三.
三.
二匹は茂みに潜んでいた。もう三日も食べ物らしい食べ物を口にしていなかった。この間、山道にいた比較的小ぶりの鹿を取ろうとしたが素早くその首に喰いついた兄と違って狩などしたことが無いゲンは出遅れ一噛みも出来ないうちに暴れた鹿によって兄は振り落とされ逃がしてしまった。その後、生き物らしい生き物に出会っていない。そこに現れたウサギは格好の獲物であった。
〈兄ちゃん、おいら、どうすればいいの。〉
野生の動物を取って食べるなどということはしたことが無い。あれを食べるのかと思う反面、目の前で草を食ん(は)でいるウサギが空腹を刺激して美味しそうに見えたりもした。
〈し、あれなら俺一人で大丈夫だ。おまえはここで見ていろ。〉
そう言われてゲンは物音を立てないように息を殺してそこに居た。兄がそーっとそのウサギに近づいた。その瞬間ウサギはこちらを振り返って慌てて走り出した。だが気付くのが遅すぎた。兄の動きは俊敏であっという間にウサギの前に回ったかと思うとその首を押さえた。ウサギは叫び声を出す暇もなく兄狼の牙の元に伏した。息の絶えたウサギを咥えて兄狼はゲンの元へ戻ってきた。
〈兄ちゃん、すっげえ!〉
ゲンがそう言うと兄狼は溜息を付く様にしてそのウサギを足元に落とした。
〈おまえも早く覚えろ。大物は俺だけじゃ仕留められない。こんな小さな生き物じゃ食料としては何日も持ちこたえられない。もうじき寒くなる。そうしたら獲物がますます見つけにくくなる。〉
〈うん・・おいら、頑張る。〉
とは言ったもののゲンは全く自信が無かった。今まで人間の中で暖かい部屋と食べ物を十分に与えられてきた。源太と一緒におっ父の狩に付いて行った事は何度かあったがおっ父が仕留めたものを草むらの中から見つけ出して取ってくるといったことしかしたことが無かった。それでも兄の見よう見まねで少しずつ動きは早くなっていっていた。それから何日かしたある日、水辺にいる大きな蝦夷鹿を見つけた。リオンはそっとその様子を伺った。ゲンもそれに見習って横に座った。あの鹿を仕留めることができればとリオンは思った。あれだけ多きければしばらくは食いつなぐことが出来る。しかし、たったの二匹で倒せるだろうか。あれくらいのクラスになるといつも群れ全体で獲っていた。それでも振り落とされて怪我をするものさえいた。しかもゲンはまだまだ頼りない。行くべきか諦めるべきか、そう思った時、鹿がこちらの気配に気が付いたのか走り出した。リオンは本能的に後を追った。その兄の後を追ってゲンも走り出した。リオンの動きは早く鹿に追いつくと飛び上がってその首元に喰らい付いた。鹿は仰け反って暴れた。
〈ゲン!、足、足を噛め!〉
兄に言われてゲンはその足元に回ろうとしたが中々近寄れない。暴れている鹿の足は右往左往に走り回り近づこうとすると蹴り飛ばされるような気がした。
〈ゲン、早くしろ!〉
ゲンは必死の形相で鹿に近づき、やっとの思いで鹿の後ろ足に噛み付いた。が、その途端、鹿はますます暴れゲンの牙は振り払われてしまった。大きく仰け反って首を振りまわす鹿からリオンの身体も宙を飛び近くにあった大木に叩き付けられた。二匹の口が離れると鹿は猛スピードで走り去って行った。
「グルルッ・・。」
〈兄ちゃん!〉
振り落とされた兄の元へゲンは駆け寄った。兄はぐったりしていた。
〈兄ちゃん、兄ちゃん!〉
ゲンが兄の身体を舐めていると、漸く兄は眼を覚ました。
〈兄ちゃん!〉
目を開けた兄を見てゲンはホッとした。
〈ゲン・・・。〉
立とうとしてリオンはよろけた。左の前足に力が入らなかった。足を突くと激痛が走った。どうやら骨を痛めたらしい。
〈兄ちゃん、大丈夫?〉
〈大丈夫さ、これくらいの傷。〉
そうは言ったもののリオンはこの足では小さな動物でさえ狩が出来るかどうか不安になった。そしてその不安は的中した。それからどんな小動物も一匹も仕留めることができなかった。そして足の痛みは激しくなりついには立てなくなってしまい小さな洞窟の中で身を休めた。
〈兄ちゃん・・・。〉
「クォン・・。」
〈大丈夫だ、すぐに良くなって。獲物を仕留めるから。〉
兄はそう言ったがゲンは兄の怪我がそう軽くないことを悟っていた。草や木の実で食いつないでいたがそれでは空腹をしのぐところまで行かなかった。食料の無さは兄狼の傷の治りも遅くした。ゲンは木の実を探して森の中を歩いた。と、その時目の前を走りぬけた子鹿を見つけた。ゲンはそっと足音を忍ばせるようにその後を追った。子鹿はゲンには全く気付かないで水を飲みだした。ゲンは身を潜めて様子を伺った。
(あれを、あれを仕留められれば兄ちゃんもきっと元気になる。)
足音を立てないように近づいた。小鹿は油断していたのだろう、ゲンが間近に車で気が付かなかった。小鹿が顔を上げた時にはゲンはもう真後ろまで来ていた。慌てて走り出そうとした小鹿にうなり声を上げて飛び掛った。兄がいつも最初に首を狙うのを思い出してそこに喰らい付いた。小鹿は暴れたがゲンはしっかりと咥え込んで話さなかった。前足で小鹿の頭を抱え込んだ。ギリギリと食い込む牙に小鹿はやがて倒れこんだ。その上に乗り込んでゲンは急所をさらに噛んだ。小さな声を出して小鹿は動かなくなった。
〈やった!〉
ゲンは初めて捉えることができた獲物を急いで兄の元に持って帰った。
〈兄ちゃん!〉
ゲンが引きずりながら持って帰ってきた小鹿を見て兄は少し驚いた顔をした。
〈おまえが獲ったのか。〉
〈うん、ね、早く、早く食べて。〉
〈そうか、よくやった。〉
兄がそれを口にするのを見ると嬉しくなった。
〈おまえも食べろ。おまえが獲ってきた獲物だ。〉
〈うん。〉
兄弟は仲良くそれを食べ始めた。それからゲンは小さな動物なら一人で獲れる様になった。兄の足も少しずつ回復に向かい漸く立って歩けるようになった。
だがゲンの心には時折源太の面影が浮かんだ。源太はどうしているのだろう。怪我は治ったのだろうか。山に入ってどれくらいが過ぎたのだろうか。そう思い出すと気になってしょうがなくなった。兄が眠っている隙にゲンは源太の様子をこっそり見に帰った。家の近くまで行くと源太の匂いがした。だが源太の姿を見ることはなく、声も全く聞こえなかった。その後もゲンは何度となく見に行ったが相変わらず源太を見ることは出来なかった。
〈源太・・・。〉
源太は死んでしまったのだろうか。匂いがするのは源太の服の残り香に過ぎないのであろうか。そんな思いが湧いた。
源太が怪我をしてから三月が過ぎた。怪我をした源太を家に運び入れてから源太は酷い高熱を出して幾晩も魘されていた。時折、寝言でゲンの名を呼んだ。その熱も十日を過ぎる頃には漸く下がり、目に見える傷も少しずつ治ってきた。しかし源太は一向に目を覚まさなかった。この三月、源太はずっと眠ったままであった。
「あんた・・源太はいつになったら目を覚ますのかしら。もしかしてずっとこのまま・・。」
「やめろ、そんな事はない。源太は強い子だ。必ず目を覚ます時が来る。」
「そう、そうよね・・・。」
「全く、狼なんぞ飼うからこんなことに・・・。」
「あんた、そのことなんだけど、」
「何だ?」
「私、どうしてもゲンがやったとは思えないのだけれど。」
「何を言っている、おまえも見ただろう。こいつの手に刺さっていたあの牙を。腕にだってあいつの爪痕があんなに・・。」
「でも、あんなに仲良しだったゲンが源太を襲うなんて考えられないわ。」
「あいつには仲間がいた。知らない間に仲間と通じていたんだ。もしかしたらゲンは仲間のところへ帰ろうとしたのかもしれない。それを源太が止めるか何かしてこんなことになったのかもしれない、それならあり得るだろう。」
「そうかしら・・・。」
「現にあいつは仲間と一緒に森へ逃げたんだぞ。やっぱり狼は人が飼うような生き物じゃないんだ。仲間に会って野性の血が目覚めたんだろう。」
「本当にそうなのかしら・・・。」
母親は小さく首を振ってまた縫い物の続きをはじめた。
冬を迎える季節となった。山の奥はもう白いものに覆われ始めていた。この日もゲンはこっそりと源太の様子を見に行っていた。だが相変わらず源太の姿は見えなかった。
「クオォォン。」
ゲンは小さな声を上げた。
その時、眠っていた源太の指先が少し動いた。だが微かなその動きに両親は気が付かなかった。
後ろで物音がした。ゲンが振り返って見るとそこに兄狼が来ていた。
〈兄ちゃん・・・。〉
〈やっぱりここに居たのか。おまえが時々いなくなるからもしかしたらと思っていたんだ。〉
〈源太が・・源太の姿が見えないんだ。〉
〈見つかったら今度こそ殺されるぞ。前にもそう言っただろう。〉
〈で、でも・・源太が生きているのかどうか知りたいんだ。中から源太の匂いはするんだ。でも一度も出てこないんだ。ひと目、源太の元気な姿が見られたらそれでいいんだ。〉
〈それが分かったら諦めるのか。〉
〈うん、源太が元気ならそれでいい。〉
〈それを確かめたらもうここへは来ないか。〉
〈うん、約束する。〉
〈分かった。なら、おまえはここに居ろ、俺が様子を見てくる。〉
〈え、お、おいらが行くよ。〉
〈駄目だ、おまえはまだ人間に対して甘い。油断したら殺られる。いいな、ここで待っていろ。〉
〈うん・・・分かった。〉
兄狼は源太の家にそっと近寄った。
〈兄ちゃん、ありがと。〉
ゲンがそう言うと兄狼は振り返って
〈世話の焼ける奴だ。〉
そう言って苦笑した。足音を忍ばせて兄狼は家の中が見える位置に移動した。
源太の母は窓の横を通った時に外に何か動くものの気配を感じた。
(何かしら?)
そう思ってそうっと窓の柵の端から覗いて見た。夕闇の中に狼の姿が見えた。それはゲンだった。母親には大きさも毛並みも色もまるでそっくりの兄狼の姿はゲンにしか見えなかった。
「ゲン・・・?」
その言葉に父親が耳を立ててその傍に寄ってきた。
「何?」
父親もそっと窓の外を覗いた。中を窺うようにしている狼の姿が目に入った。それは確かにゲンに見えた。だがその目つきは鋭く野生そのものに見えた。
「あいつ、何しに来やがった!」
咄嗟に父親は慮銃を持って外に出ようとした。
「あんた、何をする気!」
「見ただろ、今のあいつの目。あれはもう昔のゲンじゃねえ!あいつは源太の仇だ!」
そう言って外に飛び出した。父親が外に出てくるのを感じて兄狼は身を翻して茂みへと走った。
〈ゲン、戻れ、走るんだ!〉
〈兄ちゃん!〉
兄にそう促されてゲンは走った。その時、後ろで銃声の響く音が聞こえた。
「ギャオォン!」
叫び声が聞こえてゲンは振り返った。後ろで兄が倒れていた。
〈兄ちゃん!〉
ゲンが近寄っていくと兄の腹からドクドクと血が流れていた。兄はまだ直りきっていなかった足の傷がたたって遅れてしまった。
〈兄ちゃん!〉
ゲンは兄の身体を咥えてズルズルと引きずって進もうとした。
〈ゲン・・に、逃げ・・・ろ。〉
〈い、いや・・だ。に、兄ちゃんと、一緒に、〉
〈だ、駄目・・だ。は、早・・く逃げ・・・ろ。〉
〈兄ちゃん!〉
「ウオォォー―ン!」
ゲンは叫んだ。兄を置いてはいけない。だが、その時、追ってくる父親の足音が耳に響いた。
〈逃げろ・・早く、逃げろ、逃げるんだ!〉
その言葉にゲンは走り出した。ゲンが走り去ってから父親は横たわった狼の傍に来た。
「仕留めたか・・・。」
足元の狼を見て父親はそう呟いた。ゲンは走った。無我夢中で走った。どこをどう走ったのかも分からなかった。涙が溢れてきて行く手を遮った。
「源太!」
その時、家の中では源太が目を覚まそうとしていた。うっすらと目を開けた源太は小さな声を出した。
「ゲン・・・。」
遠くでゲンの声が聞こえたような気がして源太は目を覚ました。
「源太!あんた、目を覚ましたのね。」
「お・・おっ母・・・ゲ・・・・・・ゲン・・は・・・。」
そこへ源太の父親が猟銃を抱えて家に戻ってきた。
「あ、あんた、源太が、源太が目を開けたわ。」
「何!」
その言葉に父親は源太の傍へ走り寄った。
「源太、おっ父だ、分かるか。」
「お・・・、おっ父・・・ゲ・・・ゲンは。」
父親が脇においた猟銃から火薬の匂いがした。
「ゲンは死んだ。おまえの仇はちゃんととったぞ!」
「ゲン・・・死んだ・・・・・?」
そう言ったとき、虚ろだった源太の瞳に光が差した。
「ゲンが・・死んだ?」
源太は起き上がろうとしたが身体に力が入らなかった。
「源太、あんたずっと眠っていたのよ。そんなにすぐには起きるのは無理よ。」
起き上がろうとした源太の身体を母親はそっと撫でた。
「ゲ、ゲンが死んだって、ど、どういうこと?なんで死んだの。」
「俺が撃った。ゲンはまたやってきてうちを覗いていたんだ。あの目は獲物を狙う目だった。」
「お、おっ父、な、何を言っているの。ゲンがそんな、そんな事をするわけが無いじゃないか!」
「おまえ、何を言っている。現におまえはあいつに襲われて大怪我をしてこんなに長いこと寝たきりだったんだぞ。」
「おっ父こそ何を言っているの。ゲンがおいらを襲うなんてあるわけ無いじゃないか。ゲンはおいらを助けようとしてくれたんだ!」
「え・・・?そ、そうじゃ無いだろう。おまえの腕にはゲンの爪あとや噛み傷が無数にあった。手には牙まで刺さっていたんだぞ。おまえは長いこと寝ていて記憶が混乱しているんだ。」
「違う!お、おいら、おっ父やおっ母の言うことを聞かずに崖のほうへ行ったんだ。ゲンは止めようとしてくれていたのに、おいら聞かなかったんだ。それで、崖から落ちて、ゲンはおいらを引っ張りあげようと一生懸命頑張ってくれたんだ!おいら、ゲンの背中に乗って家まで帰ってくるところだった。」
「源太、それ本当なの?」
母親は悲しい目をしてそう聞いた。
「本当だよ、ゲンは何も悪くないんだ。」
「あんた・・あんた、やっぱりゲンは源太を襲ったりしていなかったのよ。」
「だが、さっきのゲンはもう昔のゲンじゃなかった。あの目は野性の目だった。それに今さらそんな事が分かってもどうしようもない。もう・・・もう、遅いんだ。ゲンは、ゲンはこの俺が殺しちまった。」
「ゲンは、ゲンはどこにいるの?ゲンのところへ連れて行って!」
「源太、あんたその身体じゃまだ外へ出るのは無理よ。」
「い、嫌だ!ゲンのところへ行く。ゲンのところへ・・・。」
そう言って源太は泣きじゃくりながら布団から這い出そうとした。
「俺が、俺が連れて行く・・。」
父親は源太を背負うとさっき撃った場所まで足を運んだ。そこには横たわったまま息絶えた狼がいた。父親にも源太にもその狼はゲンにしか見えなかった。
「ゲン!」
父親の背から飛び降りると源太はよろよろとその狼の元へ走り寄った。
「ゲン、ゲン!い、嫌だ、ゲン、目を開けて!」
源太は狼を抱き上げるようにして泣き叫んだ。
「おっ父、なんで、なんでゲンを撃ったんだ!ゲンは何も悪くないのに!」
「仕方が無かった。元々野生の生き物だ。おまえの言うことが本当だったとしてもこいつはもう野生の世界に戻っていたんだ。」
「ち、違う・・ゲ、ゲンは・・・。」
源太は狼に顔をこすり付けるようにして尚も泣き続けた。
「ゲン・・・ゲン、ごめん、ごめんよう。おっ父を許してくれぇ・・・。おまえは何も悪くないのに・・・。」
源太が泣き止むまで父親はずっと後ろにいた。一頻り泣いて漸く源太が泣き止むと父親は静かに言った。
「こいつを山に帰してやろう。」
「おっ父・・・。」
父親はその狼を担ぐと源太と一緒に深い山奥へと分け入り土を掘って埋めた。せめて野ざらしになって他の動物に食われることが無いようにと思った。源太の嘆き悲しむ様子を見てやはり罪悪感が湧き出た。
(ゲン、すまなかった・・・。)
埋め終わると父親は手を合わせて心の中でそう詫びた。源太は何度も何度も振り返りながらその場所を後にした。涙は後から後から湧いてきて止まらなかった。