最終章
終の時
銃を乱射した二人組みを追ってきたゲンはさっきの人間とは違う人影を見た。ゲンは少し離れた茂みに潜んで様子を伺った。こちらに迫ってきたら噛み殺すつもりで居た。
「ウゥゥ――。」
ゲンは小さな唸り声を上げた。その声が聞こえたのかその人物は銃を握り締めた。足を一歩前に出そうとしてゲンの鼻に懐かしい匂いが漂った。その匂いはとても甘く、孤独の中を生きてきたゲンの中の何かを刺激した。
「クゥーン。」
ゲンはさっきより少しその人物に近い場所に移動した。そこからはその人物の顔がよく見えた。それは見たことの無い若者であった。だがその顔が懐かしい顔と重なった。
(源太・・・?)
〈源太、源太だ!〉
そう思って身を乗り出すと鼻先に間違いようの無い源太の匂いがした。源太の匂いを嗅いだ瞬間、長い長い孤独との戦いから開放されたような気がした。源太が、源太が自分を探して迎えに来てくれたのだと思った。
〈源太――!>
ゲンは叫びながら夢中で源太の元へ走った。
引き返そうと思って後ろを向いた源太の耳に微かに狼の唸り声が聞こえた。さっきの連中の言っていた言葉を思い出した。
――熊みたいなでかい狼がいた。――
源太は反射的に銃に手を掛けた。狼を撃ちたくは無い。だが、ここで死ぬわけには行かない。父親が死んだ後苦労して自分を育ててくれた母親や村のみんなに恩返しもしなくてはいけない。源太は用心しながら後ずさりした。と、その時茂みの中から黒い大きな塊が物凄い勢いで飛び出してきた。その生き物は大きな唸り声を上げながら源太に飛び掛ろうとしていた。
(殺られる!)
源太は咄嗟に銃を構えるとその生き物に向かって撃ち放った。その生き物は茂みの向こうへ倒れこむように落ちた。源太はそうーっと茂みを掻き分けてそこへ行った。だがそこにその生き物は居なかった。ただ雪の上に赤い血のあとが点々と続いているのが見えた。その瞬間、源太は我に返った。今のは狼だったのか?自分は狼を撃ってしまったのだろうか。源太はその血の跡を追った。
何が起こったのか分からなかった。確かに源太だと思った。飛び上がっると同時に胸の中に熱いものが走り抜けるのを感じた。何故か源太の腕に抱きかかえられたような気がした。ゲンは胸からボタボタと血を流しながら本能的に祠へと向かった。撃たれたという実感はなかった。身体はどんどん熱くなり意識は朦朧として源太の笑顔だけが瞼に浮かんだ。
〈源太・・・。〉
「クゥ――ン。」
〈源太・・・源・・・・・・太・・・会いた・・かった・・・・よぉ・・・・。〉
今も何処かに源太の匂いを感じる。きっと源太が傍に、この先にいるのに違いない。よろよろと祠の近くまで来た時、兄の姿が見えた。もう骨だけになっていた兄が元気な姿で起き上がりこっちを見ていた。
〈兄ちゃん!〉
身体は今にも倒れそうであったがゲンの魂は兄の元へ走って行った。
〈兄ちゃん!〉
〈ゲン、長い間一人でよく頑張ったな。さあ、俺と一緒に行こう。〉
〈兄ちゃん。〉
血の跡をたどって行くとさっきの二人組が言ったように熊かと見まがうほどの大きな狼が祠の中に倒れたいた。その狼は随分と痩せ細っていた。そして腹の下に別の狼のしゃれ頭を大事そうに抱えるようにしていた。源太が近づくと微かに動いた。
(狼を撃ってしまった・・・。)
咄嗟のこととはいえ自責の念に駆られた。しかし撃たねばやられていた、そう思った。源太はその狼に触れた。その瞬間、狼はか細い声でひと啼きした。
「クゥ――ン・・・。」
狼はそのまま動かなくなった。その口には細かい木の端切れがいくつも付いていた。動物が少なくなった上に今年は雪が多かった。食べるものもなくついには木を齧って空腹を凌いで居たのだろう。源太はこの狼が哀れになってその口に挟まっている木屑を取り除いてやった。と、その時、牙の折れた口が源太の目に留まった。この狼には右前の牙が無かった。それは随分古くから無かったように思われた。源太は自分の首飾りに手をやった。
「おまえ・・・おまえ、まさか・・・ゲン、ゲンなのか・・・?」
ゲンは死んだはずである。ここに居るのがゲンであるはずが無い。そう思ったが見れば見るほどこの目の前の狼はゲンに見えた。
「ゲン・・・おまえ、おいらが分からなかったのか・・・。」
源太はゲンの身体を撫でながらそう呟いた。すっかり野性の姿に戻っているゲンはもう源太の事が分からなくなって襲ってきたのだと思った。こんなところでずっと一人で生きてきたのならばそれも仕方あるまいと思った。だがまさか自分がそのゲンを撃ち殺す羽目になるとは思わなかった。
源太はゲンとそこに一緒にあった骨を岩の上に置き一人神送りをしてゲンを祭った。父の言葉を思いだした。野生のものは野性に返してやるのが一番いい。もしかしてあの時、父の言うとおりゲンを拾わなければあの時にゲンは死んでいたかもしれない、だが案外他の狼の群れに助けられたかもしれない。そうすればこんなところでずっと一人で生きていく羽目にも陥らなかったのかもしれないと思った。
(ゲン・・・済まない。)
源太は手を合わせてそう思った。そして首からぶら下げていた首飾りを引きちぎりゲンの体の上に置いた。
(おまえはやっぱり野生の生き物だったんだな・・・・。)
様変わりしたゲンを見ながら源太はそう思った。
目の前に光の道が見えた。兄が先導するように前を歩いていた。ゲンはその後を付いていったその先に母の姿が見えた。そこへ走っていった。いつの間にかゲンの身体は幼い頃の姿に戻っていた。
〈母ちゃん、兄ちゃん。〉
二人に身を寄せると暖かくなった。
ふと、何かが身体に触れているように感じた。それはとても暖かくて懐かしくて気持ちが良かった。源太の手だと思った。
(ああ、源太だ。やっぱり源太だ・・・。)
〈源太・・源太の手はあったけえなぁ。〉
ゲン小さな声でそう呟いた。
おしまい