【帰国】湖水の地
【帰国】湖水の地
角を曲がってきたリップが何か言う前に、その手に布の塊を押し付ける。黒い上着は王太子様の物である。
「ミス・リントン!? おはようございます、朝からどうされ」
「おはよう、リップ。殿下にお借りした物を返しますと伝えてちょうだい、お礼もね。朝食はもう済んだから、次は下船の時で結構よ」
「ちょっとお待ちを、ミス・リントーン?」
呼ばれても振り返らなかった。自分の部屋に戻ってまた荷物を詰め、そのまま下船の時を待った。
人を介して眼鏡が返されたのは、到着直前だった。
*
人は時に、罪悪感がある時ほど意固地になる。恥ずかしさに打ちのめされて、素直になることもできなくなる。
その日のミス・リントン、もしくはレディ・クラリスもそのような状態だった。
(~~なんて自分を分析している場合じゃないわ)
実家を離れ、辺境の南セントジョセフ島に渡って一年以上経つ。だからわたしにとって、久しぶりのアストレア本土だ。
再び海を越えて、今度は祖国の港に降り立った王太子レオポルド様とその一行。予定よりもかなり早い帰国のため、まだその話が世間に伝わっていないのだろう。そこで出迎える市民はいなかった。
一行を待っていたのは、迎えの車が何台か、それだけ。しかしそこで問題が起きる。
「このままブロッケン山へ向かう?」
「はい。あの、できることなら。ご迷惑でしたら、わたくし一人でも行けますけれど」
周囲を困らせているのが自分だと思うといたたまれなかった。でも曲げられない。意固地になっているという自覚はある。
ランサム中尉、リップ、そしてその主人。乗車する前に、これからどうするか話し合っていた人たちに告げた。
「電報を打てば。……家の者が来てくれるでしょう」
「しかしレディ・クラリス。あなたを一人で行かせるわけには」
「リントンです」
「……ミス・リントン」
顔を上げられず、したがって相手の顔も見れないまま話す。しかし見なくても、高貴すぎる下僕が意気消沈しているのはわかった。こちらも同じだ。
「ふ、二人だけで話せますか」
密室で二人きりにはなりたくないけれど、開放的な空間で、遠くに誰かの目がある状態なら話せなくはない。港の、海ぎりぎりの場所に移動する。
「これを」
いたたまれなさで死にそうだった。昨日わたされた指輪を、ぎゅっと握って差し出す。言わなくても中身はわかるだろう。その意味も。
「返すのか。指輪を」
「……はい」
罪悪感が重い。早くこれから抜け出したい。それにはやはり――。
「指輪を。いえ、呪いの指輪のほうですけれど。これを一刻も早く外すべきだと思うんです。そうすれば、今の殿下の執着も消えるかも。だってそうでなければわたくしなんかに。他にふさわしい人がいます」
「妃候補なら数えきれないほど会ったが。……あなたはまるで別だな」
苦笑する気配。握った手の下に、レオポルド様の手が出された。わたしは手を開き、そこに指輪を置く。顔は上げられない。
「呪いの指輪のほうは、その、これから外しに」
「あなたを一人では行かせられない。――誰か地図を。ブロッケン山というのは、いったいどこにあるんだ?」
それは先に調べてあった。随従を振り返った彼へと進言する。
「殿下、恐れながら申し上げます」
こうして、この後の予定は決まった。王太子殿下はアストレア王宮へ帰る前に、寄り道する。
*
海の上にいる時に調べておいた、ブロッケン山の位置。それはわたしにとっても思わぬ場所だった。
「あの、その。色々と無礼をしでかしたかもしれません。レディ・クラリス」
「いいえランサム中尉。黙っていたのはわたくしですから。それに別に、失礼でもなんでもありませんでしたよ」
そう言ってあげると、前の座席で必要以上に小さくなっていたランサム中尉は急に元気になった。王太子殿下が別の車に乗っているので、これまた必要以上に軽く。
「ですよね? いやあ、あなたも人が悪いですよ。島から連れ出された時点でおっしゃればよかったのに。俺もね、ダンスパーティーで会った時、他の女の子とはなんか違うなって思ったから声をかけたのであって。どうです、なかなか鋭いとは思いませんか」
「そういえばそうですわね。そもそも中尉がふらふらと遊びにいらしたせいで殿下があそこへ探しに来られたのでしたっけ。そしてわたしと会った。ということは、すべての原因は中尉にありますわね。まあ、今まで気づきませんでしたわ」
「……失礼いたしました」
目的の山へ向かう道すがら。他の誰より扱いやすいランサム中尉は、簡単に調子に乗るし、落ち込むのも早い。コホンと咳払いをしてから話題を変える。
「ええと、オルコット州でしたか」
「はい。ちょうどブロッケン山の近くに父がひとつ屋敷を持っていますわ。たぶん車で一時間ほどでしょうから、今夜はそこに。明日の朝あらためて登ることになるでしょう」
「はー。すごいですな、公爵ともなると」
「勘当同然ですが、追い出されはしないでしょう。他の家族もたぶん……来ていないといいですわね」
家族と顔を合わせるのも避けたいが、それ以上に、レオポルド様のことをどう説明したらいいのか困る。いませんようにと祈るばかりだ。
半日ほど車に揺られ、到着したのはアストレア北部の町。町を通過し、羊が群れをなした緑の丘をいくつか超え、坂を下る。坂を下った先、すり鉢状になった土地の底に、黒い水をたたえた湖があった。そして湖水上に浮かぶようにして、その山は立つ。
ブロッケン山。みんなで車を下り、湖畔から眺めた。
「確かに妙ですわね。山頂が見えませんわ、それほど高くもないのに」
「そうでしょう。いそうでしょう、魔女とか雪男とか。俺の言った通りでしょう」
「雪男のことは知りませんけれど……雪は降ってないからいないと思いますけれど」
雲で重い灰色に沈んだ空を背景に、そびえる小島の山。山麓は森で覆われ、中腹から先は霧でよく見えない。それほど高くもない山を近くから眺めているのに、見えないのは奇妙なことだ。いや、奇妙を通し越して不自然。人為的というか、超自然な異変を感じる。
「なんだか怖い」
「怖い?」
つぶやき声に足を止めたのは、高貴すぎる下僕さま。今のところまだご主人様であるらしいわたしの不安を、レオポルド様は聞き流さない。
「あなたが行きたくないなら、魔女のほうを連れて来るという方法も」
「いえそんな」
そんな、いるかいないか未だにはっきりしていない存在を連れてくるとか、そこまで無理難題を命じるつもりはない。明日はそこに向かうとはいえ。
「どうなるかわからないから、怖いと思って。いるかいないかもそうですが、本当に指輪を外してくれるのかもわかりません。助けてくれるのでしょうか」
不安だらけだ。山の奇妙な姿も、その不安をあおる。今までこんなところに、魔女の山があることすら知らなかったことも。
「私は……外してくれないほうがいいのだが。しかし」
正面から向かい合うと、彼はわたしの肩に両手を置いた。
「あなたのことは必ず私が助ける」
『君のことは必ず俺が守る』
「だから心配しなくていい」
『心配するな。安心して待っていろ』
――待っていた。助けに来てくれると信じていた。信じて待っていたのに、あなたは。
重なって聞こえた遠い声。わたしの意識は、一気にそちらへ引っ張られた。
甲冑に鎖かたびら。戦装束に身をかためた金髪の男が、いななく馬を抑えながら、こちらへ笑いかけてくる。その表情は王たる威厳と自信に満ちあふれ、輝いていた。
「うそつき」
「え?」
現実から遠のいていた意識は、また急激に戻された。我に返るとそこには黒髪の青年。カジュアルなツイードスーツ姿のレオポルド様が、驚いた顔をしている。
「嘘つき?」
「え、いえ。違います。あなたのことでは」
そう、この人じゃない。敵中に妻を残して見捨てた非情の男は、この人じゃない。
「もう行きましょう。日が暮れたら道がわからなくなります」
わかっていても感情が収まらず、あわてて言った。その拍子に彼の手を振り払ってしまったのは、自分でも冷たいと思った。
*
ブロッケン山のある湖から町に引き返し、そこから一時間ほど車で進むとまた別の湖がある。その湖畔に屋敷は建てられた。父の所有する屋敷の、そのうちのひとつだ。
「クラリス様!」
「ブライトン。久しぶりね、電報は見てくれた?」
町も森も薮すらない、だだっ広い緑の草原に囲まれた湖。その湖畔にある屋敷の周囲も何もない。ただぽつんと立つ、白い壁と灰色の石積みの建物。先祖の誰かがただぼんやりするためだけに建てたかのようなこの屋敷は、子どもの頃、わたしの逃げ場所でもあった。
今日も日が暮れた。車の灯りが遠くからでも見えたらしく、屋敷の前に停車すると、すぐに管理人のブライトンが迎えてくれる。もう七十過ぎのはずのブライトンだが、背筋のしっかり伸びた、まだまだ元気な老管理人だ。歓迎の意を込めた温かい笑顔に、わたしも同じものを返す。
「もちろんです。おかえりなさいませ、クラリス様」
「ありがとう。……で、指示通りに? 他の家族は知らないわね?」
「はい。――後ろの方々が例のお客様ですかな。うん、あれ?」
実直なブライトンはあんがい冗談も通じる人だが、これには彼も驚いた。主人の娘が「内密に」と頼んで連れてきた“友人”たち。その一行の中に、よく顔の知られた人が混じっていたので。
「まさか」
「ブライトン。お前がいま思っている通りの人だけれど、あの方は少し立ち寄るだけよ。近くにお会いになりたい女性がいるから、今夜だけ泊めてほしいんですって。そういうことだから、父には内緒よ?」
真実ではないけれど、それほど遠くもない。王太子様は魔女に用事があるのだから。わたしもだけど。
「は、はあ。……それでは中へどうぞ」
気のせいか、レオポルド様を見るブライトンの目はそう好意的でもなかった。
一人で出歩くことすら許されなかった十代の頃。わたしはよく、お目付け役の家庭教師や母の目を盗み、この湖畔の屋敷へ逃げ込んだ。誰かをもてなすための家ではなく、家族が純粋に休暇を過ごすための場所だ。内装は華美ではなく、くつろぐための家具がそろっている。
屋敷の中心、天井高い居間には大きな暖炉がある。その暖炉の前の大きな肘掛け椅子で丸くなり、炉床の炎を見るのが子どもの頃のお気に入りの過ごし方だった。
だからそこにいた。もう夜中だ。ここは相変わらず居心地がいい。今夜は寝室ではなく、ここで眠ってしまうかもしれない。自宅だからいいと思った。
「……そういうわけにはいかないか」
自宅だが客がいる。王太子様ご一行は、減ったとはいえ十数人からなる大人数だ。多人数を泊めるには寝室が足りず、両親や兄たちの部屋まで使った。どこで誰と鉢合わせするか、わかったものではない。
わたしは落ち着かなかった。明日のことを考えるからだが、それだけじゃない。
昼間のこと。
遠い、とても遠い記憶。最も古い出来事かもしれない。
――見捨てられた王妃の話。
世の中に国家という概念すらなかった時代。各地を治めるのは血縁で結ばれた豪族だ。だがその領地は小さく細分されていて、争いは絶えることがない。
小競り合いを続けるうちに、周囲の豪族を配下に収める有力者が生まれた。有力者は単なる族長ではなく、新しい長――王を名乗るようになる。“王国”がやっと誕生したような、それぐらいの時期だ。
生まれたばかりの王権はまだ弱い。いつでも取って代わられる可能性はある上に、他の地方にも国は成立していた。戦乱は終わらず、戦いの規模だけが大きくなる。
ある国の王が妻に言った。『戦に赴く』と。そして戦地近くに築いた砦へと同行させる。だがすぐに終わるはずの戦闘は長引き、敗走を余儀なくされる。気が付いたときには、王のいる本隊だけが脱出に成功していた。最も信頼する部下が別動隊を率いていたが、あえなく敵の手に落ちていた。
砦に残された王妃もまた、ほどなく敵兵に囲まれる。砦はそのまま敵国の手に渡り、王妃も捕虜となった。
――それでもわたしは信じていた。守ると言ったのだから。彼の言葉を信じるからついて行ったのだし、囚われても待っていた。必ず助けに来てくれると信じていた。
(……でも来なかった。あの人はわたしを見捨てた)
今の“わたし”は我が身を抱く。あれはわたし、クラリスに起こった出来事じゃない。裏切られたのはわたしじゃない。それなのにつらいと思っている。
その後起こった出来事は、史実として残っている。東大陸の北、今のリレブロア王国の礎となった小国アーデン。北方の漁民部族が築いたその国の古い歴史では、ヘンリック王の妃エレオノーラは、敵中で命を落としたとなっている。捕虜を釈放するための莫大な身代金はヘンリックの一の部下と兵のために支払われ、エレオノーラが夫のもとに帰ることはなかった。
大昔の話だ。わたしが読んだ歴史書では、一ページにも満たない扱いだった。歴史を左右するような、そんな大層な話じゃなかった。
だけど。
その大昔の小さな出来事が、今のわたしを苦しめる。やりきれない。本当はこれこそが理不尽なのかもしれない。あの“最初”の裏切りに、いまだ傷ついたままなのだから。
「――クラリス様」
「っ! ブライトン。ごめんなさい、起こしてしまったかしら」
燭台を手にした老管理人が、半分眠ったようなわたしを目覚めさせた。
「いえ、お部屋におられないので。心配で」
「どうして? いつもよくここにいるでしょう」
「……お客様がお越しですから。クラリス様、今夜はお部屋へお戻りを。どうか」
ブライトンの言い方は、優しいながらも断固としたものだった。どうかしたのかと首をかしげるけれど、素直に従った。さらに番をすると言い張ってドアの外に居座るので、もっと戸惑った。