いのちかれ
冬の終わりを告げる雨のにおいがしたのに僕はまだ秋の夜長に現を抜かしていた。死ねよと。人間だれしも一日に一度は考える、その死に様を。やってらんないよ、午後五時。枯葉散るその様をまざまざと見せつけられると僕のこの命の終わりも見えてくる。儚さに泣けてくる。ふわふわと三回転ひねりする秋の体操選手は夏の時はしっかりと枝にしがみついてた赤ちゃんみたいに。そのしっとり赤ちゃん肌はもうカサカサのおばあちゃん肌で、コンクリートに擦り付けられていた。その真っ赤になった枯葉を一枚拾う。しゃがみ込む。よっこらせ。まだ二十歳なのに僕の膝は破裂音。どこか折れたかのようになるけど、一瞬の痛みのみで通常運転に戻る。枯葉の葉脈は縦横無尽に伸びているが、僕の手のひらの生命線と同じように途中で途切れ、穴があいていた。ぽっかりとあいた穴。その穴から小雨降り出す東京のビル群を眺めてみる。灰色のベールを着込んだ東京の空は詩に書けの詩歌の冥福を祈るんだ。淀んだ雲は厚く空を包み込み、その蒼さと太陽を隠しきる。淵からこぼれだす雨たちは冬の寒さを身にまとい、戸惑う僕を凍えさせる。僕が吐く息は空より白い。綿あめに水をかけると溶けてなくなるように僕の吐く息は空気に出ると、端から徐々に消えていく。あゝ勿体ないな。そこにも顔を覗かせる、僕の命。
秋に学が他界した。何でもない事故死だ。去年の話。二トントラックがオートバイにのっていた学に突っ込んだ。バイクが好きで土日には点検を怠らない学が、青信号をわたろうとした瞬間だった。いつも新品の光を放っていた青のオートバイは主人と一緒に粉々になった。遺体をみたが一体どれが学なんだろう。僕はその肉片と対面をしたときにそう感じた。安置室はやけに薄暗く、光と影の交じり合う部分が部屋を包んでいた。そこには僕と学の立ち位置を感じた。胸が苦しいが思考は至って冷静だった。これがきれいな遺体ならそうもいかないだろう。あきらめの感覚が僕を完全に支配していた。ああ、学は逝ってしまったのだと。それは中学生のときに母親にねだって駄々をこねた時のような感覚だった。当時はやっていたファービー人形を親友の竹ちゃんが持っていた。それをみて、あれが欲しいと言いながらもどこか買ってはくれないのだろうと冷静に考えている、俯瞰している自分がいる。そんな気分だった。葬儀など手早く淡々と滞りなく済ませた。おやじとおふくろは泣いていた。腹を痛め、さんざん苦労したおふくろは感情も含め、子宮のどこかで学を悼んでいた。しかし、僕は泣かなかった。泣いても仕方がなかった。あの安置室が涙を抑えていた。あの境目はどうしても僕には感情的に越えられるものではなかった。あっけなさ、といえばいいだろう。空虚さともいえばいい。しかし、使い古した言葉ではどうにもならない気がした。学は言葉の届かない世界へと旅立ち、僕の思考外のものへと変貌してしまった。現在の学は過去の学そのもので停滞し、その停滞は僕の思考まで影響を及ぼす。時は過ぎるのに学は過去のまま変化しない。何故か。安置室にずっと眠っているから。それはつまり学はそこで人間としてほとんど完成してしまったということだ。もう動かない。何か言ってくれ、頼むから。問いかけは肉片の中に染み渡る。
去年の秋からまだ冬は来ていない。僕の停滞は僕自身を完成させようとする。乾燥肌の僕は関東の冬を感じ取っているが、僕にはまだ秋だ。去年の秋だ。僕の完成は近づく。灰色の空、紅い枯葉、雨あがる。鼻から吸う空気は鼻の頭をつんとさせるほど冷たく、匂いはない。冷たさが僕を包み込む。真っ黒のダウンジャケットに手を突っ込むと自給自足の暖かさ。僕の発しているこの熱エネルギーもどこかの命の完成によって昇華されたものだ。
ああ、近づいてきた。高鳴る鼓動は熱を発し、またもや僕をせつくのだ。そろそろ時間だ。時間、時間などない。あるのは停滞と完成だけだ。
二トントラックは今日も悪者だ。