【星夜】とんぼ帰り
【星夜】とんぼ帰り
乳飲み子を抱えたミルドレット王妃の精神の健康を守るため、海を越えて祝いに訪れた弟のレオポルド王太子は、訪問後ただちに帰国することが、急きょ決定してしまった。
予定ではひと月ほど滞在してグラン・リオン中を旅することになっていたので、現地の乙女たちは相当がっかりしただろう。美青年の王族を見物できるチャンスを失って。
ではわたしは? 王太子の非公式のお供として、旅に付き添う予定だったミス・リントンは。
「やっと帰れるのね。ああ、嬉しい」
ホテルの部屋で開けたばかりの荷物をまた詰め直し、そうつぶやく。しかしつぶやいた声にあまり熱意がなかったことは、自分でも気づいた。
早く帰国したかったのは本当だ。ブロッケン山の魔女が本当にわたしを救ってくれるのか、指輪を外してくれるのか、確証はない。それでもプリンス・ミストレスとして、高貴すぎる下僕さまの言動に胃を痛ませ続ける旅行よりは遥かにいい。
「ミス・リントン。お土産にこれを差し上げるわ」
「わあ……! ミセス・トラックリー、ありがとうございます」
思っていたより早く帰国できるのに、どうしてか意気消沈していたわたし。よく気のつくミセス・トラックリーから渡された薄紙の包みを開き、歓声を上げた。
極細の麻糸で作られた、白いレースのリボン。グラン・リオン中部にある町で作られている特産品で、緻密な技術によって星や草花がデザインされたニードルレースだ。昔から宮廷人御用達の高級品であり、このとんぼ帰りがなかったら工房を見物することになっていた。
「本当に綺麗……どうやってこれを?」
「たまたま通りかかったショーウィンドウに飾ってあったのよ。気に入ったならよかったわ、あまり観光もできなかったでしょう」
「ええ、嬉しいです。だって、こんなに早く帰るとも思ってませんでしたから」
船酔いに苦しみながらも、数冊の本を読みとおしてグラン・リオンに関する知識をつけてきた。そうだ、あの努力が無駄になったとのかと思い、わたしは無念だったのだ。
「そうねえ。でも殿下の体調がお悪いなんて、気が付かなったわ。すぐに帰らなければいけないほどだなんて。心配よね」
「そ、そうですよね。……でも、代理でこっちに残られる侯爵様も大変ですわよね。その、いろいろ」
「ええ。でも大きな国際会議があるわけではないから、そこまでではないと思うわ。見物に来た人を落胆させるのは確かだろうけど」
今回の訪問は大きく喧伝されていたので、王太子の“体調不良”でその滞在予定がいきなり変わり、各方面に影響が出ている。
到着したその日のうちにまた出立というわけにもいかなかったが、三日後の船に乗ってとんぼ帰りすると決定した。だが旅で回るはずだった各地ではそれに合わせて様々な行事が予定されており、それらのほぼ全てに、代理としてエリスター侯爵が出席することになった。
どうしても外せなかった公式の式典、王宮で開かれた歓迎の宮中晩餐会は昨夜すでに終わった。そして今日は、再び海へと出る日である。エリスター侯爵夫妻と、彼らの連れの使用人を残して。
「では、ミス・リントン。またお会いしましょうね」
「ええ、ぜひ。ミセス・トラックリーが帰国されるときには、また南セントジョセフ島にいるでしょう。お寄りの際には教えてください」
にっこり笑い合って握手をしたわたしが、執念のように固く誓ったことなど知らないだろう。帰国したらあの高貴な下僕とは意地でも縁を切ってやり、元の生活に戻ろうと改めて誓った。
*
三日前に降り立った港にふたたび立つ。思いのほか早かった帰国の日、ホテルから港へ直行すると、すでに王太子一行の本隊がそこで待っていた。
「ミス・リントン」
前の日の夕方ぶりに会えたご主人様が嬉しいのか、高貴な下僕はさっそくわたしを出迎える。レオポルド様の背後では荷物の搬入が行われ、リップが偉そうにポーターに指示を出していた。
「ご機嫌うるわしゅう、王太子殿下。お待たせしましたか?」
「いや。そうだ、荷物をこっちに。私が持とう」
「いやいやいや、僕がもらいますよっと。殿下はどうぞ、ミス・リントンを船内にお連れしてくださいませー」
脇から入ってきたリップが高速でわたしの鞄を取り上げ、また高速で去っていく。やれやれまたこれか、と内心で頭を振る。
(でももう少しの間だし)
この居心地の悪い立場は、もうすぐ終わるはずなのだ。保証がなくても終わらせる。
「では」
「はい、ありがとう存じます」
優しく微笑む王子様がわたしに手を差し出す。その姿は完璧で、中身の実態がある程度わかってきたとはいえ、夢の光景には違いなかった。手に手を重ね、タラップへと歩き出した時だ。
「待って。お待ちくださいまし!」
「え?」
聞き覚えのある声に振り替えると、止まった車から、今にも降りようとする女性が一人。大きな声で呼びかけているのは、さっきお別れを言い合ったばかりのミセス・トラックリーだ。どうしたんだろう、彼女は自分の雇い主のところへ行ったはずなのに。
王太子に声をかけ、ミセス・トラックリーのところへと戻る。こちらに駆け寄ろうとしていた彼女は、途中で立ち止まった。息が切れたように。
「ミセス・トラックリー? どうなさったの」
「忘れ、物を」
「忘れ物?」
その一言で理解する。どうやらわたしが悪い。ホテルの部屋に忘れ物をして、それをわざわざ届けに来てくれたのだ。
「すみません、何か忘れていましたか?」
「ええ。――すぐに気がついたのだけど、あなたの物ではないと思ったの。でも奥様が、知っていて」
なんだろうと、ミセス・トラックリーがポーチからとり出した物を見る。
そして血の気が引いた。
「晩餐会でこれを似た物を着けていたってお聞きしたわ。あなたの物でいいのよね?」
「……」
「ぎりぎりになって悪かったけれど、違うイニシャルが彫られていたものだから。てっきり別の人の物かと」
鞄の底に詰めたはずの銀のロケットが、なぜかミセス・トラックリーの手の上にある。貴婦人の秘書はロケットをくるりとひっくり返した。裏側に刻まれた文字は四つ。
「ほら、ねえ? 『CGRA』って。ミス・リントンは『GL』でしょう。それに中の写真の方はたしか」
「……アンティークなんです! アンティーク市で買った物だから、わたくしのイニシャルではないわけでして。あ、ありがとうございました! 助かります、ではご機嫌よう」
死ぬかと思った。特に、ご主人様にお供して一緒にミセス・トラックリーのところへ来ていた彼が、それを間近でしげしげと眺めた時は。
「ありがとう、ではさようなら!」
ひったくるようにロケットを返してもらい、その無作法さに唖然としたミセス・トラックリーを残し、逃げるように船に乗り込んだ。もちろん高貴な下僕を引き連れて。なんという間の悪さだろうと、己の運命を呪った。いや、この場合は。
(鞄を詰めている時に落ちたのね。ああ、最後の最後で爪が甘い)
それとも、中の写真の人たちの呪いだろうか。そっちのほうがあるかもしれない。
*
帰りに乗った船はたまたま行きと同じ客船だった。アストレアと東大陸の間を往復で航行する船の、復路に間に合ったのだ。切符の値段によって等級がはっきり分かれた豪華な客船だが、客の顔ぶれはとうぜん、往路とは違っている。同じようにとんぼ帰りをした人がいない限りは。
出航し、夜。夕食も終わり、学校の教材に使えるだろうかと、自室で図書室の本の内容を書き写していた時だ。
ドアが叩かれる。予感がしたので、一瞬、無視しようと思った。だが諦めて開ける。
「……殿下」
「入ってはいけないだろうか」
いけないですよと答えたいのをぐっとこらえ、黙って一歩さがった。廊下を歩く誰かに見られる前に、王太子様には中に入ってもらおう。
もともと乗る予定にはなかった船だ。帰りの便の切符は取れたものの、最上等客室はふさがっていた。それでも「王太子様になら喜んで」という太っ腹な金持ちがいたお陰で、片方だけは空けてもらえた。一部屋分だけ。
「やはり代わったほうがいいのではないかと。それがだめなら、せめて一緒に」
「おそれいりますが、殿下と同じ部屋に大っぴらには泊まれませんわよ。おわかりでしょう」
そして彼のご主人様にあてがわれた部屋は、一等船室とはいえ、ベッド一台と机とクローゼットでいっぱいになる大きさだ。もちろん続き部屋ではなく、あまり広いとは言えない。内装もごく普通。下僕の部屋とは場所も離れている。
「それにわたくしにはここで充分ですわ。相応の部屋ではないかと」
「そうだろうか……」
居心地悪そうに見まわすレオポルド様。今はこの人のほうが場違いなのだと悟った。
「どうぞ、椅子に。お湯をもらってきましょう、お茶を淹れます」
「いや、お茶はいらない、あなたが飲むのでなければ。――何かしていたんだろう、続けてくれ」
彼は勧めた椅子には座らず、机の上に広げた本とノートを見た。尋ねられる前に答えた。
「詩を書き写しているんです。学校の教材に使えるかと」
「学校? ああ、あなたの島の」
「ええ。わたくしの島ではありませんが、あの島の学校の子どもたちのために」
どうしてか、会話がそこで止まる。気まずい。お互い椅子にも座らず立ったまま、二人そろって机の上にあるノート類を眺めている。
(何しに来たのかしら)
隣同士の部屋ではないから、こっそり行き来ができない。だからもう一緒に眠るのはやめましょうと伝えてある。それなのに来たレオポルド様に、わたしは内心困惑している。
口を開いたのは相手が先だった。
「――やりたいことがあるものなのだろうか。誰でも」
「え?」
「前に訊いただろう。子どもの頃の夢は何かと」
そう、その通りだ。あの時の気分を思い出し、少し苦い。
「姉は正しいのだと思う。私は何も感じない冷血人間で、何事にも興味がない。そしてそれを誰かに非難されない限りは、別に悪いことだとも思っていない。――おかげで心から付き合える友人はいないし、きょうだいとはあの通りの関係だが。それでも困ってない」
どうしたのだろう。特に感情を込めるでもなく淡々と語る王子様。表情の抜け落ちた顔、光のない空っぽの瞳。彼が何を言いたいのか、わからない。
『神の域の美青年、でも中身はからっぽ』。そんな言葉が胸に浮かび、そして消えた。
「だから別にいいんだ。いいと思っていた、空っぽでも。どうしたいとか、やりたいこともないのだから。私の立場ではどのみち何もかも決まっている、生まれた時から死ぬまでずっと」
しかし、とここでやっと目を向けた。吸い寄せられるようにして彼が視線を向けたのは、わたし、ではなくその一部。左手だった。
「その指輪が。いや違う、あなたが。あそこでミス・リントンを見た時だ。やっとこう思えたんだ、『空っぽのままではいけない』と。知らなければそれで済んだかもしれないが、知ったからにはもう無視できない。もう失ったままでは生きていけない。だから」
レオポルド様は独白を止める。再び目をそらし、手を、ジャケットの自分の内側に入れた。
しかし彼の動きは再び止まった。ジャケットの内側にあるポケットへと、手を突っ込んだまま。口が開いてまた閉じた。つまり彼は、何かをためらっている。迷っている。
この人も苦悩することがあるのだ、とわたしは驚きの目で見ていた。今までになく苦い表情のレオポルド様は、やがて、その手を引き抜いた。何も持っていない手を、だらりと体の横に下げる。
「……すまない。私の話ばかりだ」
「いいえ。その、お話しになりたいならうかがいますよ」
「いいんだ。悪かった」
と言い、背を向けた王太子。部屋を出ていこうとする。
反射のようなものだった。尋ねてしまったのは。
「殿下。もうお寝りに?」
「いや、喫煙室に行く前に抜け出したんだ。晩餐の同じテーブルに、百四十種類の煙草を灰から識別できると豪語する男がいてね、恐らくまたその話になるだろう。どこでどんな人間にどんな話を聞かされるのか、わかったものではないな」
どことなくうんざりしたような響きを込めて言うから。だったらもっとうんざりさせてあげようかと、意地悪く思ってしまった。
「手伝っていただけませんか?」
「……」
「殿下が詩集を読み上げてくださるなら、とても助かります。書き写すので、ゆっくりお願いしますね」
彼がご主人様の命に逆らえるはずもなく、その後しばらく、わたしの部屋では美声による詩の朗読が行われた。ずっと。
真夜中。カーテンを開けると丸い小さな窓から星の光が注いできた。目を横のベッドに転じると、そこにはまた眠れる王子様。一度グラン・リオンに上陸した日から、こんなことはもうやめたはずなのに。結局こうなる。
格段に狭くなった寝床のせいか、それともシングルベッドにむりやり二人で横になったせいか。清く正しく添い寝していたのだけれど、真夜中にひとり、目を覚ましてしまった。
「……」
ひたいを指先で押さえる。頭が痛い。覚えていないけれど、今、そうとう夢見が悪かった。例の不幸な王妃人生のうちのひとつを、夢にみていた気がする。
切れ端のように残る記憶は炎。牢の格子越しに眺めた空。そしてなぜか、糸車。
指輪を見た。相変わらず一筋の光もはね返さない純黒の石がそこにある。金の輪と黒い石がひとつきり。ふと思った。石の研磨は荒く、金の細工もあまり丁寧じゃない。稚拙な作りのこの指輪は、かなり古い時代の物ではないだろうか。
考え込んでいたら、ベッドの上の人が身じろぎをした。でも起こしてしまったわけではない。眠りが深いらしく、レオポルド様はたとえ起こそうとしても梃でも起きない人だ。
「……空っぽ、か」
魔がさした。ベッドの端に腰かけて、そっと髪に手を伸ばす。絶対に触らないで下さいと厳命したのに、自分は破る。起きないとわかっている相手に触れた。眠るレオポルド様が無心すぎて、なんだかいけないことをしている気分になる。びっ、と髪を一束かるく引っ張ってみた。でもやっぱり起きない。
これが少し面白い。美しく、また高貴な人を独り占めする優越感。おだやかな夜、わたしだけの秘密のいたずら。ふっと口元が緩んだ。
「今だけよ。海の上にいる間だけ、優しくしてあげる」
今だけだ。この航海が終わるまでなら。過去のことを忘れて、少しの間だけ、まっさらな気持ちで見ていてもいいんじゃないかと思った。この変な人を。
それにしても。
「夜会服のまま寝ていていいのかしら……」
ズボンとシャツを着たまま寝ている王子様。翌朝彼が自分の寝床にいないことがわかればまた一騒動なのだが、残念ながらこの時は、わたしまで忘れていた。