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【夜伽】命じてませんが

【夜伽】命じてませんが


 

 先行きへの不安が増大したところで、晩餐会は終わった。その後普通ならカードゲームやおしゃべりをして夜更けまで遊ぶのだけれど、そこまで付き合いきれない。というよりさすがに残る勇気はなかった。孔雀、いや蛇の巣窟に。


「お待ち下さい、ミス・リントン」

「あら、ミスター・リップ」


 部屋に戻る道を途中まで行ったところで呼び止められる。王太子付きの従者だ。

 やけに楽しそうに笑うリップは、片手を振った。


「よして下さいよ、ミスターなんて。僕のことはどうぞかるーく、リップと」

「……そう」


 軽すぎるのも問題じゃないのかしらと思ったら、何故か相手は吹き出した。


「見てましたよー、さっきの。僕がこっそり給仕に紛れこんでたの、気づきませんでしたか」

「そんなことをしていたの? 驚きましたわ」

「はい、実はね。さあ、行きましょう。あなたをお部屋にお送りするよう殿下に言われて来ました。ご自分でそうするつもりだったのを説得したんですから、感謝して下さいね」

「……それはありがとう」


 背中を押さんばかりにうながされ、ふたたび歩き出す。いくらも経たないうちにリップがまた口を開く。


「なかなか健闘なさったではないですか。レディ・ジュリエットの攻撃をかわす手際、あれはよかった」

「そうかしら。うまく隠せなかったけれど、例の件を」

「うーん。そうですねえ、僕も殿下が、あそこまで空気読まない人だとは知らなかったな。それに」


 少し声を落とし、こう続けた。


「正直言いますとね。僕には全くの別人に見えるんです。まるで取り替え子(チェンジリング)ですよ」

「別人?」

「これがあのレオポルド様かと、僕は驚いてばかりですね。あなたが現れてから」


 どういう意味だろう。説明がほしかったけれど、リップはそれ以上語るつもりはないようだった。神妙そうな表情を消し、明るく言う。


「あなたにも驚かされましたがね、ミス・リントン」

「他にまだ何かしたかしら、わたくしは」

「完璧なテーブルマナーに、何を言われようと落ち着き払って答えるあの優雅さ、ずっと崩れない笑顔。いやあミス・リントン、どこの名家のご令嬢かと思いましたよ」


 そんなところまで観察していたのか、と内心息をのむ。


「そのドレスの仕立て、あの辺鄙な島じゃありませんね。アロミンスターのリゴレット通りですか。あの辺りは貴婦人御用達の仕立屋が軒を」

「あのね、リップ。あなたのご主人様に恥をかかせたくないなら、余計な詮索しないでいただきたいの。わたくしのことを」


 我ながら冷たい声が出てしまう。でも、それ以上しゃべってほしくないし、本当に詮索されたくない。わたし自身のことを。


「……失礼。どうにも好奇心を止められない性格でして」

「そうらしいわね。それに身を滅ぼされないように気をつけて、猫のように」

「肝に命じましょう。先々のことを考えて」


 言葉通り、しばらくは黙っていた。この少女のように可愛い従者は要注意だと、わたしも肝に命じておく。そして部屋の前で、「もうここでよろしいわ」とこちらから言った時だ。


「――僕は何にでも興味を持つ人間でして。新聞も毎日チェックします」

「はい?」

「やっと思い出しましたよ。“リントン”という姓を、前にどこで見たのか」

「……」

「確かにそんな姓の家系は貴族年鑑に載っていない、今のには。でも次の年鑑が発行される時には掲載されるのでしょう? 現ラセット子爵の妻、つまり将来のハートフォード公爵夫人の旧姓としてね。

 ではミス・リントン、おやすみなさい」


 これから喫煙室のボーイに掛けあって、そっちに潜り込む予定なんです――などと楽しげに言いながら、恐ろしい従者は去って行った。


「恐ろしい子……!」



 贅沢すぎる部屋に戻る。疲れ果てたわたしは、すぐにベッドに倒れ込みたいのをこらえ、身に着けた武装をひとつひとつ解いていった。


「疲れた」


 晩餐会だったのに、何をどう食べたか全く思い出せないのはどうしてだろう。お腹は満腹だけど。


 化粧台の前のランプだけが灯りだ。モリーはもう休んでいるか、または仕事中だろうから、どうにかドレスを一人で脱ぐ。コルセットの紐を解き、その他もろもろの下着を取り替え、寝巻を着る。少し寒いので、クローゼットにあった部屋の備品らしいガウンを借りるとする。


 数時間前に悪戦苦闘して整えたシニョンをほぐして壊し、そこから出て来たヘアピンの数に驚く。そして鏡の前で髪を編んでいて思い出した。胸元に銀のペンダントを下げていたことを。


「まったく。こんな物を着けているから」


 銀に彫金し、小粒の真珠をあしらったペンダント。貴婦人たちの物に比べたらかなり見劣りするとはいえ、いま持っている中で一番高価な装身具だ。そしてこれには秘密がある。


 蓋を開くと小さな二枚の写真。ロケットペンダントになっている。中の白黒の面影は、もう一年以上も会っていないわたしの両親だ。


「……こんな風に持っていると、死んだみたいではないの。アリソンも、縁起でもない物をくれるわね」


 両親は健在のはずだ。わたしが実家を出る間際に、これを渡した義姉を思い出す。もともとわたしの友人だったアリソンだけだ。あの家で、わたしの味方は。


『お前は家の恥だ』。


 離れる前は、そんなことばかり言われた。母はともかく父とは一生わかり合えない気がする。


 心が痛まないわけではない。幼い頃はそれなりに可愛がってくれたし、わたしの将来についても、父なりの計画があったはずだ。それを裏切ってまで貫いた。用意された道ではなく、何もかも自分で決める人生を。


 ペンダントを外し、鞄の奥深くにしまう。眼鏡は化粧台に置いた。ランプを手に取り、バスルームで用事を済ませ、それでようやくベッドに入れた。広すぎて身の置き所のないベッドだが、昨夜の椅子よりは格段にましな寝床ではある。


 ゆっくりと眠ることだけが、今のわたしの救い――のはずだった。

 異変に気づいたのは夜半のこと。


「――!?」


 ランプは消したはずなのに、ちらちらと光るものがある。それで目が覚めた。閉めたはずのベッドのカーテンが開いている。


「なっ、なに」

「起こしたか。すまない」


 謝るわりには遠慮がなかった。

 火の灯った燭台を手にする、王太子殿下は。


 眠っていた姿勢のまま、上から下まで眺めまわしてしまった。ガウン姿の美青年を。


(え、え、え!? 何、何しに来たの。ここわたしの部屋だよね、間違えてないよね)


 ベッドを間違えたのはわたしじゃないと思いながら、パニックに陥る。しどろもどろに訴えた。


「そんな、殿下。そ、そういう不埒な目的じゃないって、言ったじゃないですか! な、何をなさるの。わたくしはそんなつもりでは」


 深夜、暗い寝室。若い男女がふたりきり。

 なんと破廉恥な、とわたしの中の教師根性がヒステリックに叫ぶ。


「戯れでは済まないんです、わたくしには!」

「ミス・リントン」


 燭台を置いた王太子がベッドの端に腰かけた。一度は別のベッドに入ったのか、今までになく黒髪が乱れている。半分起き上がったわたしはシーツを掻き込み、後ずさる。


 どうしようとパニック中のわたしに対し、相手の動作はゆっくりだった。


 じっとわたしを見つめる王太子。蝋燭の灯りが半分だけその顔を照らす。目の端にかかったひとすじの髪。切なげに眉をひそめた彼に、わたしは寸の間見入った。認めたくないけれど。


 相手が口を開く。単におやすみを言いに来ただけ、とか、わたしの早とちりだったらどうしよう。それはそれで恥ずかしいけれど大いに安堵できただろう。しかし。


「何もしない。ただ、頼みがある」

「頼み?」

「うん。そばで眠っていいだろうか」


 わたしの頭の中で空想の鐘が鳴った。教会の鐘。結婚式? いや、葬式だろう。


(信じられない!)


 男女がひとつの寝所に入ることが、何を意味するのか。わからない振りをする余裕はないし、そこまで純真ではない。

 未婚の娘がそれを受け入れたことが発覚すれば、世間からどんな制裁を食らうかも。


「できません。戻って下さい、ご自分の部屋に。こ、これは命令です」

「どうしてだ」

「当たり前でしょう! で、殿下はわたくしをなんだとお思いなの? そういう目的のために連れて来たんじゃないって、言ってくれたじゃないですか!」

「無論だ。あなたに無体な真似などできるはずがない」


 美しい王子は体を伸ばし、さらにすっと手を差し伸べる。その手は、全身を震わせるわたしの頬へと向けられた。

 冷えていた頬に、その手はあたたかくて、そして優しかった。


「……」

「ああ。やはりそうだ」

「殿下?」

「安心できる。あなたに触れていると、それだけでいい」


 体が揺れた。何故かというと、ベッドが揺れたから。きしむ音を嘘のように思いながら聞く。


 目をまたたかせながら見るわたしの視界には、たったひとりの人間。目の前に迫った彼は、片手で頬を、もう片方の手で頭を撫でた。愛しげに。


 まるで、何百年もの孤独が一気に埋まっていったみたい。

 彼が浮かべるのは、それほどの安堵が籠った表情だった。


 言葉を失くしていたら、ゆっくり抱き寄せられ、逆にそのせいで相手の顔が見えなくなる。

 絶望から救い上げるたったひとつの手を見つけたような、深い喜びを籠めた声が聞こえた。


「嬉しいんだ、今はただ」

「……」

「おやすみ、ミス・リントン」


 たぶん、その声のせいだ。抗うことを思いつきもせず、相手にされるがまま、身を横たえてしまったのは。その腕が優しくわたしを抱え込む。

 そして。


「……」


 ……なんだろう、これ。

 しばらくして、直接触れ合う体を通してか、妙に生々しい振動が伝わってきた。規則的な呼吸音、これはもしや寝息か。


(ほ、ほんきで寝てる?)


 同衾、というのだろうか。こういう状態でも。

 互いに着衣のまま、同じ寝台で身を寄せている男女。いかがわしい行為の後のようだけど、その実、どこまでも清い。艶めいた意味などない。ないはず。


 相手は本気で寝入ってしまったようだ。わたしは寝られないけれど。寝られるわけない。


「~~困った人ね、本当に」


 もうしばらく待ち、彼が深い眠りに入ったようなので、やっとそこから抜け出せる。そっと、起こさないように。


 真夜中に何をさせるのだろうと、ベッドから下りようとした。誰かを呼んで、この困った人を自分の寝床に戻してもらおうと思った。しかしはたと止まる。


(誰も信じないわよね)


 何もなかったと言っても誰も信じないだろう。真実なのに。それどころか、完全に認定されてしまうに違いない。気まぐれに連れて来た女を、さっそく召し出して夜伽を命じた王太子様の図。それ以外に考えられない。


 ではどうするか。この窮地を。

 こっそり別の部屋へ行き、とりあえず今夜の寝床を借りる?


(だめだわ)


 どこの部屋を誰に貸してもらえばいいのだろう。目下、秘密の頼みごとができる相手はいない。リップやランサム中尉は、やはり異性だから躊躇する。モリーの部屋はわからない。


 とりあえず立ち上がった。蝋燭は知らない間に消えていたけれど、代わりの光が、窓の外にある。目が暗闇に慣れている。お陰で見えてしまった。


 寝巻にガウンを着たまま、横向きの姿勢で眠るひと。その寝顔が見えてしまう。

 今度はこちらから近づいた。目を覚ます気配のない彼に。


「……あなたね」


 きっと、初めてじゃない。こんな風に“彼”の寝顔を見守るのは。遠い昔、同じことをしたのだろう。もしかしたら何度も。


 気がついたら見入っていた。純粋に、とても綺麗だと思ったから。


 ぴったり閉じたまぶた。長い睫毛。すっと通った鼻梁に、わずかに削いだ頬。秀麗なひたい。寝乱れた黒髪までもが仕上げとなって、この美しいひとを作り上げている。


 どうしてか、安らいだ表情だ。美しさと相まって、なんて清らかなのだろうと思う。

 だけど。


「……っ」


 伸ばしかけた手を止める。拳をぎゅっと握った。さっきとは別の意味で全身が震えた。


――衝動のままに殴る男。手加減のない一打を覚えている。衝動が過ぎれば、すべて忘れたように笑いこける姿も。


――周到に組み上げられたあの牢獄。気心を通じた女官はひとり残らず遠ざけられ、救援を求める手紙が届くことはない。外出も来客も禁止。裁縫も読書も禁じられ、時間を潰す術がなく、ただただ無為に過ごさざるを得なかった。未来を絶望で塗り潰されたあの長すぎる幽閉が、ついに心を殺した。



 なかったことにできるだろうか。あれを全て。

 高貴すぎる下僕として彼が身を投げ出したとして、それで全て清算できる?


 美しい寝顔を見た。我ながらその目は冷めきっていたと思う。

 決して心を許せない理由がある。


 意外に上流に馴染んだミス・リントン。わたしにもできないことがある。わたしはこの人を信用することができない。疑う気持ちは消えないだろう、どうしても。


「それにしても、ねえ」


 やがて苦笑が込み上げてきた。添い寝は下僕の仕事ではないだろうに、この人は、本当にわたしをご主人様だと思っているのか。いや、そうじゃなくていいんだけど。


「まったく、ご主人様の寝床を奪う従者がどこにいるのよ」


 仕方がない、今夜はリビングのソファで寝よう。

 レオポルド様とわたしの初めての夜は、こうして過ぎて行った。




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