【朗読】夢のあとさき
【朗読】夢のあとさき
二日連続でまともな寝床で寝られなかったわたしは、とても疲れていた。しかしそんなわたしの眠りは、またも騒ぐ声で破られた。
「……?」
何を言っているかわからないけれど、外が騒がしい。勢いよく廊下を駆け抜ける者がいる、しかも大人数。何なの、と思って目を開けた。
「!」
始めの驚きは声にならなかった。まず目に入ったのが、誰かの背中だったので。
「殿下!?」
昨夜眠ったソファで、横向きに寝ていたわたし。眼前には、わざわざ寝床を分けたはずが、追いかけて来たらしい王太子殿下の背中。彼はソファの横、床に座ってこちらに背中を向けていた。いったい何がどうしたというのだろう。
「――ああ。ミス・リントン。起きたのか」
「何してるんですか」
「……なんだろうな。そうだ、昨夜はすまなかった」
振り返った王太子様、彼もまたいま目を覚ましたばかりのようだ。片手で髪をかき上げる。寝ぼけたような目つきでは、さすがに神の域の美青年とは言い難い。代わりに――。
(はっ)
これはこれで可愛いかもなんて、ギャップにときめいている場合じゃなかった。
「そうじゃなくて。ご、ご自分の部屋に戻って」
一気に覚醒した。昨夜の出来事のあれこれがよみがえる。部屋の外の騒ぎ、その原因はひとつとしか思えない。寝室にいない王太子を捜し、大騒ぎになっているんじゃないのか。
「本当に悪かった。あなたのベッドを奪ってしまうとは、下僕失格だと」
「そんなのいいです! おねが、いえ、命令です。自分の部屋に戻って下さい今すぐ!」
思わずきつく命令してしまう。ご主人様に対して面目なさそうに謝る王太子、そんな彼の態度がわたしにそうさせるのだ。言い訳かもしれないけれど。
「こっそりですからね、こっそり! お願いだから誰にも見つからないで。でもなるべく早く」
「あ、ああ、わかった。ではミス・リントン、また後で」
「気をつけて――ってそっちじゃないでしょ!?」
唖然とした。神妙にうなずいた彼が立ち上がり、出て行くのかと思ったら、寝室に通じるドアを開けたので。そこは違う。戻ってどうする。
あわててわたしも起き上がるけれど、焦り過ぎてじゅうたんに足が引っ掛かった。幸いこけたりしなかったけれど。
「そこは違うでしょう!」
どこまで寝ぼけているのかしらと嘆きながら、追いかけて寝室に入る。しかし。
「え……」
どんな魔法か、姿がない。たったいま入っていったはずの王太子殿下は、寝室にはいなかった。ベッドのカーテンは開いているので、そこに隠れたわけでもない。
「殿下?」
バスルームかと思ったが、そこにもいない。まさかと思いながら開けたクローゼットにも。他に隠れる場所はない。一瞬で消え失せてしまった。
「えー……。どうしよう?」
誰にも見られないでとは言ったけれど。透明人間になってくれとは頼んでいない。なんなんだろう、あの人は。マジシャンか。
*
なんて贅沢な時間なのかしら、と思いながら聞き惚れている。
「『その薄紅色のつぼみが開くのは春も遅い頃だ。さぞかし鮮やかな花弁が姿を見せるのかと思えば、そこにあるのは白である。わずかな赤を残した白い花が、緑の葉に守られるようにして咲き誇るのだ』」
ゆるやかに抑揚をつけながら、一単語一単語、正確な発音で丁寧に読み上げる声。早くもなければ遅くもなく、ちょうどいいスピード。これだけうまければ朗読を仕事にできそうだ。
「『島を訪れるのに最もいい季節はいつか。よく尋ねられるのだが、特にこれと言って挙げられない。見どころがないという意味ではなく、島を楽しめない時期などないからだ』」
何度も読んだ本なのに、不思議と聞き入ってしまう。
「『島中が雪に閉ざされる長い冬。すべてが凍結した朝、』――」
「邪魔してすみませんが殿下。お客様ですよっと」
はっと引き戻された。南セントジョセフ島の旅行記から、現実へと。
朗読して下さっていたのは、おそれ多くもアストレア国王太子レオポルド様だ。もちろん透明人間ではなく、その美貌も健在。
朝の騒ぎはすでに納まり、朝食後のひとときを過ごしているところ。
海洋を渡る船の上で、乗客の生活は基本的に退屈だ。その退屈さを紛らわす方法は人それぞれだが、目下、王太子様は暇ではなかった。
何故なら彼には、仕えるべき主人がいる。恐ろしいことに、それはわたしなのだが。朗読でもしましょうかと言ったのはこちらだが、あれよあれよという間に本を奪われ今にいたる。
取り次ぎに来たリップへと、王太子が尋ねた。
「客? 私にか」
「はい。客と言いますか、エリスター侯爵ですがね」
「わかった。――侯爵と会っても構わないだろうか、ミス・リントン?」
わざわざわたしの許可を求めてくれなくてもいいんですよ王子様。とは言わない。
「どうぞ、殿下のお好きに。わたくしは席を外しますわね」
「いや、あなたが侯爵と同席したくないなら私がここを去るのだが」
「……いいえ、こちらでどうぞ」
ガラスを通したにぶい日光に包まれる室内。王太子がわたしに朗読してくれていたのは、居心地のよい温室である。たくさんの観葉植物が置かれていて、目にも楽しい一室。大きな籐の椅子にゆったり納まり、目にも耳にも贅沢をしていたというわけ。
朝の消失事件だが、すでに種明かしされた。あの後、自分の部屋のダイニングではなく、この温室での朝食に招かれた。招いた王太子が、そこでこともなげに語ったのだ。対になった最上等客室の寝室は隣合わせになっていて、秘密の通路で繋がっている。そこを通って出入りしたそうだ、昨夜も今朝も。お陰で誰にも見られていない。
部屋の角にある暖炉が出入り口らしい。なんの罠ですか、それ?
理不尽な部屋の造りについて、改めて心の中で呪う。すると温室に、許可されたエリスター侯爵が入って来た。実はというかこの侯爵、王太子の同行者だ。とんでもない従者のリップとは違い、至極まともな補佐官として同行している。
「おはようございます、王太子殿下」
「おはよう、エリスター侯爵」
「コホン。早速ですが、本日のご予定の確認を。船上とはいえ、いえ、船の上だからこそこのチャンスで殿下に目通りを願う者は多いですからな。しかも予定外なお客様が増えて」
「エリスター。ミス・リントンにも挨拶を」
まともな人だから気の毒だと思った。場違いな闖入者にまで挨拶するよう強いられる侯爵が。せっかくいない者として扱っていたのに。
「……おはようございます、ミス・リントン」
「おはようございます、エリスター卿。殿下、わたくしは向こうの赤い花を見てまいりますわ。どうぞゆっくりお話になって」
それとなく場を離れてあげた。苦虫を噛んだような侯爵のため。
そして。
「ミス・リントン。お話ししてもよろしくて?」
侯爵はひとりで来たのではなかった。奥方同伴で訪れたのだ。そのエリスター侯爵夫人が、部屋の隅で水連の鉢を見ているわたしのところにやって来る。
ちなみに昨夜の一番のピンチは、左の薬指の指輪について侯爵夫人に尋ねられた時だ。「遊びで嵌めたら抜けなくなった」と、真実から遠くはないけれど、間抜けな言い訳をせざるを得なかった。お陰で失笑を買った。目ざとい人だ。
さて、今朝はどんな風にわたしを料理するのだろう。にっこり笑って身構える。
「まあ、レディ・エリスター。昨夜はありがとうございました。楽しかったです」
「こちらこそ。――婉曲に訊いてもいたずらに時間がかかるだけで、お互いに損だとわたくしは思うの。だからはっきり尋ねるけれど、昨夜、殿下はあなたの部屋に?」
「……」
貴族らしく、遠回しに婉曲に、もったいつけて尋ねてくれたらいいのに。早すぎて、言い抜けるためのどんな言葉も思いつかない。
侯爵夫人はうっすら笑った。何もかも心得たようにうなずいた。
「そう。よくわかったわ」
「誤解です、そういうことでは」
「隠さなくても結構。こう言ってはなんだけど、よくあることなのよ。殿下に限った話ではなく」
憐れみのこもった視線だったのは、まだましなほうかもしれない。露骨な侮蔑の目でなかったのは。
「あなたは身の程をわきまえているようだから、無分別な期待を持つなという注意は必要ないわよね? 自分でも言っていたでしょう、これは一瞬の夢だと。その通りよ。
それと、これからはなるべく人前に出ないほうがいいんじゃないかしら。船には記者もいるけれど、殿下の新しい愛人の名前が新聞に載れば、二度と取材を許さないと夫が伝えているわ。あなたも気をつけて」
「あいじん。新しい」
「知らないの? まあ、本当に田舎だったのね、あの島は」
ショックなのは愛人がいたことではない。自分がそう見なされたことだ。
「ではこれも知らないわね。殿下はひとりの人とは長続きしません。――あなたのような身分の人が何を望むかわからないけれど、放り出したりはしないから。だから捨てられても、あまり思い詰めないでちょうだいね、ミス・リントン」
下僕がどんな恋愛スタイルを持っていようと、主であるわたくしの知ったことではありませんのよ。
そう言ってやれたらすっきりしただろうけれど、思いついたのは侯爵夫人が去った後だ。
「なるほどね……」
ひときわ大きな鉢植えに、やけに背の高い緑の植物が植わっている。葉も幹も瑞々しい緑で、たしか東洋の植物だ。水連といい、この竹といい、ここの温室の世話係は東洋趣味らしい。
細めた目で竹を眺めながら考えた。
(あながち間違いでもないもわね。愛人なんだから)
避けようがないのだろう。同好の士とか、友人とか。そんなものはただの見せかけで、実は愛人候補だと。王太子である彼がわたしを連れ歩く理由など他にないと、誰もが考えているようだ。
あの時、いっそこう命令すればよかったのか。近づかないで。一生顔を見せないで、と。
そうすればわたしの将来は安泰だっただろう。何人いるんだか知らない彼の愛人の、そのうちのひとりとして世間に噂されたりしなかった。
「……」
左手の指輪を見た。黒い石。この石に誓ったのが何なのか、答えはまだ思い出せない。思い出せないまま、指から抜こうとした。力まかせに。
「ミス・リントン?」
「殿下」
エリスター侯爵との話が終わったのか、王太子がこちらに歩み寄って来る。とっさに、わたしは左手を彼から見えない背中に隠した。何気ないふうに、視線も別のところへ向ける。
わたしの見たものを、王太子も見た。
「それは……竹だったか? 立派なものだな、こんな狭いところに。よくここまで」
「殿下は子どもの頃、何になるのが夢でしたか?」
「……うん?」
尋ねてから後悔した。堅実な農場主の妻になるという自分の夢を潰されようとしているからって、責めてもどうにもならないのに。
「夢か。考えたこともないな」
「考えたこともない?」
その返答にハッとする。当たり前じゃないか。将来国王になると決まっている彼が、他にどんな夢を描けたというのだろう。贅沢な悩みではあるが、一種の不自由には変わりない。今のはわたしが悪い。無神経だった。
「ごめんなさ――」
「なんだろうな。昔からそうだ、何事にも興味が持てない。やりたいことがない。なさ過ぎて口をきくのも忘れる。そのせいで家族によく言われるんだ、『生きているのか死んでいるのか、それだけでもはっきりしてくれ』と」
「え。そ、そこまで言う」
「しかし今は違うぞ」
嬉しそうに笑いかけてくれる。本当に無邪気だ、こういうときの表情は。
「生きている、という手ごたえがある。自分が無意識のうちに望んでいたものがなんだったのか、やっとわかった気がするんだ」
「手ごたえ?」
「そう、手ごたえ。――ひとつひとつのものや出来事が、現実として鮮やかに見えるようになったみたいだ。今までは違った。自分と世界との間に、隔てる何かがあった」
言っていることはよくわからなかった。けれど、これだけは伝わってきた。何かおかしいことがある。この人は、元から何かを抱えていたのだ。わたしと島で会う以前から。
「あなたがいてくれるお陰だ。ミス・リントン」
「いえ、別にわたしは何も」
「だからこれからも一緒にいてほしい」
と、ここでわたしは目を丸くする。晴れやかに笑う王太子様が、その場に片膝ついたからだ。隠していたわたしの左腕を引き寄せるとと、その手を下にすべらせた。指先を握られる。
言葉といい動作といい。この流れはまるで。
(プロポーズ?)
いやまさかと、頭は強く否定した。さらに心は、ただちに拒否した。しかし。
「私はあなたに従います。決して離れない」
ただの臣従の誓いだった。なんだそんなこと、と思う。
(……違う!)
待て自分。状況に慣れてしまっている。これは決して普通のことではない。流している場合じゃないだろうが。染まってどうする。
気を引き締めないと、と自分に危機感を抱く。その間に彼がすっくと立ち上がり、こちらを見下ろす。
「だからミス・リントン。ひとつお願いできるだろうか」
「はい?」
「昼食後、人と会うことになっているんだ。グラン・リオン人の記者が同船していてね、今回の訪問に関して、入国前にインタビューしたいと」
「まあ。殿下もお忙しいですわね」
「そうなんだ。だからあなたに頼みたい、そこに同席してくれないか」
例の鐘がふたたび頭の中で鳴る。六告鐘。まごうことなき死の鐘だった。
やめてよ王太子様。そろってインタビュー受けて、新しい愛人の披露でもするつもりか。
しかし。
「グラン・リオンの主導で進められている新ポワソン条約は知っているだろう。あのポワソン諸島の所有権争いに対する意見を訊かれる予定なんだ。だからミス・リントン、ぜひあなたの考えを聞かせてほしい」
一瞬、無になった。飛び出したのが、国際情勢に関する話だったので。
どうやら至極まじめな取材のようだ。さらに、王太子の意見とは、すなわち王室の公式見解と見なされてもおかしくない重要さをはらむ。
驚くというか、もう理解不能だ。なぜそれをわたしに訊く。話の規模が一気に大きくなり、ついて行けない。
「……わたくし、ただの教師ですが? 小学校の」
そんな大事なことに、どうしてわたしの意見を必要とするのだこの王子様は。田舎教師に訊くことじゃないだろう。今度こそ、心の底から困り果てた。