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【林檎】完璧な晩餐

【林檎】完璧な晩餐



 またも発生した朝の王太子失踪事件。今度は緘口令を敷く侯爵がおらず、航海の二日目から噂は蔓延した、ようだ。


「やあどうも、プリンス・ミストレス。ごはんですよ」

「……」


 もはや自室に引きこもり状態で過ごすわたしは、昼食のトレイを持ってきてくれたリップを無言で見返した。軽くにらんだつもりだが、愛らしい顔の従者はどこ吹く風といった表情だ。


(まったく。どっちの意味で使っているのよ)


 リップの言う“ミストレス”が、愛人の意なのかご主人様の意なのか。わたしはどちらもご免こうむりたい。


「まあまあ。僕はこの件に関しては決して口を割らないと誓いますから、なんでも相談して大丈夫ですよ」

「ありがとう。でも間に合ってますわ」

「そうですかあ? 僕は詳しいですよ、今までの女性関係に。こうなった以上は知りたくないですか」

「こうなってもどうなってもいませんわよ。ただ」

「ただ?」

「……別に。お食事をありがとう、トレイは出しておきますわ」


 言外にもう行ってと伝える。しかし自由気ままな従者は、それが通じない振りをした。


「はーいはい。ではセッティングもお任せを」


 ポークパイとトマトスープという簡素なメニューのどのあたりにセッティングが必要なのかわからないけれど、とにかくお茶だけはポットからカップに注いでくれた。


 白い陶器のポットを手にしたまま、リップはぽつりと言う。


「仕方ないな。白状しようじゃありませんか、僕とランサム中尉の疑いを」

「疑い? 何のこと?」

「そう。――僕も中尉も、常にあなたに疑念の目を向けていましたよ。ミス・リントンに」


 目を丸くする。特に何か悪事を働いたつもりはないのに。それにどちらかというと、こっちのほうが彼らの態度をうさん臭く見ていた。すると従者は猫のような目をくるりと上に向け、軽く肩をすくめた。


「だってそうでしょ。百歩譲って、その指輪の呪いがあなたの責任じゃないとしても。やっぱり王太子殿下が言いなりになっている以上、何かの謀略でも働いているんじゃないかと誰でも思いますよ」

「謀略? わたしが? でもリップ」

「ミス・リントンにとってもこれが、不本意で予想外だったとしても。……それでも、利用することならいくらでもできたはずです。プリンス・ミストレスの立場をね。なんてったって王子ですよ?」


 ポットをテーブルに置いたリップは腕を組み、ひとりでうんうんとうなずく。


「でもミス・リントンはしなかった。下僕になった王太子を利用するどころか、必死になって隠そうとして下さる。なかなかできることじゃないですよ」

「なかなかならないわ。王太子殿下が下僕になんて」

「ま、そうですね。でも心配だったんです、レオポルド様がもてあそばれないかって。いやそれよりも、妃の地位をねだられるんじゃないかって、僕も中尉も危惧していたわけです。あっさり承諾しそうでしたしね、あの様子じゃ」

 

 よく言う。もてあそばれる危険があるのはこちらのほうだ。それに王妃の地位なんて、こっちから願い下げなのに。


「なんと言えばいいのかなあ……レオポルド様は『興味』というものを持ち合わせていない人でした。何かに熱狂する姿は見たことがありません。上流の生活は遊びだらけでしょう? 狩猟、賭博、それに女あそ、あ、いや。殿下もひと通りなさいますがね、のめり込むことがないんですよ。かといって、王族の責務に熱心なわけでもない。学業もてきとうだったのは知ってるでしょ? 乗馬やゴルフなんかもお上手ですが、通りいっぺんなんですよね」


 それは今までにも聞いた。本人も認めている。わたしは黙って先をうながした。


「だから僕も中尉も驚いたわけですよ。そりゃ、殿下が今まで通りのほほんとしていてくれたら僕らも助かります。昼寝もできるし、夜ぬけ出して舞踏会へ女の子ひっかけにも行けます。でも」


 その「でも」には、色々な心情がこもっていたのだろう。そこを詳しく語る代わりに、はあ、と深く息をつき、リップは天井を仰いだ。


「たぶん、あなたなら変えてくれるのでしょう」

「……無理よ。何を考えているか知らないけれど、買い被ってますわ」

「そんなことはありません。いいですか、アストレアへ着くまでによく考えて下さい。山へ行ったらもう引き返せませんよ。それと」


 にまっと笑うと、リップの顔から真剣みが消えた。なぜだかわたしは寒気がした。


「その前に、僕がアシストしてあげましょう。ま、見ててください」


 放っておいたらきっととんでもないことになる――と直感した。



 帰りの船は、幸い天気に恵まれた。穏やかな航海で、部屋で過ごすのもそれほどは苦にならない。

 最後の夜にそれはやってきた。明日にはもう、懐かしの祖国に到着するという日。まだ陽が高い時刻に始まった。


「――招待状?」

「はい。場所はグランドダイニングではありませんのでご安心を。ごく内輪の、小さなパーティーですよ」


 一通の白い封筒を持って現れたのはリップだ。


「小さなパーティー? 内輪って、どんな人たちを指すのかしら。あなた方のこと?」


 旅の途中、ひとり減り二人減りと、どうしてか人が少なくなっていった王太子一行。内輪というと、武官も使用人もすべて含める意味なのだろうか。


「いやいや、僕らは遠慮しますって。とにかく、今夜は晩餐会ですのでそのおつもりで。言っておきますが、レオポルド様の発案ですよ。ホワイトタイでお迎えするそうなので、ミス・リントンもお願いします」

 それだけ言うと、可愛い従者はくるりと背を向け、去っていった。


「正装して来いってこと? なんなの」


 その“内輪”とやらにはいったい誰と誰が入るのかを考え、首をかしげた。



 できることなら違う装束で出向きたかったけれど、夜会用のドレスは一着だ。グラン・リオンでも補充していない。

 往路でも手伝ってもらったモリーに救援を乞い、あの青磁色のドレスを身にまとう。


「ネックレスはどうしますか? この前のは」

「……ああ。いえ、無しで行きますわ」

「無しで? でも首元が」

「そうね。――そうだ、これを。首に巻いて、ぴったり沿うよう後ろで縫い合わせてもらっていいかしら。糸と針はあるわ」


 首元にはミセス・トラックリーからもらった、グラン・リオンのレースをネックレス代わりに巻いた。手作りの一点物の華やかなレースは、それだけで主役になってくれる。


 改めてモリーにお礼を言い、ちょうど迎えに来た従者と共に船の廊下へ足を踏み出す。

 先導するリップが、ちらりとこちらを振り返った。意味ありげに。


「あのペンダントはどうなさったんですか?」

「ペンダント? 何のことかしら」

「……最初から最後までしらを切るおつもりですか。やれやれ、いつまで続けるんです?」

「リップ、いい考えがありますわ。わたくしのことを黙っていてくれたら、うちの兄の結婚式の時の、ちょっとした面白話をしてあげてもいいわ」

「! いいですね、身内しか知らないネタってやつですか。乗りましょう」

「では約束よ、余計なことは言わないこと。――もうすでにしゃべったというのもなし。言ってませんわよね?」

「まだしゃべってません、一言もね。これからも口にしないと誓います。ええ、お任せを」


 心の中で拳を握る。とんでもないことを言いそうな従者とは、互いに納得のいく取引が成立した。どうなることかと思っていたけれど、これでわたしも心穏やかに晩餐会を過ごせそうだ。




 案内された先は、暮れかけた空の下だった。ゆるやかな風に包まれる。


 一等デッキの、その先端。船全体の先端ではないけれど、視界を邪魔する物がなく、周囲を海に囲まれたように錯覚した。行く手の空にはすでに星がいくつかまたたき、青紫の天を飾る。反対側を向けば、夕焼け空をバックにした巨大な煙突が煙を吐く。


「ミス・リントン」


 呼ばれて振り返ると、そこには王子様がいた。予告通りの正装(フルドレス)。イヴニングコート姿のレオポルド様は、島で会った時と変わらず、とても美しいひとだった。


 口元には笑みが浮かび、灰色の瞳は明るく輝く。向き合う相手の優れすぎた容姿に少し気圧されたわたしも、その表情に勇気づけられた。こちらも微笑み返す。


「お招きありがとうございます、王太子殿下」


 そしてはたと気がつく。デッキは無人だ、目の前の彼とわたしと、案内役の従者以外。


「他の方々は」

「ではレオポルド様。始めてよろしいでしょうか」

「うん。頼む」


 打ち合わせができているのか、一礼したリップまで船の中へと姿を消してしまう。わたしと、王太子殿下を残して。


「……」

「ミス・リントン。席はこっちだ」


 なんだか得意そうなレオポルド様が指したのは、デッキに一台だけ置かれたテーブル。そこに二脚しかない椅子の一方へと歩み寄り、それを後ろに引いて待ってくれている。


 何を待つって? 察するにわたしらしい。そしてミス・リントンはさらに察した。


「殿下とわたくしだけですか?」

「そうだが。聞かなかったか」

「……ええ、まあ」


 素早く考え、逃げようなどないと観念した。王子様にいつまでも椅子を引かせておくわけにもいかないので、ありがたく座らせていただく。


「ありがとうございます」

「いや。当然だ」


 きっぱりおっしゃるが、あまり当然ではない。普通は王太子より先に座れない。


 そして、レオポルド様はご自分も席につく。なんだかまともに向き合うのはきまり悪く、わたしは目をそらした。テーブル上に視線をやると、皿とグラス類の用意は整っていた。磨かれた銀器に、上品な花模様の薄い磁器の皿、扇形に織られた白いナプキン。


 日の暮れた戸外に明かりを補うため、ガラスの覆いのついたランプがテーブルに置かれている。よく見ると、デッキ上のところどころにもそうした灯りが置かれ、その光が幻想的な雰囲気を醸し出していた。


「殿下の発案だとうかがいましたけれど。この場所も?」

「ああ、うん。あなたのためだから」


 この高貴な下僕さまに、無神経きわまりない人にこんな演出ができたのかと、驚きの目で見回した。

 そしてなんだか申し訳ないような気がした。完璧な王子様と、完璧なディナー。相手がわたしではもったいない。こちらも正装とはいえ、どこでも眼鏡を外せない地味女をもてなすにはどう考えても過剰だ。


(しょうがないか。今はまだ、“ご主人様”なんだから)


「ここまでしていただいては、本当に明日にも寿命が尽きてしまいそうですわ。それともここで、人生の幸せすべてを使い果たしてしまうのかしら」


 本当にそうだったらどうしようと半ば本気で心配した。すると冗談めかして笑ったわたしに対し、テーブルの向こう側の人は案外真剣に答えた。


「そんなことは決してない」

「……」


 あまりに真面目に言うものだから、気恥ずかしさを忘れて見入ってしまった。


「あなたの」

「どうもー。食前酒をお持ちしましたよっと」


 いいタイミング、と言ったほうがいいのだろうか。灰色の瞳に吸い寄せられそうになったところで、給仕役を務める従者が食前酒のボトルを持って現れた。リップは魔法のような手つきで素早く栓を抜くと、注ぎ口を王太子のグラスに向ける。


 途切れてしまう会話。コポポ、とグラスに透明な液体が注がれていくのを見守る。泡の浮かんだ黄金色の液体だ。同じようにこちらのグラスも満たされるまで、二人とも黙って待った。


「では――」


 仕切り直すようにグラスを掲げ、口元へ持っていく。


「!」


 しかし、飲む前にわかった。香りの記憶は残りやすい。味わう前に嗅覚を刺激され、わたしは息を止めるほど驚く。


「これは」


 リップはすでに退場していた。だがあの従者は、お酒のボトルだけは置いていった。しかも絶対にわざとだと思うのだが、ラベルがよく見えるよう覆いまで外してある。


 黄色いラベルに描かれたのは、一本の林檎の木(アップルツリー)

 どうしてこれが、と思わず口にする前に、レオポルド様が言う。


林檎酒(シードル)か。シャンパンかと思った」


 驚いたように言うので、彼も知らなかったのだろう。リップの悪戯、“アシスト”を。

 容姿だけは可愛らしい従者は、確かに『一言も口にしていない』。言動ではなく、行動で示していったのだから。


「どうしてこれなのだろう? リップに任せると、よくわからないことになる」

「わ、わたくしは好きですの。その、林檎酒が」

「そうなのか? ……知らなかった」


 ご主人様の好みを知らずにいたことが悲しいのだろうか。レオポルド様の表情が暗い。少し申し訳なく思った。好きは好きだが、味の問題ではないから。


 ボトルのラベルにちらりと目をやる。実をつけた林檎の木。同じデザインだと気づきませんように、今もわたしの鞄の底に押し込んでいる、あのロケットペンダントの表蓋に刻まれたマークと。


 視線を正面に戻すと、レオポルド様まで同じ物を見ていた。何か考え込んでいるようにあごに手をやった彼は、やがてこちらを見て言った。ゆったり微笑みながら。


「聞かせてもらえないか」

「へ!? 何を」

「あなたの夢を。あの島の教師は、どんな仕事をするんだろう?」

「ああ……ええ。喜んで」


 よかった。そういうことなら喜んで語れる。


 どんな仕事をしているか、男性が正面から尋ねてくれるのは初めてだ。今まで誰もそんなことを問題にしなかった――まるで語るに値しないことであるように。悲しいことだが、それがアストレアでの職業婦人の立場である。 


 奇妙な晩餐会だ。一言もしゃべらないリップの給仕により食事が進められる中、わたしが主な語り手としてしゃべっている。聞き手は王太子様。いまだ下僕のつもりなのかどうか、興味があるかのように質問までする。しかしこの人、何事にもないんじゃなかったろうか、興味は。


「――だからそれ以来、エミリーは絵を描くことに夢中なんです。将来は画家になるって言ってますわ。島で初の女流画家に」

「女流画家か。そういえば、ラトランド卿の夫人が有名だったな。見せられたことがある」

「ええ。エミリーがどれくらい上手くなるかわかりませんが、あの子の絵の中には何かしら惹きつけるものがあると思うんです。ですから、わたくしの役目はその才能を伸ばすこと」

「そうか。では、あなたの責任も重大だ」

「重大ですわ。でも才能が本物なら、わたくしよりももっと優れた教師につくべきですけれどね。絵の専門の」

「もしかして、すでに何か計画を?」

「ええ、実は。エミリーについても考えていることがありますし、もちろん他の子についても――」

 

 訊かれるから、だ。訊かれるからついつい語ってしまう。学校に一人しかいない教師になってから今までの悪戦苦闘、これからの抱負。任された生徒たちのために何ができるか、熱く語ってしまう。

 

 だけど段々とわかってしまった。こちらが語れば語るほど、相手の表情が曇っていく。質問を返す口調が重くなる。どうしてか、目をそらされることが多くなる。


「殿下? どうかなさったのでしょうか」

「え? いや、別に。何かおかしかっただろうか」

「おかしいわけでは――」


 完全に日が落ち、ランプの灯りと星、それと船室の窓からこぼれる室内灯の光。それだけが頼りの世界だ。


 しかしどれだけ暗かろうとも、テーブルの向かい側にいる人の食が進まなければさすがにわかる。口数も少なくなってきた。


「ごめんなさい」

「……何が」

「さっきからわたくしの話ばかり。飽きましたでしょう」

「飽きてなど。あなたの話は興味深い」


 本気でそう言っているとは思えなかった。何しろ実の姉から『冷血人間』と呼ばれる人だ。


「冷えてきましたね」

「……」

「寒くなってきました。デザートはやめにして、中に入ったほうがいいのかも」


 「もうお開きにしましょう」と、遠回しに伝える。強く言えば聞き入れてくれるのだろうが、もうそろそろ、本来の立ち位置をはっきりさせたほうがいい。自分のためにも。


「待ってくれ。まだだめだ」

「でも」

「悪かった。寒いなら、そうだ、上着を――」


 と、そこで何故か動きが止まる。もったいなくも上着を貸してくれようとするのか、それを脱ぎかけたレオポルド様。しかし襟を持った格好で停止する。


 ゆっくり顔を上げた。観念したように。


「結婚してくれ」

「……」

「指輪を。これを受け取ってほしい」


 上着の内ポケットから取り出したのは、箱にも入っていない裸の指輪。真っ白な頭で見つめたそれには、煌く宝石がはめ込まれていた。


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