第7話:古書店の誘惑
たくみが医学部の課題で、江戸時代の医療に関する資料を探していた。スマートフォンでの検索だけでは限界を感じ、四葉に相談してみる。
「四葉さん、古い医学書って、どこに行けば見つかると思います? 図書館にはあんまりなくて」
リビングで茶を淹れていた四葉は、目を細めて微笑んだ。
「そうね……。それなら、いい場所があるわ。千代田区神保町にある古書店街よ。あそこは、時間が止まったかのような場所。きっと、あなたの探しているものが見つかるはずよ」
「神保町……行ったことないんですけど、そんなにすごいんですか?」
「ええ。古き良き書物が、数多眠っている場所だわ。私も、たまに訪れるの。心が落ち着くのよ」
四葉の言葉に、たくみは興味を持った。翌日、二人は連れ立って神保町へと向かった。
神保町に足を踏み入れると、そこはまるで別世界だった。立ち並ぶ古書店からは、紙とインクの独特の香りが漂ってくる。現代の喧騒から隔絶されたかのような、静かで落ち着いた空気が流れている。
「わあ、すごいですね、ここ! 本当にタイムスリップしたみたいだ」たくみは目を輝かせた。
「でしょう? ここには、表には出てこないような、様々な時代の知識が詰まっているわ」
四葉は慣れた足取りで、奥まった路地にある一軒の古書店へと入っていく。店内は天井まで届く本棚で埋め尽くされ、埃っぽい匂いがした。
「いらっしゃい。何かお探しで?」店の奥から、白髪の老主人が顔を出した。
「ええ、少し」四葉が穏やかに答える。
たくみは医学書のコーナーへ向かい、背表紙を眺めていた。その間、四葉は店内の片隅にひっそりと置かれた、埃を被った古い木版画の巻物に目を留めた。巻物は紐で縛られ、見るからに古びている。
「四葉さん、何かありました?」
たくみが声をかけると、四葉は巻物をそっと手に取り、指で埃を払った。
「ええ。とても懐かしいものを見つけたわ。まさか、ここにまだ残っていたなんて」
巻物には、色褪せた絵と古の文字が記されていた。絵は、人々が色とりどりの衣装をまとい、奇妙な仮面をつけ、熱狂的に踊る様子を描いている。中央には、巨大な樹木のようなものが描かれ、その周りを神々しい存在が舞っているようだった。
「これ、何が描かれてるんですか? すごく古いみたいですけど」
「これはね、遠い昔、この『神・日本』という地で、神々と人間が共に祝った祭りの様子よ。今はもう失われた、古の神事……そうね、たぶん『星巡りの宴』と呼ばれていたものの一部かしら」
四葉は巻物を見つめながら、その祭りの情景を穏やかに語り始めた。
「人々は、豊穣を神々に感謝し、未来の幸福を願って、夜通し舞い踊ったの。神々もまた、その熱狂に感応し、人間と共に歌い、酔いしれたわ」
四葉の語り口は、まるでその場にいたかのように鮮やかで、たくみは目を閉じて情景を想像した。巻物に描かれた仮面の意味、踊りのステップ、そして祭りの中心にあったであろう巨大な樹木。四葉は、それら全てを記憶しているかのようだった。
「この絵、すごく躍動感がありますね。でも、本当にこんなお祭りがあったなんて、信じられないな……」
「ええ、でも確かにあったのよ。この祭りから派生して、今の七夕祭りのような行事になったとも言われているわ」
たくみは四葉の語りから、その祭りが現代に伝わるある行事の起源であることに気づき、感嘆の声を上げた。
「そうだったんですか! 神話の時代から、現代まで繋がってるんですね……」
「ええ。人々の営みは、神々の歴史と深く結びついているものよ」
四葉はそう言うと、巻物をそっと閉じ、老主人に声をかけた。たくみは自分の医学書を探し終えると、四葉と老主人の会話が聞こえてきた。
「この巻物は、もうだいぶ古いものですから、よろしければ差し上げましょう」老主人が言った。
「いえ、結構ですわ。ただ拝見できただけで、十分です。古いものは、古きまま、そこに眠っているのが一番でしょうから」四葉は優しく断った。
店を出ると、外の空気は一瞬、異世界から帰ってきたかのように感じられた。
「四葉さん、あの巻物、買わないんですか? あんなに珍しいのに」
たくみが尋ねた。
「いいのよ。あの巻物は、あの場所で、その存在を知らせてくれるだけで十分。私が持っている記憶とは、また別の形だから」
屋敷に戻ると、たくみは四葉に頼んだ。
「四葉さん、さっきの『星巡りの宴』、僕、もっと見てみたいです! どんな踊りで、どんな音楽だったのか……九尾の力で、屋敷の中で再現してもらえませんか?」
四葉は少し思案し、微笑んだ。
「そうね、たまには良いかもしれないわ。ただし、完全に再現できるかは分からないわよ」
四葉は屋敷の広間へ移動すると、静かに目を閉じた。そして、ゆっくりと腕を広げる。幻想魔法が発動し、広間の空間が揺らぎ始めた。淡い光が満ちていき、やがて、広間の壁には、巻物で見たような華やかな仮面をつけた人々が、光の残像として浮かび上がる。古の音楽が、どこからともなく聞こえてくる。それは、優雅で、しかしどこか野生的なリズムだった。
たくみは、その幻想的な光景に息を呑んだ。光の残像は、まるで本当に踊っているかのように、しなやかに舞い、神々しい存在がその周りを浮遊する。それは、四葉が九尾の膨大な記憶に触れることで具現化された、太古の祭りの姿だった。
「うわぁ……! これが、千年前の祭り……」
たくみは、その壮大な光景に魅入られた。四葉は、彼が純粋に喜ぶ姿を見て、満足そうに微笑んでいる。
数分後、幻想はゆっくりと消え去った。広間には、再び静寂が戻る。しかし、たくみの心には、古の祭りの熱狂が、確かに刻み込まれていた。
「四葉さん、ありがとうございました。本当にすごかった……。あの巻物もすごいけど、四葉さんが持ってる知識と力は、もっとすごいですね」
「ふふ、喜んでくれたなら、私も嬉しいわ」
四葉はそう言って、たくみの手を取った。たくみは、四葉の持つ遠い記憶が、現代に生きる自分に、これほどまでに豊かな経験を与えてくれることに、改めて感謝した。そして、この「神・日本」の歴史の深さと、その歴史を肌で感じられる四葉という存在の尊さを、改めて胸に刻んだのだった。




