プロローグ
とある国の王妃は、ある日女の子を産みました。先の男の子が幼くして亡くなったため、王様はとても喜びました。女の子はユウロと名付けられ、王様と王妃様にかわいがられすくすくと育ちました。
姫が五歳の誕生日、姫の世話係は姫を連れて外の森へ遊びに行きました。姫は生まれてこの方屋敷より外へ出たことが無かったため、初めての外に呆れるほどはしゃぎます。
しかし気づけば時すでに遅し。姫は、森の深部へ迷い込んでしまっていたのです。世話係を兄として慕っていた姫は、世話係を呼び続けます。
「にぃさま……にぃさまぁっ」
最初は気付かなかった姫ですが、誰もいないことに気付いて泣き始めます。そして進むたびに、さらに深部へと迷い込んでしまうのです。
森の奥で胡弓を弾いていた少年は、少女の泣き声にふと手を止めた。泣き声はしだいにこちらへ近付いて来る。この森に足を踏み入れる人は滅多におらず、二週間この森を探索しても人の影一つ見当たらなかった。それが、今になって幼子の泣き声が響く。
気になった少年は、胡弓をケースに片付けてそれを担ぎ、声のするほうへ向かった。森の御神木とされているらしい菩提樹という木の下で、少女が膝を抱えて泣いている。
「……どうかしたんですか?」
声をかけてみる。少女は涙で濡れた顔を上げ、少年の顔を見た。何も言わない少女の横に座り、少年は胡弓を取り出す。心地よい音色が森に響く。少年の口からぽつりぽつりと呟かれるコトバの数々。
ゆったり空気に浸透して、その音は響く。いつの間にか泣きやんでいた少女は、もっと聴かせてというように少年の腕をつかんだ。
「こんにちは。どうかしたんですか?」
「ユウねっ、まいごになっちゃったの」
「迷子? それは大変ですね……どこから来たんですか?」
「あっち! あっちの、おっきなおうち!」
「おっきなおうち……って、一国の姫君なんですか」
コウタは森の外にある古く大きな洋館を思い出しながら、言う。この国で一番大きく、一番頑丈そうな造りだったという記憶がある。そして城下町とその屋敷との間には大きな川があり、そこをわたる方法は昼間だけ架けられている橋しかなかったはずだ。屋敷と森との間には巨大な塀以外の隔たりはなかったので、もしかすると塀のどこかにある穴から抜け出てきてしまったのかもしれない。
息をついて、少年は少女の頭を撫でた。
「じゃあ僕が連れて行って差し上げますから、帰りましょう?」
「やっ。おじちゃん、なんて言うの?」
「おじ……ま、いいか。僕はコウタ。詩人です」
「シジン? コウタ、シジンってなに?」
「詩を詠う人。詩詠みの詩人だよ」
にっこり笑みを浮かべて、詩人・コウタはそう口にする。姫はコウタと同じようににっこりと満面の笑みを浮かべて、立ち上がる。そうして、興味深そうにコウタの持っている胡弓を見た。
「なぁに、それ? きれーねっ」
「ああ、これですか?胡弓という楽器です。聴きたいですか?」
問えば、首が千切れるのではないかというほどの勢いで姫は首を何度も縦に振る。コウタは一度息をついてから、弓を持ち、皮面を右にして胡弓を左腿の付け根に乗せる。左手の指で弦を押さえて音階をとりながら、右手に持った弓で弦をこすると、先ほどのような音色が響く。ぽつぽつと紡がれるコトバ。
コウタを背凭れに、姫は心地よさそうに首を左右に揺らす。
気付けば森は肌寒くなり、日暮れを告げていた。胡弓を弾くコウタの横で姫はいつの間にやら眠りについてしまったらしく、すやすやと規則的な寝息を繰り返している。
コウタは姫を起こさないように胡弓をケースに片付け、胡弓を持ち姫を抱いて歩き出す。森を抜けてすぐのところに男が一人いた。ものすごくあわてた様子で森から出てきたコウタのほうへやって来る。
「すまないが、この森の中に……姫様! ああよかった、あなたが見つけてくれたんですか?」
問いかけようとして、コウタの腕の中にいる姫を見て男は心底安心したようにコウタのほうへ近寄ってきた。コウタは男に姫を渡し、くるりと踵を返した。
男はもうコウタのほうを気にしていないようで、姫を抱きかかえて泣いている。
(あの男は旅に向かないな……疑わない人間は旅で早死にする。あの姫君も、旅には向かないだろう)
森の深部、小屋の中。一人胡弓を弾きながら、コウタは自問自答を繰り返した。長い時間引き続けた後で、くっと口元を歪めた。
数日後、城の中。姫は目が覚めて、部屋を出る。部屋の外には今まさに扉をノックしようとしている兄の姿があった。
「にぃさまっ」
「おはようございます、姫様。稽古の時間ですので、お迎えにあがりました」
「え……じゃああとでいく」
それだけ言って姫は扉を閉めて、服を着替える。王家の仕来りで、王家に生れた者はその性別に関係なく五歳から武術を嗜むことになっている。姫は弓術を嗜んでいるのだが、如何せん姫は武術を気に入っておらず、稽古をよく逃げ出す。
稽古着ではなく普段着を着て、姫は部屋を出る。きょろきょろと辺りを見回しながら、城を出た。先日世話係に教えてもらった隠し扉から城の外へ出て、森へ向かう。
森の奥へ進むにつれ、音は大きくなる。以前森に迷ったときに聴いた音と同じ音色だ。ユウロは大きく息を吸って、コウタの名前を叫んだ。するとピタリと音がやむ。しばらくしてコウタの姿が遠くに見えた。
「コータっ」
「姫君、どうかしたんですか? また迷子なら、外までお連れしますよ」
「ヒメじゃないよっ。ユウは、ユウロ! おうち、でてきたの。けいこ、きらいなんだぁ」
「稽古? 今どきの姫君は武術でも嗜むんですかねぇ。まぁいいでしょう、今日はなにをしますか?」
「えっとねぇ〜」
その日から、ユウロは数日に一度だけ稽古を逃げ出して森へきた。コウタの横でただひたすらゆったりとした音色を聴く。それがユウロの唯一といっていい楽しい時間だった。
しかし、夢は唐突に終わりを告げるもの。ある夜、窓を叩く音にユウロは目を覚ました。ユウロの部屋は大きく、ベッドからベランダまでの距離だけでもユウロの短い足ではかなりの距離となる。
カーテンを開くと、そこには片膝をついて頭を下げるコウタがいた。
「コータ、どうしたの?」
「今日は姫君にお別れを言いに来たのですよ」
そう言って、コウタは切なそうに笑んだ。ユウロの瞳に、一瞬で涙が溜まる。
「な、なんでっ。だってコータ、ユウと一緒にいっつも遊んでくれたのに……っ」
「ええ。でも僕は、そろそろ行かなくちゃならないんです。もっと姫君と遊んでいたいところですが、ね」
そう言って、コウタは胡弓のケースから小さな玩具を取り出した。それはコウタが持っている胡弓をとても小さくしたようなレプリカ以下の楽器だ。音が鳴るかどうかすら、定かではない。
「これを、姫君に差し上げます。綺麗な音は出ませんが、よろしければお使いください」
では、と言って立ち上がり、コウタは塀から塀を伝い、屋根から屋根へ飛び移りながらユウロの目の前から消えた。
翌朝、ユウロは世話係にベランダを開いてもらい、玩具を拾う。それをユウロは、枕元に置いて眠った。思い出すのは、胡弓を弾きながら恥ずかしそうに歌を詠む詩人の姿。
もう、十年以上前の話だ。