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ゲンと源太  作者: 葉菜
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  四.


 夢中で走って山の奥深くまで来たゲンは漸く足を止めた。

(兄ちゃん・・・。)

クォォン・・・。」

兄は死んだのであろうか。夜が静まるのを待ってゲンは兄の匂いを求めて森の中を彷徨さまよった。自分がどこをどう駆け抜けてきたのかも分からなかったがあちらこちら動き回っているうちに微かに兄の匂いがした。ゲンはその匂いのする方向へと足を向けた。森の中の大きな木の根元に少し土が盛り上がっているところがあった。兄の匂いはその中からした。ゲンはそこを前足で掘り返した。

(兄ちゃん!・・・。)

夢中で土を掘り返していくとその中から変わり果てた兄の顔が見えてきた。

〈兄ちゃん!〉

ゲンは尚も掘り続けた。爪は割れ足の先は血だらけになった。それでもどんどんと掘り続けて兄の全身がゲンの前に現れた。

〈兄ちゃん、兄ちゃん!〉

「クオォォ――ン。」

だがゲンがどんなに叫んでも兄が目を開けることは無かった。ゲンはその兄の身体を咥えてズルズルと引きずりながら山の奥へと進んだ。倒れた木に阻まれそうになっても、傷ついた足が痛んでも決して兄の身体を離さずに朝が近づく頃まで掛かって山の奥深くの自分達がずっと一緒にいた岩穴のほこらまで運んで行った。

〈兄ちゃん、戻ってきたよ。〉

冷たくなった兄の身体をゲンはぺろぺろと舐めて身体についた泥を落とした。

〈兄ちゃん、兄ちゃん・・・。〉

「ウォオー――ン。」

白みかけた夜空にゲンの遠吠えが幾度となく鳴り響いた。だが仲間のいないゲンの声に誰も応えるものは無くただ物悲しい声だけが山の中にとどろいた。


「あんた、ゲンをちゃんと送ってやったほうがいいのじゃないの。」

源太が眠った後、事のいきさつを聞いた母親は父親に提案した。

「送る?」

「ゲンは何も悪くなかった。むしろ源太を助けてくれようとしたのよ。なのに殺してしまった。山の生き物は神様が使わしてくれた恵みよ。むやみに殺したりすると必ず天罰が下る。特に狼は神の姿を借りて降りてくる生き物。むやみに殺してはいけない。あんたがいつも言っていたことじゃないの。」

「それは・・・そうだが。」

「ね、あんた神送りをしましょう。それでゲンの魂も少しは救われるかも知れない。私、ゲンは本当に源太を助けるために来てくれた神の使いだったような気がしてならないのよ。」

「分かった、朝になったらもう一度ゲンを埋めた場所へ行って準備をしてくる。その後で三人で神送りをしてやろう。」

「ええ、それがいいわ。」

夜があけるのを待って源太の父親はゲンを埋めた場所へ一人向かった。そこへ行って驚いた。土は大きく掘り起こされゲンの遺体はどこにも見当たらなかった。

(どういう事だ・・・。)

まさか生き返った分けではあるまい。父親は何か不吉なものを感じた。ゲンは本当に神の使いだったのか。山のものをむやみにあやめてはいけない。それは生活のかての為だけに捕らえるものである。その教えを破ってしまった。源太が大怪我をしてそんな大切な山の掟を忘れてしまっていた事に父親は改めて気が付いた。

「神送りは出来なくなった・・・。」

家に帰った父親は肩を落として妻にそう言った。

「どういうこと?」

「ゲンはいなくなった。」

「居なくなったって?生きていたということ?」

「分からん・・。いや、生きていたということは無い。確かに死んでいた。だが、土は掘り起こされその姿はどこにも無かった。魂の居場所が分からないのに神送りは出来ない。」

「そんな・・・。」

「源太には言わない方がいいだろう。」

「そうね・・・。」

母親の心にも何か不吉なものがぎった。

(何も悪いことが起こらなければいいのだけれど・・・。)


ゲンは獲ったばかりの獲物を咥えて祠に戻った。祠にはすっかり冷たく硬くなった兄の遺体があった。動かない兄の前にその獲物を差し出す。雪が深くなった山の中で獲物を探すのは困難を極める。それでも山の生活に随分と慣れてきたゲンはどんな僅かな動きも逃さなかった。五感は研ぎ澄まされ微かな音にも反応するようになった。山を彷徨い獲物を探し物言わぬ兄の元に帰って来る。

〈兄ちゃん、食べよ。〉

「クォン。」

そうやってゲンは毎日兄に話しかけた。凍てつく寒さの中で兄の遺体は腐敗が進むこともなくその形を保っていた。他の狼の群れを見つけて近づいた事もあったが追い払われてしまった。どの群れもゲンを仲間として迎え入れてくれることは無かった。そしてゲンはあれ以来源太の家にも決して近づくことは無かった。兄の死はゲンの長い長い孤独への旅の始まりであった。

〈人間は敵だ!〉

そう言った兄の言葉はゲンの胸に深く残った。腹を空かせた他の生き物が兄の遺体を狙ってくることもあったがゲンはどんな生き物もそこに近づかせなかった。その姿はまるで守り神のようにさえ見えた。それでも時折、隙間風が胸の中を駆け抜けた。

(兄ちゃん・・・源太・・・。)

冷たくなった兄の身体の脇に身を寄せて丸くなって眠る。寂しさが胸の中を支配する。時折、源太の暖かい胸の中に眠っていた幼い頃の夢を見る。目が覚めると遠い空に向かって声を上げた。

「ワォオ――ン。」


空耳だろうか。源太の耳には今でも時々ゲンの声が聞こえてくるような気がする時があった。ゲンは確かに死んだというのに。それは間違いない。父親と一緒に山深い木の根元にゲンを埋めたことは今でも覚えている。長い眠りから気が付いたばかりで目覚めた時の記憶は少しはっきりしないところもあったが動かなくなったゲンの身体を抱きしめた感触だけははっきりと残っていた。

「下の村の家畜が狼に襲われたそうだ・・・。」

部落の集会から帰ってきた父親が母親に向かってそう言った。

「まあ、また。」

母親は心配げな顔をして父親を見た。ここのところそんな話を立て続けに聞いている。もしかして夫が罪の無い狼を撃ち殺してしまったので山の神の怒りを買ったのではないかとさえ思えてくる。

「あんた、それって・・・。」

「そうじゃない。」

父親は妻の言いたいことを察してそれを否定した。

「最近ここいらに入ってきては鹿を乱獲している倭人達のせいで餌が少なくなってきているせいだろう。」

「そう・・・。」

返事をしながら母親は源太の方を見た。源太は窓から外をぼうっと見ていた。意識を取り戻してもう半月以上過ぎている。身体はすっかり元気になっているはずなのに心は傷ついたままであった。ゲンの死のショックから今も立ち直れないでいる。ああして外を眺めては時々独り言のようにゲンの声がすると呟いていることがあった。

「源太、風が強くなって来たみたいだからこっちへきて火にあたりなさい。」

「うん。」

振り返った源太は素直に火の傍に来た。

「また、ゲンの声が聞こえたよ。」

「源太、ゲンのことはもう忘れろ。元々おまえが助けなければ尽きていた命かもしれない。これも運命だったのだ。」

父親の言葉に源太は返事をすることもなく俯いた。あの時、父親はゲンを手にかけてしまった事を確かに後悔した。しかし思い返してみるとやはりあの時、家の中を覗いていたゲンから敵意を感じたのも事実であった。あの鋭い眼光は今思い出しても身震いがする。

「ゲンはもうおまえの知っているゲンじゃなかった。山の生き物だった。野性に返っていたんだ。」

「おっ父・・ゲンは、」

源太は顔を上げて父親に抗議を仕掛けたが止めた。もう何を言ってもゲンが帰って来ることは無いのだ。

「おまえもそろそろ狩を覚えなくてはな。」

その言葉に源太は小さく頷いた。


 十年の歳月が流れた。幾度となく通り過ぎた季節の中で兄狼の身体はもう骨だけになっていた。それでもゲンはいつもその骨のかたわらに居た。一人ぼっちの山の中でゲンの居場所はそこにしかなかった。そして誰もそこに近づくことを許さなかった。十年という月日はゲンをすっかり大人の狼に成長させていた。そして山でただ一人生き抜いてきたゲンの眼光は鋭くその動きにも隙は無かった。その姿の中に昔、人間と共に暮らした面影はまるでなく山の生き物そのものであった。この深い山の中で人間の姿を見ることは殆ど無かったがつい最近近くまで来た人間を見かけたことがあった。ゲンは遠目でその姿を見たが決して自分から近づく事はなかった。ただもし向こうからこちらへ来た時には追い払うべく心積もりだけはしていた。山にも里にも心許せるものなど何一つなかった。隙を見せれば殺される。心にあるのはその思いだけだった。


 今日は部落の若い者達の集まりがあった。源太はその集まりに出ていた。話の内容はやがて狼狩りの話になった。家畜の被害が相次いだ為、内地の人間が狼狩りを始めた。元はと言えばその内地の人間がむやみな動物狩りをしたことが始まりなのにと源太は心を痛めていた。源太の父は源太が十歳を迎える年に熊にやられた傷が元で亡くなってしまっていた。母親は罪の無いカムイを殺めてしまった報いなのかもしれないと言った。源太と母親は部落の者達の助けで今まで生きてこれた。すっかり立派な若者になった源太はこれからは村のためにそのお返しをしていかなくてはと思っていた。

「狼狩りのせいで餓えたはぐれ狼がそこいらに出没している。」

「だが、狼はむやみに人間を襲ったりはしないぞ。」

「元々はそうだが、はぐれて餓えた狼は凶暴になっている。気をつけたほうがいい。」

「それはそうだが・・。だからと言ってむやみ狼を撃つのは賛成できない。」

「それは分かっている。だがそんな山の掟を知らない、山の恵みに感謝をすることすらしないよそ者が懸賞金までかけて狼狩りをしている。」

「それもこれも元はと言えばあいつらのせいじゃないか。」

「山から神がいなくなったら自然が壊れるのではないか。」

「我々もそろそろ違う生き方を見つけねば成らないのかもしれない。」

「もはや、狩猟では生活していけない。」

「我らが一体何をしたというのだ。山と共にずっと生きてきたというのに。」

「源太はどうするんだ。」

「おいら・・おいらはやっぱりおっ父のような猟師になりてえ。」

「おめえのおっ父は勇敢な猟師だったってうちのおっ父も言っていた。」

「狼にあったらどうする?」

「狼・・・。」

源太の頭にゲンが浮かんだ。

「狼はむやみに殺してはならない。内地の人間と我らは違う。」

「だが、向こうが襲ってきたら?身を守るためなら仕方が無いだろう。」

そう言われて源太は父親がゲンを撃った時のことを思い出した。

「・・分からない。そうなって見なければ。だが狩は生活の糧にだけするものだ。その教えは守らなければいけない。」

「そうだな・・源太の言うとおりだ。だが俺は家族を守るためなら撃つかもしれない。おめえだっておっ母が襲われそうになったらそうも言ってられまい。」

「それは・・・。」

「ま、とりあえずはぐれ狼には近づかないことだ。」

「そうだな・・・。」

そう言って源太はそっと胸の首飾りを握り締めた。それは昔、自分を救おうとしたゲンの牙であった。その牙を源太はお守り代わりにしていつも首からぶら下げていた。


 山からは本当に動物の姿が少なくなった。源太は一人山奥に分け入ってそう思って進んだ。そこへこの辺の部落の者ではない見知らぬ二人連れが血相を変えて源太の前に姿を現した。

「あんた、このあたりのものか。」

「この頂の途中にある部落の外れに住んでいる。」

「この先に熊みたいにでっかい狼が居る。気をつけろ。近寄ったら凄い形相で迫ってきた。俺達命からがら逃げてきたんだ。」

「すげえ俊敏な奴で銃など簡単にかわしやがった。いくら懸賞金もらえても死んだら元も子もない。」

そう言うとその二人組みは早々にその場所を去った。そう言われて源太は思いのほか山の奥深くまで来てしまっていることに気が付いた。そしてその近くにさっきの二人組みを追って来ている狼が居ることに源太はまだ気が付いていなかった。


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