明日にも断頭台に送られようとする一人の王妃だ。
『もうよい、去れ!』
『お待ちを。レティシア様をお救いことは叶いませぬが、この魔女ヘカテーには考えが』
“魔女”。
わたしは――そうだわたしは、前にも魔女に会った。めしいた魔女だった。
『囚われの身は国王陛下も同じこと。お二人ともが悪魔の贄となられたのだから』
『このさだめを切り離すは至難の業にございます。悪魔の鎖を断ち切る術を、今のヘカテーは持ちませぬ。代わりに』
『一方が一方を責め苛むさだめを、これより入れ換えてさしあげましょう。そのためにはあなた様がお持ちの指輪が必要。それをお貸し願えますか』
『陛下があなた様を苛むのは、あの方の魂が悪魔の所有にあるから。生まれ来るたび必ず王者に据えるため、悪魔が与えた強い征服欲、残虐性。それらが数百年に及びあなた様を苛んだのです』
『ですから切り離し、封じ込めてしまいましょう。あの方の魂、その半分を指輪の中に』