リスタート~中途半端な事務員の私がモヤモヤしていたこと
退職届を出した日の朝、課長は私の机の横で笑った。
「結婚したから辞めるんでしょ。女の子はいいよな。辞める理由がきれいで」
総務課の誰も顔を上げなかった。
コピー機がいつもよりうるさい気がする。
私は机の引き出しに残っていたクリップを一つずつ小箱に入れながら「そうですね」と答えた。
反論しようと思えばできた。
そもそも私は結婚するから辞めるのではない。
三年前に業務改善の提案書を出したとき、課長が「事務員は事務だけやっていればいい」と破り捨てたこと。
残業を減らす仕組みを作ったにもかかわらず、その成果を横取りされたこと。
そういったことが積もり積もっての退職なので、直接の原因は会社への失望と諦めである。
しかし、それをわざわざ言うこともない。
だって無意味だから。
私の言葉を真正面から受け止めてくれる会社なら、辞めることもなかった。
私は高瀬理沙、二十九歳。
従業員百二十人ほどの建設会社で、七年間、総務と経理の間にある、名前のつかない仕事をしてきた。
名前のつかない仕事とは、誰の目にも止まらないもの。
請求書の金額が合っているか確かめたり、入金の遅れを先方に角が立たないよう連絡を入れたり、現場ごとに違う書式を、あとで誰でも分かるようにそろえたり、出張中の営業が困らないよう、朝一番に必要な数字を送ったり……。
誰かが困らないように先回りして片づける仕事は、印象に残らないため過小評価される。
例えば、怪獣と戦うヒーローは世間で持て囃されるけれど、怪獣の卵を潰して回る駆除業者のことは誰も気に留めない。
その顔も名前も、誰も覚えていない。
「きれいじゃないよ」
誰にも聞かれないよう声に出してみる。
いったい、この虚しさは何だろう。
思わずため息が出る。
「……はぁ」
婚約者の直人は、そんな私の悩みを「理沙らしい」と言った。
そんな理沙だから好きだと言ってくれた。
「理沙みたいな人こそ、案外組織のキーパーソンだったりするんだよね」
彼の言葉を聞くたび、私は少し救われた気持ちになった。でもそれはこの会社に居続ける理由にはならなかった。
退職を決意したのは、地元の小さな設計事務所からバックオフィスを整える仕事を手伝ってほしいと声をかけられたからだ。週四日、時間を自分で決められる。給与は少し下がる。それでも、提案を提案として読んでもらえる場所らしかった。
最終出社日は金曜日だった。
午前十時を過ぎたころ、営業部の空気が急に騒がしくなった。
「東央建設の支払い、止まったって」
「なんで? 先月の請求、もう検収通ってるだろ」
東央建設は、うちにとって一番大きな取引先だった。駅前再開発の設備工事を請け負っている。今月の入金が止まれば、協力会社への支払いにも影響が出る。
課長が私の席の前を通り過ぎた。
「高瀬さん、悪いけど、東央の請求関係を全部出して。急ぎで」
私は一瞬だけ、彼の顔を見た。
今日で最後なのに……この人、最後まで私をこき使うつもりだ。
大人げなく、ちょっとだけムッとしてしまう。
「……わかりました」
私はサーバーを開いた。
東央建設のフォルダには、請求書、検収書、出来高報告、変更見積、メールの控えがある。私は普段から、案件ごとに日付と担当者と根拠をひもづけていた。几帳面だからではない。急に聞かれたとき、誰かが私を探さなくて済むように。
数字を追っていくうちに、ひとつだけ妙な行が目に留まった。
六月分の出来高報告には、空調設備の追加工事が計上されている。けれど、請求書にはその分がない。逆に、七月分の請求書には、六月の追加工事と同じ金額に近い「現場調整費」が入っていた。
金額は二百四十万円。
私が作った照合表では、黄色に色が変わるよう設定していた。だが、その表を日常的に開くのは、私だけだった。
「課長」
私は声をかけた。
「六月の追加工事について、発注書が見当たりません。七月の現場調整費に振り替わっていますが、根拠のメールがありません」
「細かいことは後でいいから、払ってもらうための資料を出して」
「細かいことではないと思います」
課長は初めて、私をまっすぐ見た。
「今、それを言ってる場合か?」
「今だからです。東央さんが止めた理由が、そこかもしれません」
沈黙が落ちた。
隣の席の後輩、佐伯くんが小さく息をのんだ。彼は入社二年目で、私が作った手順書を唯一、最後まで読んでくれた人だった。
「高瀬さんの照合表、見せてもらえますか」
私が画面を向けると、佐伯くんは色のついた行を一つずつ読んだ。
「追加工事の見積、営業の共有フォルダにはあります。でも、承認の返信がない」
課長の顔から、少しだけ色が消えた。
営業部長が会議室から出てきて事情を聞いた。私は画面を印刷し、時系列に並べた。追加工事の依頼、見積送付、現場での作業開始、六月の出来高報告、そして根拠のない振替。
十一時半、東央建設の経理担当から電話が入った。
「高瀬さん、いらっしゃいますか」
課長が受話器を取ろうとしたが、部長が手で制した。
「高瀬さん、お願いします」
私は電話を受けた。
「お世話になっております。高瀬です」
先方の声は、静かだった。
「御社の七月請求について確認です。現場調整費の内容を伺えますか。六月の追加工事と重複しているように見えるのですが」
「確認中です。現時点で、承認書類が不足している可能性があります。本日中に、事実関係と修正案をご提示します」
隣で課長が何か言おうとした。けれど、私は続けた。
「もし御社の帳票に誤りがあるという意味でしたら、それも含めて、こちらで責任を持って確認します」
電話を切ったあと、部長は低い声で言った。
「高瀬さん、午後、東央へ一緒に行ってくれるか」
最後の出社日に、私は取引先へ向かった。
*
東央建設の会議室には、経理担当の水野さんと、現場代理人の岡本さんがいた。
岡本さんは、追加工事を依頼した覚えがあると言った。
「ただ、予算枠が厳しくてね。口頭で、いったん保留にしてくれって頼んだはずなんだ」
口頭。
建設の仕事では、現場が先に動くことがある。急な変更が安全に関わることもある。だからこそ、後から書類を追いつかせる仕組みが必要だった。
私は持参した一覧を机に置いた。
「六月十四日に、追加工事の見積をお送りしています。翌十五日に現場作業が始まっています。ここまでは、双方の記録が一致しています」
岡本さんがうなずいた。
「ただし、承認がない。ですから、六月分として請求しなかったのは妥当です。問題は、七月に別の名目で請求に入ったことです」
部長が口を開いた。
「社内確認の不備です。ご迷惑をおかけしました」
私は、部長の横顔を見た。謝っているのに、どこか、まだ「取り返せる損失」として話しているように聞こえた。
「修正案があります」
私は言った。
「現場調整費は一度取り下げます。追加工事については、岡本様に実施内容をご確認いただき、必要性と金額をあらためて協議させてください。もし不要と判断された部分があるなら、こちらで負担します。今後は、口頭依頼を含めて、二十四時間以内に双方へ確認メールを送る運用に変えます」
水野さんは、少し驚いたように私を見た。
「それを、今日中に文書でいただけますか」
「はい」
「でしたら、他の請求分は処理を進めます。こちらも現場の確認が遅れていました。追加工事については、金額を正しく決めましょう」
会議室を出たとき、私はようやく息を吐いた。
会社を救った、とは思わなかった。
ただ、見ないことにされかけた数字を、見える場所に置いただけだ。
*
会社に戻ると、課長が私の机の横に立っていた。
「高瀬さん」
今度は、少しだけ言葉を探していた。
「あの照合表、いつから使ってたんだ」
「二年前からです」
「……誰かに共有してた?」
「佐伯さんと、経理の森さんには」
「俺には?」
「共有フォルダに置いてあります」
意地悪で言ったわけではない。本当のことだった。
課長は、何も言えなかった。
午後四時、社長から呼ばれた。
社長室の窓から、遠くの現場のクレーンが見えた。子どものころ、父に連れられて見上げたものと同じように、大きくて、ゆっくり動いていた。
「高瀬君」
社長は、私の退職届を机の上に置いた。
「今日の件、聞いたよ。どうしても、残ってくれないか」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が少し痛んだ。
欲しかった言葉ではあった。けれど、今日の出来事がなければ、たぶん言われなかった言葉でもある。
「ありがとうございます」
私は一度、深く頭を下げた。
「でも、もう決めたことですので」
社長は目を細めた。
「待遇に不満があるなら、条件の話をしてもいい」
「……」
私はただ黙って、用意していた封筒を差し出した。
「これは?」
「引継ぎです」
「私への?」
「いいえ。会社への、です」
請求照合の手順、確認メールのひな形、担当が不在でも回るフォルダの作り方。蛇足と思いながらも、最後のページにこう書き加えた。
『仕事は、誰が休んでも困らない仕組みで回るべきである』
「建設業は、属人的なスキルに依存した業務の多い業界です。でも、だからこそ標準化した時のメリットは大きいと思います。この7年間で、そういった提案も色々としてきたつもりですが」
「そうだね」
「でも結局、なにも変わりませんでした。できたことと言えば身の回りの、事務関係の改善だけです」
「十分じゃないか。何に不満があるのかね」
「このままでは、この業界はいつまでたっても楽になりません。職員の残業時間は一向に減らず、残業規制だけが厳しくなって、残業代の出ない残業が増えている。そして、上長はその状態を是正するでもなく、ただただ黙認している。私の見る限り、それがこの会社の実態です」
社長は頷くこともせず、しばらく黙っていた。
「私は試したいんです。自分の考えが正しいのか、間違っているのか。知りたいんです。自分に力があるのか。本当に必要とされているのか。そして、それが試せる場所で仕事をしてみたいと思ったんです」
ふと声に出した想いに、自分自身が一番驚いていた。
私はこの転職をそんな風に考えていたのかと、どこか他人事のような感想を抱く。
社長は封筒を手にしたまま、どこか遠くを見ているようだった。
「これは、変なことを聞くかもしれないけどね。高瀬君は社長になりたいと思ったことがあるかね」
「……ありません」
「なぜ?」
話の中身が見えず、困惑した表情を浮かべてしまう。
「必要性を感じなかったからです」
そう答えた時、私はふと、社長はなぜ社長になったのだろうと不思議に思った。
「社長はなぜ、社長になられたんですか?」
「そう聞かれると恥ずかしいのだけどね。若いころ、私も会社に思うところがあって、それを変えたかったからなんだよ」
社長になってもままならない、と言いながら苦笑いしているその人の顔をまじまじと見てしまった。
「でも、私に後悔はない。何事もやってみなくちゃわからないからね。君も頑張りなさい」
それが社長から私へ、送る言葉だった。
*
会社を出ると、直人からメッセージが届いていた。
『おつかれさま。駅で待ってる。今日は、理沙の好きな餃子にしよう』
私は画面を見ながら、少しだけ立ち止まった。
そして振り返って、会社の窓を見た。
明日からあの机には別の人が座る。
私が作った照合表が使われるかどうかはわからない。課長が変わるかどうかもわからない。
それでも、私はもう、そこに残るために自分を小さくしなくていい。
夕暮れのなか、駅の改札前に直人がいた。
「おつかれ」
いつもの声で言って、私の大きな紙袋を受け取る。
「終わった?」
「終わったよ」
私は答えた。
そして、少し考えてから付け加えた。
「でも、これから始まるところ」
直人は笑った。
「それなら、乾杯しよう」
改札の向こうには、まだ知らない仕事が待っている。
私は直人の手を握った。
誰かに用意された道ではなく、自分で選んだ道を進むために。




