優性形質
人は基準点なしには生きていけない。
いわゆる帰巣本能というやつもその一環である。
人は基準点の奴隷となる代わりに安心感を得るのだ。
かつて人は利己的な遺伝子の奴隷と言われたように。
その基準点は一生固定されるものではないが、流動性が高いものでもない。
人生の転機において、この基準点が変更されることになる。
例えば家族ができた時。
やり甲斐のある仕事を見つけた時。
むしろ基準点が変わった時こそが人生の転機と言うべきだろう。
ならば、今の俺の基準点はどこにあるのだろうか。
その疑問に対して、父さんや母さん、芽衣を含めた家族という答えが一つ思い浮かぶだろう。
なるほど大変もっともらしい、結構な答えだ。
だがどうにもそれだけではしっくり来ない。
では四条院華。
彼女はどうだろうか。
ここ最近の出来事や交友はほとんど全てが俺と彼女が出会ったことに帰着する。
しかしどうにもそれだけでは腑に落ちない。
芽衣と仲良くなったことも彼女本人のおかげかと言われると、そこは首を傾げざるをえない。
そこでにわかに匂い立つ重要なキーワード。
恋愛症候群だ。
俺の最近の行動を規定する最も重要な因子は、結局これ以上のものはないだろう。
華本人ではなく、その華との関係性。
それこそが俺の基準点と呼ぶのに相応しい。
言葉を代えれば、俺は恋愛症候群の奴隷となっているのだ。
「でもどうしようもねえよなあ」
そうやって放課後の教室でひとりごちながら、ぼんやりと虚空を見つめる。
現在抱える諸問題も、ほぼ全てが恋愛症候群に大きく依存しているということは、恋愛症候群をどうにかしてしまえば芋づる式に他の問題も解決に大きく前進するということだ。
一真に相談したらそれが明らかなものになったという、ただそれだけの話である。
解決すべき問題が明確になること自体は良いことなのだが……
如何せんその問題の解決案がはっきりしない。
はっきりしない、とは言うものの、別に解決方法がわからないわけではないのだ。
むしろ確実に理解している。
理解しているからこそ、悩むのだ。
現実に存在している解決案は大きく2つ。
1つ目は恋愛症候群を受け入れること。
2つ目は恋愛症候群を諦めること。
余りに真逆な2つの選択肢故に、どうしても決めることができない。
どちらを選んだところできっとどこかで後悔が残る。
だから、決断を先送りにしているだけだ。
そんなことをしたって、どうせどこかで破綻をきたすことは理解しているっていうのに。
下手の考え休むに似たり。
益体もないことを独り考えていると、気が付けば日は傾き、教室に黄昏を映し出している。
その時、廊下の奥からペタペタと足音が聞こえてきた。
こんな時間に来るってことは先生の誰かか。
黄昏の語源ともなっている誰そ彼その言葉通り、足音の主は姿が見えてこない。
そして足音が教室の前まで来た時、それはピタリと止まった。
うちの担任か誰かだったのだろうか。
だがその足音の主はそこから一向に動こうとせず、じっと物音一つ立てず留まっている。
一体何がしたいのだろうか。
あまりに不気味だ。
そんな時、ふと夕暮れ時を表す、黄昏以外の言葉を思い出した。
逢魔ヶ刻。
文字通り魔に出逢う時刻だ。
いやいやまさかね。
しかし一度浮かんだ考えというものはそう容易に消せるものでもなく、連鎖するように次々と嫌な考えが脳裏をよぎる。
一体何者なのか。
いや、まず本当に人なのか。
あまりに非科学的で不合理な考えとはいえ、確かめずにはいられなかった。
幸いかどうかはわからないが、どうやらこちらが気付かれている様子はない。
抜き足差し足でドアに近付き、外の様子を伺う。
するとそこには、廊下の窓により掛かる誰かの後ろ姿があった。
ひとまずまともな人間であったことにほっと一息胸をなでおろし、改めてその姿を確認する。
まず意外なことに先生ではなく、女子生徒である。
風になびく長い髪で顔は見えないが、背は低めか。
このままスルーして帰るのも手だが、なんとなく気になるところがあった。
先程から物音がしていないことを考えると、わざわざここに来てただ窓の外を見ているだけ、ということになる。
一体何がしたいのだろうか。
軽く声をかけてみることにした。
「そんなところで何してるんだ?」
俺が声を出した瞬間、ビクリと肩を震わせる。
脅かしてしまったか。
「ああごめん、別に責めてるとかじゃなくて。ただ気になっただけだから」
「あれ、青葉くん?」
言葉と共に振り返ったその顔は、見覚えがあるのと同時に意外な顔でもあった。
「お前こんなところで何してるんだ?」
「んー、ちょっと風に当たりたくて」
黒磯葵。
恋愛症候群で発生した出会いの1人だった。




