二
二.
ゲンが来て半年の月日が過ぎた。ゲンはどこへ行くのも源太と一緒に居た。源太はゲンが来てから土間でゲンと一緒に寝るようになった。母親はそんな源太を見てゲンに源太を取られちゃったわと冗談交じりに言ったが半分本音でもあった。ゲンが来るまでは源太はいつも母親と一緒に寝ていた。
源太はある日、父親が言っていた下の部落の話を母親に尋ねた。
「おっ母、下の部落で狼を飼っていた人はどうなったの?」
「ああ、その話・・。」
母は少し重い口調で話し始めた。
「随分前の話なのだけれどね、狩に行った部落の者が祠の中に居た狼の子供達を見つけてその中の一匹を持ち帰ってしまったの。ちょうど飼っていた狩猟犬が死んだばかりだったのでその狼を自分の狩猟犬にしようと思ったらしいわ。でも飼い始めて一週間ほどした時に狼の群れがきてその家を襲ったの。子供を取り返しに来たのでしょうね。その家には生まれたばかりの赤ん坊がいたのだけれどその赤ん坊はやってきた狼に噛み殺されてしまったのよ。」
「そんな・・・。」
「それ以来、狼の子供は決して持ち帰ってはならないって言われているの。だからおっ父は駄目だって言ったのよ。もし、仲間がやってきたりしてそんな事にでもなったらって思っているのよ。」
「で、でもゲンのおっ母はもう死んでいたし、ゲンは一人ぼっちだったもの。他の子供も一緒には居なかったよ。」
「そうね、おっ父も群れは襲われてもう生きてはいないだろうって言っていたけれどね。母親が一匹で死んでいたと言うことはつがいとなっていた狼も死んでしまったと言うことだろうって。それでも、やっぱり心配なのよ。狼は人が飼ってはいけないと思っているから。いつか大地に帰りたいと思うかもしれない、仲間を見つけたら野性の本能が目覚めるかもしれない。そうなった時、源太や私に危害を加えるかもしれないと。」
「そんなこと無いよ。ゲンは優しい子だよ。この間もおいらが転んで怪我をした時舐めてくれたよ。」
「そうね、おっ母もそう思うわ。だってゲンはとても優しい目をしているもの。それに源太とはとっても仲良しだものね。」
そう言って母親は源太の横で眠っているゲンの方へ視線を移した。
「うん、ゲンは凄く優しいよ。」
そう言って源太は横たわっているゲンのお腹に頭を乗せた。
「ゲンの心臓の音がするよ・・・。」
そう言いながら源太は眠ってしまった。この半年でゲンはまだ大人には成りきっていないが随分大きく成長していた。少し頭を起こして自分の腹の上にある源太の顔を見るとゲンは小さな声を出して安心したようにまた目を閉じた。
ゲンはこの家が、源太が大好きだった。源太と身体を寄せているととても暖かかった。まるで母の腹の中で眠っている時のような気持ちになったそして半年も一緒に居ると源太の言葉も何となく分かるようになった。
「ク―――ン。」〈あったけえなあ、源太は。〉
腹の上に頭を乗せている源太を見てゲンはそう思った。
その時、家から少し離れた茂みの中でこの家の様子をじっと伺うように見ている目があった。その目は闇の中で鋭い光を放っていた。
ゲンは鼻先を掠める懐かしい匂いにビクッとした。
〈兄ちゃん!〉
瞬時にそう思った。
「クォン。」
頭を起こしたゲンの様子に源太の母親が声を掛けた。
「ゲン、どうしたの。」
〈兄ちゃんだ、兄ちゃんが近くに居る!〉
立ち上がるとゲンは木戸の前に立って爪を立てた。
「どうしたの?」
ゲンは物言いたげな表情をして源太の母親を見上げた。
「どうしたの、便所か?」
母親はそう言って木戸を開けた。外へ出ようとしたゲンは一度振り返って源太の方を見た。囲炉裏の横でスヤスヤと眠っている源太を見るとゲンは安心したように外に足を踏み出した。外に出ると兄の匂いはさらに強くなってゲンを刺激した。足がその匂いのする方向へ走り出した。
〈兄ちゃん・・・!〉
茂みを抜けると一匹の狼がこちらを見下ろすように立っていた。その狼からは確かに兄の匂いがするのにその姿はゲンの知っているの兄の姿とは全然異なるものであった。ゲンはこの半年の間に自分も大きく成長してその姿形を変えている事を忘れていた。二匹の狼は互いの姿を見て円を書くように歩いた。月夜に照らされたその姿は毛並みも色も大きさもまるでそっくりであった。ただよく見るとその顔付きだけは少し違っていた。一匹は相手を威嚇するような鋭い顔つき、一匹は優しい温和な顔をしていた。
しばらく距離を置いて様子を見ていたがやはり兄だと思った。
〈兄ちゃん・・・。〉
ゲンは地面に腹ばいになって尻尾を振った。すると相手の狼の足が止まった。
〈やっぱり・・おまえか!〉
〈兄ちゃん!〉
ゲンは嬉しくて飛びついた。
〈おまえ、生きていたのか!おまえの匂いがしてもしかしてと思って様子を見ていたんだ。〉
〈兄ちゃん、兄ちゃん!〉
二匹は一頻りじゃれあって時を過ごした。久しぶりの兄との再会はゲンの心を躍らせた。
〈おまえ、あんなところで何をしているんだ。あれは人間の住まいだろう。〉
〈源太のうちだ。〉
〈源太?〉
〈源太はおいらを助けてくれたんだ。〉
〈それでも人間だろう。人間は敵だ。〉
〈敵じゃない、源太はいい人間だ。〉
〈忘れたのか、俺達の母ちゃんは人間に殺された。仲間もみんな突然やってきた人間に殺されたって母ちゃんが言っていただろう。人間は俺達の敵だ。〉
〈でも、源太は違う!〉
〈人間なんて信用するな、行くぞ。〉
〈どこへ?〉
〈仲間のところさ、俺を助けてくれた群れの仲間だ。俺の弟だといえばおまえも群れに入れてくれる。大人になった他所の者は普通、仲間にはなれない。でも俺にはぐれた弟が居ることは長には話してある。だからおまえも仲間になれる。〉
そう言って兄狼はゲンを森の中へ促した。だがゲンの足は止まった。
〈で、でも、おいらには源太がいる。源太はおいらを助けてくれた。だからおいらは源太を守るんだ。〉
〈何を馬鹿なことを言っている、早く行くんだ。あんなところに居たらおまえもいつか火を噴く棒で殺されるぞ。人間なんかに近づくな!〉
〈駄目だ、おいら、おいらは行けない。源太と一緒に居る。〉
「ゲーン!」
その時、向こうから源太の母親の呼ぶ声がした。
〈おいら、戻らなくては・・!〉
そう言ってゲンは家のほうへ足を戻した。
〈おい!戻れ!〉
後ろで兄の叫ぶ声が聞こえたがゲンは源太の元へと足を急いだ。
〈兄ちゃん、ごめん・・・。〉
兄狼はその後も何度となく弟の様子を遠くから見に行っていた。ゲンは兄が近くに来ていることを時々感じてはいたがその前に行くことはなかった。そんな事が三月も続いたある日のことである。ゲンはいつものように源太と山の奥に出かけた。
「源太、ここ数日の雨で地面が緩んでいるから崖の方へは近づくな。」
「転ばないように足元に気をつけるのよ。ゲン、源太を頼むわね。」
出かけるとき源太に両親が口々にそう言った。
「うん、分かった。」
そう言って源太は勢いよく外に出た。何日も酷い雨が続いてずっと家の中に篭っていたので早く外に出たくて仕方が無かった。山道を鳴れた足取りで走っていく源太の後ろをゲンもまた軽い足取りで着いて行った。
「ゲン、おいらこの前、この先に奇麗な花が咲いているところを見つけたんだ。おっ母に持って帰ってやろうと思うんだ。」
そう言って源太は奥のほうへ進んだ。ゲンはさっき父親が言っていた言葉を思い出して源太を止めようとした。この先には急な崖があることを知っていた。
「クゥー。」
源太の衣服の裾を噛んで引っ張った。
「ゲン、何をするんだ。おいらの邪魔をするな。あの花を持って帰ればきっとおっ母は喜ぶに違いないんだ。」
源太はゲンを振り切るように進んだ。尚も服を噛んでいたゲンと引っ張り合いになって服のすそが破れた。
「ゲン、じゃ、おまえはここにいろ。おいら、一人で行って来る。」
そう言って進んでいった源太の後ろをゲンは仕方なく着いて行った。山の頂まで出ると黄色い花がまばらに咲いていた。少し先の岩の上に一際奇麗に咲き誇っている花を見つけた源太はまっすぐにそっちへ向かった。花を手折ると源太は自慢気にゲンの方を振り返った。
「どうだ、奇麗だろう。」
と、そう言ったときに源太の足元の岩がグラついた。バランスを失った源太の身体は崖の向こう側へと姿を消した。ゲンは慌ててその場所へ走り寄った。そこには岩に手を掛けてぶら下がっている源太がいた。
「クォーン、クォーン。」
ゲンは自分の前足を出して源太の手をカリカリと何度も引っ張りあげようとしたが掴むことも出来ない源太の足ではどうすることも出来なかった。
「ゲ・・・ン、助けて。」
上を見上げて今にも崩れそうな源太を見下ろしてゲンはなす術も無くただガリガリと源太の腕を掻いた。と、その時、源太が手を掛けていた岩が崩れた。ゲンは慌ててその手を咥えた。ゲンの牙はどんどん源太の手の甲に食い込んでいったが口で持ち上げるには源太の身体は重すぎた。源太の手の甲に刺さったゲンの右の牙はバキッと折れて源太の身体ごと崖の下へ落ちて行ってしまった。
「クォ―――ン!」
ゲンは慌てて下へ降りる道を探したが崖づたいに降りることは困難を極めた。諦めて元来た道を戻って下から回って源太の居る場所を探した。匂いをたどっていってやっと源太を見つけた。
〈源太!〉
体中傷だらけで、頭から血を流して倒れている源太がそこに居た。
ゲンは源太を起こそうと源太の体中を舐めて前足や鼻先で源太の顔を揺すった。すると源太は微かに動いた。
「ゲ・・・・ン・・・・・。」
「ワォ―――ン!」
ゲンは空に向かって叫んだ。
〈誰か、誰か、源太を助けて!〉
助けを呼び行かなくては行けない、そう思って走り出そうとしたとき源太の手がゲンの足を掴もうとした。
「ゲ・・・・ン・・・、い、行か・・ないで・・・・。」
〈源太・・・!〉
「ク―――ン。」
ゲンはバタバタと源太の周りを歩き回った。どうしたら良いのか分からなかった。でも助けなくてはいけない。ゲンは源太の腕を咥えて自分の背中に乗せようとした。だが、うまく行かない。薄目を開けた源太がゲンの方を見た。
「乗・・・れ・・ばいい・・・の?お、おまえが・・・・おい・・ら・・・・つ、連れて・・・・帰って・・・・。」
源太はゲンの意図を悟ったように腹ばいになったゲンに手を伸ばして身体をずるずると引きずってその背中に乗った。源太が上に乗り切るとゆっくりと立ち上がったゲンは慎重な足取りで家に向かった。
〈源太、しっかりしろ!〉
「ゲン・・・ゲ・・・ンの・・背中は・・・・あったけえなあ・・・・。」
そう言ったっきり源太はぐったりして動かなくなった。早く、早く帰らなければ。
〈源太!源太!〉
「クォオーン。」
もう少し家に着く、そう思ったときぐったりした源太の身体がゲンの体から滑り落ちた。
〈源太!〉
「ワォ―――ンッ!」
家に届くようにゲンは叫んだ。
家の中にいた源太の父親にその声は届いた。
「ん、今、声がしなかったか?」
「え、何?」
「今、ゲンの声が聞こえたと思ったのだが。」
そう言ったとき、再びゲンの声が聞こえてきた。何度も何度も繰り返しそれは聞こえた。
「なんだ、様子が変だぞ。」
そう言って父親は猟銃を片手に外へ出て声のする方向へ向かった。茂みを抜けるとゲンの足元に血まみれの源太が横たわっていた。
「源太!源太、どうした。」
父親は走りよって源太を抱き上げようとしてその手を見た。そこには無数の掻き傷、手の甲には牙が刺さっていた。ゲンを見るとその口の周りには血がついていた。
「おまえ・・・おまえがやったのか?」
源太の父親の表情が変わった。
〈ち、違う、おいらじゃない、おっ父、早く源太を助けて!〉
「クオオォン・・。」
だがそんなゲンの言葉は父親には分からない。まして血まみれの息子の姿を見て動転して頭に血が上ってしまっている。
「おまえ、恩を仇で返しやがって!」
父親の手に握られていた猟銃の銃口がゲンに向けられた。銃を向けて迫ってくる父親にゲンは怯んで後ずさりした。
「グルルッ。」
〈おっ父、おいら、おいら何もしてねえ・・・。〉
ゲンの訴えは父親の耳には届かない。父親はゲンに向けた銃の引き金に手を掛けた。と、その時であった。黒い塊が茂みの中から飛び出してきてその猟銃もろとも父親の身体を押し倒した。一瞬のことで父親には何が起こったのか分からなった。その塊はすぐにまた茂みの中に身を潜めた。
「わっ、な、何だ!」
「ウ―――ッ。」
茂みの中から鋭いうなり声が聞こえた。
〈ゲン、逃げろ!こっちへ来るんだ、早く!〉
〈兄ちゃん!〉
ゲンは兄の声のするほうへ走った。
「仲間か、他に仲間が居るんだな!」
他の狼の声を聞き取った父親は素早く落ちた猟銃を広い茂みに向かって撃ち放った。猟銃の音を背中で聞きながらゲンは兄の後ろを必死で走って着いて行った。
〈兄ちゃん!〉
源太の家から随分遠く離れたところまで来ると兄は足を止めて振り返った。
〈だから言っただろう、人間なんか信用するなって。〉
〈で、でも・・源太が。〉
〈もうあそこへは戻れない。戻れば今度こそ殺されるぞ、分かっているだろう。〉
兄の言葉にゲンは項垂れた。
〈行くぞ、ついて来い。〉
そう言われてゲンは兄の後をトボトボと着いて行った。
〈ゲンというのは人間がつけた名前だろう。〉
〈うん、源太が付けてくれた。〉
〈そんな名前捨ててしまえ!〉
〈い、嫌だ、源太が付けてくれたんだ。〉
ゲンの言葉に兄はやれやれといった感じに首を振った。
〈兄ちゃんは、兄ちゃんは名前ないの。〉
〈あるさ、俺はリオンだ。助けてくれた長が付けてくれた名だ。〉
〈リオン、かっこいいなあ。〉
そのまま二匹は森の奥深くまで進んで行った。ゲンにとっては足を踏み入れたことの無い場所であった。向こうから遠吠えする無数の狼の声が聞こえてきた。その声に呼応するかのように兄が遠吠えをした。
〈行こう、仲間が待っている。〉
視界の中に数匹の狼の姿が入ってきた。近づくに連れて唸り声が耳に響いてきたが兄についてそこに近づいていくと中から一回り大きな狼が前に進んできた。
〈リオン、そいつは何だ。〉
〈長、こいつは・・ゲン。俺の弟だ。仲間に入れてくれ。〉
兄の言葉に長と呼ばれたその狼は鼻をヒクヒクさせた。
〈駄目だ、それは出来ない。〉
〈何故だ、長は弟が見つかったら仲間に入れてくれるって言ってたじゃないか!〉
〈そいつは山の生き物じゃない、人間の匂いがプンプンする。〉
〈その人間に殺されそうになって逃げてきたんだ。こいつはれっきとした狼だ!〉
〈駄目だ、残念だがそいつは仲間には出来ない。〉
長がそう言うと他の狼達が唸りながらゲンの周りを嗅ぎまわった。
〈兄ちゃん・・・。〉
ゲンは兄に身を寄せるようにした。
〈長!〉
〈何度も言わせるな、リオン。そいつは我らとは異なるものだ。仲間にはなれない。〉
〈兄ちゃん、いいよ、おいら、おいら、行くよ。〉
ゲンはそう言って尻尾を下げて後ろへ下がって行こうとした。そのゲンの周りを他の狼達が囲んだ。ゲンは全身の毛が総毛立つのを感じた。本能的に前足を踏ん張って唸り返した。
〈やめろ!ゲンは俺の弟だ。〉
そう言って兄狼はゲンの前に立ち塞がった。
〈ゲン、行くぞ。〉
兄狼が他の狼を牽制する様にしてゲンの前を歩いた。
〈リオン、どこへ行く。〉
長の声が兄狼を呼んだ。
〈ゲンは俺の弟だ。こいつは森の中で一人ではまだ生きていけない。俺は一緒に行く。〉
〈群れから離れて生きていけると思っているのか。〉
そう言われて兄狼は長のほうを振り返った。
〈長、助けてくれてありがとう。でも、ゲンは弟だ。俺は弟と共に生きる。〉
二匹はしばらく見合っていたが兄狼はその視線をかわすと前に向かって歩き出した。
〈兄ちゃん・・・。〉
ゲンと兄狼の前方を塞ぐかのように他の狼が円陣を組んで迫ってきた。兄狼は牙をむき出して鋭い唸り声を上げた。
〈やめろ!〉
その時、後ろから長の声が響いた。
〈行かせてやれ。〉
長がそう言うと群れは道を明けた。二匹はその中を歩いて進んだ。群れの姿はどんどんと後方になりやがて見えなくなった。
〈兄ちゃん・・・ごめん。おいらのせいで。〉
〈元々二人だったんだ。これからはおまえも狩を覚えるんだぞ、俺が教えてやるから。〉
そう言って兄は笑った。