別離②
ゲンにとって、この家は、そして源太は、何よりも大切な存在だった。体を寄せ合っていると、不思議と心が満たされ、母親の胎に戻ったかのような温もりを感じるのだった。半年も共に過ごすうちに、源太の言葉もおぼろげながら理解できるようになっていた。
「クゥ――ン」〈あったけえなあ、源太〉
腹の上で眠る源太のぬくもりを感じ、ゲンは心の内でそう呟いた。その時だった。家から少し離れた茂みの中で、じっと様子を伺う鋭い眼差しが闇の奥に光った。冷たい月明かりを受けて、その双眸は鋭く輝いている。ゲンはふいに鼻先をかすめた懐かしい匂いに、全身を震わせた。
「クォン!」〈兄ちゃん!〉
瞬間、胸の奥で近くに兄がいる、と確信が弾けた。勢いよく立ち上がったゲンに、母親が驚いて声を掛ける。
「ゲン、どうしたの?」
(兄ちゃんだ……兄ちゃんが近くに居る!)
ゲンは木戸の前に駆け寄り、爪を立てて引っ掻いた。母親が首を傾げながら近寄って来る。
「どうしたの?便所に行きたいの?」
母親が木戸を開けると、ゲンは一瞬振り返り、囲炉裏の横で寝息を立てている源太の姿を見た。その寝顔に安心したように短く吠えると、外へと飛び出した。夜気の中、匂いは一層濃く、鮮烈に鼻を突いた。ゲンの足は自然とその匂いの源を目指して駆け出していた。
〈兄ちゃん……!〉
茂みを抜けた先、満月を背にして一匹の狼が立っていた。鋭く、しかしどこか懐かしい眼差し。確かに兄の匂いがする。だが姿は記憶にある兄のものとは違っていた。この半年の間に自らも大きく成長し姿を変えていたことを、ゲンは忘れていた。互いを見つめる二匹の狼は、月光を浴びて同じように光る毛並みを揺らし、円を描くように歩みを交わす。
毛の色も大きさもほとんど瓜二つ。ただ、その顔つきだけが違っていた。一匹は相手を威嚇するような鋭い眼光を宿し、もう一匹はどこまでも優しく穏やかな表情を浮かべていた。しばし距離を置いて見つめ合った末、ゲンはやはり確信した。目の前にいるのは、間違いなく兄だと。
〈兄ちゃん…〉
ゲンは地面に腹ばいになり、嬉しさのあまり尻尾を大きく振った。すると目の前の狼の足がピタリと止まる。
「グルルッ」〈やっぱり……おまえか!〉
〈兄ちゃん!〉
堰を切ったようにゲンは飛びついた。再会の喜びが胸をいっぱいに満たす。
〈おまえ、生きていたのか!匂いがしたからもしやと思って、しばらくこの家の様子を窺っていたんだ〉
〈兄ちゃん、兄ちゃん!〉
二匹は子供の頃のように取っ組み合い、じゃれ合い、しばし時を忘れた。久方ぶりの兄の体温に、ゲンの心は弾み、胸の奥で何度も歓喜の声を上げていた。やがて兄狼は、真剣な眼差しでゲンを見据えた。
〈……おまえ、あんなところで何をしているんだ。あれは人間の住まいだろう〉
〈源太のうちだ〉
〈源太?〉
〈源太はおいらを助けてくれたんだ〉
〈助けただと?だが所詮、人間だ。人間は敵だ〉
〈敵じゃない!源太は……源太は違う!〉
兄狼の瞳は鋭く光った。
〈忘れたのか。俺たちの母ちゃんは人間に殺された。仲間も……群れも……突然現れた人間の矢や火を噴〈棒に倒れた。母ちゃんがそう言っていただろう。人間は俺たちの仇だ〉
〈でも、源太は違う!あの子は優しいんだ!〉
〈人間なんて信用するな!さあ行くぞ〉
〈どこへ?〉
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