第三話:不穏な幸福
みゆきが娼館を石像に変え、人々を人形へと変え始めたあの日から、神・日本は急速にその姿を変え始めた。最初は、一部の地域で奇妙な「芸術作品」が突如として現れた、という噂話に過ぎなかった。
街角に立つ石の彫刻、公園のベンチに座る精巧な木の人形、子供たちが抱きしめる動物のぬいぐるみが、まるで生きているかのように、しかし、不自然なほど静かに存在している。
それらの「人形」たちは、皆、共通して穏やかな笑みを浮かべていた。争いも、悲しみも、苦しみもない、完璧な幸福を体現しているかのように。そして、彼らと接する周囲の人々もまた、以前にも増して穏やかで、争いを知らないかのように振る舞い始めた。
吉本家の面々は、この異変にいち早く気づき始めていた。
最初に違和感を覚えたのは、宗介だった。治安管理局長として、彼は神・日本のあらゆる情報に精通している。ここ数日、犯罪件数が異常なまでに減少していることに、彼は首を傾げていた。喧嘩も、盗難も、些細な口論すらも、まるでなくなったかのように。
「宗介、最近、街がやけに静かですね」
宗介の執務室を訪れた拓郎が、コーヒーを片手に言った。彼の顔にも、どこか困惑の色が浮かんでいる。
「ああ、拓郎。あなたもそう感じるますか。犯罪件数はゼロに近く、苦情もほとんどない。まるで、全ての人々が聖人のように穏やかになったようだ」
「それは素晴らしいことでは?」
「普通ならね。でも、人間というものは、そんなに完璧な生き物ではない。どんなに平和な時代でも、些細な不満や、感情の衝突は必ず起こるものだ。この不自然なまでの『平和』は、むしろ不気味だ」
拓郎は、宗介の言葉に頷いた。彼もまた、科学者としての直感が、この「完璧すぎる平和」の裏に潜む何かを告げていた。神・日本の魔法エネルギーの数値にも、微細ながら以前には見られなかった異常な変動が観測されていたのだ。それは、まるで巨大な魔法が、常に世界に作用し続けているかのような、奇妙な波形を描いていた。
一方、吉本屋敷でも、四葉が庭で花の手入れをしながら、眉をひそめていた。
「どうしたの、四葉?」
ベルーシャが声をかけると、四葉は困ったように微笑んだ。
「なんだか、街の空気が変わったような気がして。皆、とても幸せそうに見えるんだけど、どこか……空っぽな感じがするの」
ベルーシャもまた、四葉の言葉に共感していた。彼女は最近、街で出会う人々の瞳の奥に、以前のような「生きた光」がないことに気づいていた。まるで、感情の起伏が失われた人形のような、虚ろな輝き。特に、以前は感情豊かだったはずの知人が、まるで別人のように穏やかで、しかし、どこか無機質な表情を浮かべているのを見た時、ベルーシャの胸には得体の知れない不安が広がった。
「ええ、私もそう感じるわ。まるで、皆が同じ夢を見ているみたいに……」
そして、吉本結衣は、自身の「概念定義」の魔法で、世界の「概念」そのものに微細な歪みが生じていることを感じ取っていた。人々の「感情」という概念が、まるで誰かに上書きされたかのように、一様に「幸福」に偏っている。それは、彼女の魔法が感知する、世界の根源的な法則に対する、明確な介入の証拠だった。
アルファは、まだ幼いながらも、本能的にその異変を察知していた。彼女は、時折、街を歩く人々の背後に、薄い糸のようなものが伸び、それがどこか遠くへと繋がっているように見えることがあった。そして、その糸の先に、いつもみゆきの姿がぼんやりと浮かび上がるのだった。
吉本家の面々は、それぞれの方法で、この不穏な「幸福」の裏に潜む真実に、少しずつ近づいていく。そして、その中心に、最も愛する家族の一人、吉本みゆきがいることを、まだ誰も知る由もなかった。




