第10話:桜並木の記憶
春、千代田区の桜並木は満開を迎え、淡いピンク色の花びらが風に舞い、美しい絨毯を作り出していた。たくみは、医学部の授業の合間に、四葉と連れ立って散歩に出かけた。
「わぁ、綺麗ですね! こんなにたくさんの桜、初めて見ました」
たくみが感動したように空を見上げる。桜のトンネルの下を歩く人々は皆、笑顔で、その美しさに心を奪われているようだった。
「ええ、この桜は、毎年この時期になると、多くの人々に喜びをもたらしてくれるわ」
四葉もまた、穏やかな表情で桜を見上げていた。その瞳には、遥か昔の記憶が宿っているかのようだ。
「四葉さん、この桜並木にも、何か神様が宿ってるんですか?」
たくみが尋ねると、四葉は微笑んだ。
「そうね。この桜並木には、古くから『木霊』と呼ばれる小さな精霊たちが宿っているわ。彼らは、この桜の木々と共に生き、人々の喜びや悲しみを見守ってきたの」
その時、たくみのスマホが鳴った。大学の友人、ハルカからの電話だった。
「たくみくん、今どこ? 大変なの! 私のおばあちゃんが、昔から大切にしてた桜の木が、急に枯れちゃって……」
ハルカの声は震えていた。彼女の実家は、都心から少し離れた郊外にあり、庭には樹齢数百年の大きな桜の木があったという。
「え、枯れたって……大丈夫なの?」
「それが、急に葉が落ち始めて、花も咲かなくて……。おばあちゃん、すごく落ち込んでて。この桜の木は、おじいちゃんとの思い出の木だからって」
たくみはハルカの話を聞きながら、四葉に目を向けた。四葉は、ハルカの電話の内容を察したかのように、静かに頷いた。
「四葉さん、何かできること、ありますか?」
「そうね……。枯れた木を完全に元に戻すのは難しいけれど、その木に宿る『記憶』を呼び起こすことはできるかもしれないわ」
四葉はそう言うと、たくみにハルカの家の場所を尋ねた。
翌日、たくみと四葉は、ハルカの実家へと向かった。ハルカの家の庭には、確かに大きな桜の木が立っていたが、その枝は枯れ、葉は一枚も残っていなかった。
「おばあちゃん、この木が枯れちゃってから、ずっと元気がないの……」
ハルカが悲しそうに言う。ハルカのおばあちゃんが、寂しそうに枯れた桜の木を見上げている。
「おばあちゃん、こんにちは。たくみです。四葉さんと一緒に来ました」
たくみが挨拶すると、おばあちゃんは力なく微笑んだ。
「まあ、たくみちゃん。遠いところをありがとうね。この桜はね、私が嫁いできた時から、ずっとこの家を見守ってくれてたんだよ。じいさんと、ここでよく花見をしたもんだ……」
おばあちゃんの言葉を聞きながら、四葉はそっと枯れた桜の幹に触れた。目を閉じ、静かに精神を集中させる。たくみは、彼女の背後から、微かに九つの尾の気配を感じる。
「……なるほど。この木は、ただ枯れたのではないわね。長年の間に溜まった、人々の『悲しみ』や『後悔』の念が、木の生命力を吸い取ってしまったようね」
四葉が静かに言った。
「悲しみや後悔……?」たくみが驚いた。
「ええ。この木は、多くの人々の人生を見守ってきた。喜びだけでなく、別れや、叶わなかった願い、そして、この家で起こった様々な悲しい出来事も、全てこの木が受け止めてきたのよ。それが、積もり積もって、木の力を弱めてしまったのでしょう」
四葉はそう言うと、枯れた桜の幹に両手を当てた。そして、ゆっくりと目を閉じる。彼女の掌から、淡い光が桜の木へと流れ込み始めた。それは、まるで木の魂を癒すかのように、優しく、温かい光だった。
「四葉さん、何をしてるんですか?」ハルカが尋ねた。
「この木に宿る、古い記憶を呼び起こしているのよ。そして、ネガティブな感情を、少しだけ浄化しているわ」
四葉の幻想魔法が発動し、桜の幹から、半透明の光の粒が立ち上り始めた。その光の粒は、ゆっくりと形を変え、桜の木の下で遊ぶ幼いハルカの姿、おじいちゃんと花見をするおばあちゃんの姿、そして、家族の団欒の様子など、この桜の木が見てきたであろう、様々な「喜び」の記憶を具現化していった。
「これは……私と、おじいちゃん……」
おばあちゃんの目から、涙が溢れ出した。枯れた桜の木の下で、かつての家族の笑顔が、光の映像として蘇る。
「おばあちゃん、この桜は、たくさんの幸せな思い出を見てきたんですね」たくみが優しく言った。
「ええ……ええ、そうだよ。この木は、ずっと私たち家族を見守ってくれてたんだねぇ……」
おばあちゃんは、光の映像に手を伸ばし、優しく触れた。その瞬間、枯れていた桜の幹から、微かに緑色の新芽が顔を出した。そして、その新芽は、見る見るうちに成長し、小さな蕾をつけ始めた。
「えっ?! 桜が……桜が咲いてる!」ハルカが叫んだ。
たくみも驚きを隠せない。枯れていた桜の木に、わずかながらも生命の息吹が戻ってきたのだ。
「完全に元に戻すことはできないけれど、この木に宿る『喜び』の記憶を呼び起こし、再び生命の力を与えることはできたわ」
四葉が微笑んだ。おばあちゃんは、信じられないという顔で桜の木を見上げ、やがて、その幹に抱きついた。
「ありがとう……ありがとう、桜。そして、ありがとう、四葉さん、たくみちゃん……」
おばあちゃんの目からは、喜びの涙が溢れていた。
数日後、たくみがハルカに電話をすると、興奮した声が返ってきた。
「たくみくん! すごいよ! あの桜の木、また蕾が膨らんで、少しだけど花が咲いたんだ! おばあちゃん、すごく喜んでて、毎日桜の木に話しかけてるよ!」
たくみは、その報告に安堵した。四葉の九尾の力は、ただ不思議な現象を起こすだけでなく、人々の心に寄り添い、希望を与えることができる。
屋敷に戻り、四葉にそのことを伝えると、彼女は静かに頷いた。
「ええ。木霊たちも、また喜んでいるでしょうね。人々の喜びが、彼らの力になるから」
「四葉さん、すごいですね。僕も、いつか四葉さんみたいに、人の心に寄り添える医者になりたいです」
たくみがそう言うと、四葉は優しく彼の頭を撫でた。
「あなたは、もうすでにそうなっているわ、たくみ。あなたの優しい心が、何よりも人々の心を癒す力を持っているのだから」
たくみは、四葉の言葉に温かい気持ちになった。桜並木を歩きながら、彼は改めて、この「神・日本」の世界で、四葉と共に生きることの喜びと、自分にできることの可能性を感じていた。




