別離③
〈仲間のところさ。俺を救ってくれた群れのもとへ。おまえが俺の弟だと言えば受け入れてくれる。大人になったよそ者は群れに入れないのが常だが、俺にははぐれた弟がいることを長には話してある。だから群れの一員になれる〉
そう言って兄狼はゲンを促すように森の奥へと歩み出した。だがゲンは一歩を踏み出せなかった。
〈で、でも……おいらには源太がいる。あの子はおいらを助けてくれた。だから……おいらは源太を守るんだ〉
〈馬鹿を言うな!そんな所にいたら、いつかおまえも火を噴く棒で殺されるぞ!人間に近づくな!〉
〈駄目だ……おいらは行けない。源太と一緒にいる〉
その時、夜の闇に澄んだ声が響いた。
「ゲーン!」
源太の母親が家の方から呼んでいる。
〈おいら、戻らなくちゃ!〉
ゲンは一瞬だけ兄を振り返り、そして迷いなく家の方へ駆け出した。
〈おい!戻れ!〉
背後で兄の叫ぶ声が追いかけてきたが、ゲンの足は止まらなかった。
〈兄ちゃん、ごめん……〉
その後も兄狼は幾度となく弟の姿を遠くから見に来た。闇の中、風の匂いの向こうに兄がいることをゲンも感じる。だが兄が再び目の前に現れることはなかった。そしてゲンも、出て行かなかった。見守るだけの影が、月の下に潜んでいた。
そうして、三月が過ぎたある日。ゲンは源太と共に山の奥へと出かけた。
「源太、このところ雨が続いて地面が緩んでいる。崖には近づくなよ」
「転ばないように足元に気をつけなさい。ゲン、源太を頼んだよ」
父親も母親も口々に言い含める。
「うん、分かった!」
源太は元気よく返事をすると、勢いよく外へ飛び出した。何日も雨に閉じ込められていたせいで、身体中が外の空気を欲していたのだ。慣れた山道を駆け上がっていく源太の後ろを、ゲンは軽快な足取りで追いかける。
「ゲン、この前この先で綺麗な花を見つけたんだ。おっ母に持って帰ってやろうと思うんだ!」
源太は奥へと進んでいく。ゲンはふと父親の忠告を思い出し、胸の奥に警鐘が鳴る。この先には急な崖がある。
「クゥー……」
ゲンは源太の裾を噛んで引っ張った。
「ゲン、何するんだ!邪魔するなよ。あの花を持って帰れば、おっ母はきっと喜ぶんだ!」
源太はゲンを振りほどき、なおも前へ進んだ。裾が引き裂かれる音が山に響く。
「ゲン、じゃあおまえはここで待ってろ。おいら、一人で行ってくる!」
源太は言い捨てて先を急ぐ。ゲンは仕方なく後を追った。
山の頂に出ると、黄色い花が一面に咲いていた。とりわけ、一つの花が岩の上でひときわ輝くように咲き誇っている。源太は真っ直ぐにその花へ向かい、手折った。
「どうだ、奇麗だろう!」
誇らしげに振り返った瞬間、源太の足元の岩がグラリと動いた。
「うわっ!」
源太の身体が崖の向こうへ消える。ゲンは慌てて駆け寄った。源太の小さな身体は岩の縁からぶら下がり、必死に指先で崖を掴んでいた。
「ゲ…ン……助けて……」
その声は震え、今にも途切れてしまいそうだった。
ゲンは喉が裂けるほどの声をあげ、前足で源太を掻き寄せようとした。けれど狼の爪では引き上げることなど叶わない。
「クォーン! クォーン!」
無力さに胸が裂けそうになりながらも、ただ必死にその腕を掻き、その小さな手を加え込んだ。牙が源太の手の甲に深く食い込み、赤い血がゲンの口に溢れた。それでも離すことなどできなかった。しかし、無情にも岩が砕け、源太の体を支えているのはゲンの牙だけになった。
「ガキッ!」
嫌な音が響き、ゲンの右の牙が折れた。その瞬間、源太の身体はゲンから離れ、崖の下へと吸い込まれていった。
「ゲーーーーン!」
「クォ―――ン!」
その声は山の奥に虚しく響き、雨に洗われた崖の岩肌に何度も反射して消えていった。
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