第3話:定食屋の秘密の客
たくみが医学部の授業を終え、いつものように大学近くの定食屋「幸来亭」に立ち寄った。カウンター席に座り、定番の生姜焼き定食を待っていると、女将さんが顔を出す。
「あら、たくみちゃん、今日も学校帰りかい? 頑張ってるねぇ」
「はい、おかげさまで。女将さんこそ、いつもお元気そうで」
「そりゃあね、最近ね、面白いお客さんがいるんだよ」
女将さんはにこやかに、しかし少しだけひそひそ声で話し始めた。
「うちの店にね、夜遅くになると、いつも決まった席に座る方がいるんだけどさ。あんまりおしゃべりじゃないんだけど、ねぎとろ丼をそれはもう美味しそうに食べるんだよ」
「へえ、どんな方なんですか?」
「それがね、どこかぼんやりしてて、見た目は普通なんだけど、どうも世間ずれしてるっていうか……。昔の人間って感じかねぇ。でも、妙に懐かしい感じがするんだよ」
たくみは心の中で「ああ、きっと神様だ」と確信した。四葉との生活を通じて、神々が人間に化けて市井に紛れていることは、もはや日常風景の一部となっていた。
「きっと、よっぽど美味しいんでしょうね、女将さんのねぎとろ丼が」
たくみが笑って言うと、女将さんは嬉しそうに頷いた。
数日後の夜。たくみが四葉に頼まれて買い物に出た帰り、幸来亭の前を通りかかると、店内のカウンター席にその「秘密の客」が座っているのが見えた。やはり、どこか浮世離れした雰囲気を持つ、中年の男性だ。たくみは一度家に戻り、四葉に報告した。
「四葉さん、女将さんが話してた定食屋の常連客、やっぱり神様でしたよ。なんだか、すごく疲れてるみたいに見えましたけど……神様も疲れることってあるんですか?」
四葉は、淹れたての緑茶をたくみに差し出しながら答えた。
「ええ、もちろんあるわ。特に、あまり人間と関わってこなかった神様は、現代社会の情報の奔流や、人間の持つ複雑な感情に触れると、心労を覚えることもあるわね」
「そうなんですか……。あの神様、なんだか顔色が悪そうでしたけど、大丈夫かな」
たくみは少し心配そうに呟いた。医学を学ぶ者として、目の前で体調の悪そうな存在を見過ごすことはできない。たとえそれが神であっても。
「大丈夫よ、きっと。でも、あなたが気にするのは、とてもあなたらしいわね」
四葉が優しく言った。
翌日。たくみが大学から戻ると、四葉が珍しく浮かない顔で庭を眺めていた。
「どうしたんですか、四葉さん?」
「それがね、あの定食屋の神様が、少し弱っているのを感じるのよ。どうやら、人間の風邪のようなものにかかってしまったみたい」
「え、神様が風邪?!」
たくみは驚きの声を上げた。神が病気になるなど、想像もしていなかった。
「ええ。神々は本来、人とは異なる存在だから、人間の病に直接冒されることはないわ。でも、深く人間に溶け込みすぎると、感情や体調が引きずられてしまうことがあるの。彼は人間社会に好奇心旺盛だったから……」
「それは大変だ! 僕、何かできることないかな? 医学部生として」
たくみはすぐに立ち上がった。四葉は少し考えて、微笑んだ。
「そうね……。あなたのその優しい気持ちが、一番の薬になるかもしれないわ。九尾の力で彼を探してみましょう」
四葉は目を閉じ、静かに精神を集中させた。たくみは、彼女の背後から、微かに九つの尾の気配を感じる。九尾の力で神霊の居場所を探るのは、彼女にとって造作もないことだった。
「見つけたわ。幸来亭の裏手にある、小さな公園のベンチにいる」
四葉の言葉に、たくみはすぐに幸来亭へと向かった。公園のベンチには、例の神様が一人、項垂れて座っていた。顔色は青白く、額にはうっすらと汗がにじんでいる。
「あの、大丈夫ですか?」
たくみが声をかけると、神様はゆっくりと顔を上げた。その目は、どこか怯えているようにも見えた。
「……誰だ、貴様」
声もかすれている。
「僕、神宮寺たくみです。四葉さんの夫で……。女将さんから、あなたが調子悪いって聞いて」
たくみは持参したペットボトルのお茶と、自宅にあった冷えピタを差し出した。
「神様でも、人間みたいに風邪ひいちゃうなんて、大変ですね。これ、よかったら使ってください。お茶もどうぞ」
神様は訝しげにたくみを見たが、冷えピタのひんやりとした感触に少しだけ表情を緩めた。
「……人間が、我にこのようなものをくれるのか」
「はい。困ってる人がいたら、助けるのは当たり前ですから」
「……不思議なことを言う。お前たちは、我らを敬うことはあっても、助けようとはしないものだと思っていた」
神様はゆっくりとお茶を一口飲んだ。その様子を見て、たくみは続けた。
「四葉さんが言ってました。神様も人間と深く関わると、人間と同じような気持ちになることがあるって。だから、きっと風邪も、神様が人間を理解しようと頑張ってる証拠ですよ」
たくみの言葉に、神様は目を見開いた。
「……その女は、我の根源を識っているのか?」
たくみは正直に頷いた。
「ええ、四葉さんは、あなたの本当の姿も、九尾の狐を宿す存在として、僕の想像をはるかに超える深い知識と力を持っています。だからこそ、あなたのような神様が、なぜこのような体調になるのか、その理由も分かると。でも、彼女は直接治すことはしないんです。あくまで、人間である僕が、人間らしくあなたに接することが大切だと」
神様はたくみの言葉に耳を傾け、やがてふっと小さな笑みを浮かべた。
「……なるほど。あの女が選んだ夫は、面白い男だな」
そう言って、神様は冷えピタを額に貼り、ゆっくりと目を閉じた。
「……少し、楽になった。礼を言う、神宮寺たくみ」
翌日、たくみが幸来亭を訪れると、カウンター席にはいつものように、例の神様が座っていた。顔色もすっかり良くなり、美味しそうにねぎとろ丼をかきこんでいる。
「たくみちゃん、昨日はありがとうね。あの常連さん、今日はもうすっかり元気でさ。なんだか、機嫌も良いみたいだよ」
女将さんが嬉しそうに話す。たくみはちらりと神様の方を見た。神様はたくみに気づくと、小さく、しかし明確に頷いて見せた。たくみは、その仕草に温かい気持ちになった。神々が日常に存在し、人間と交流しているこの世界で、自分の医学知識が、そして何より人間としての優しさが、神にまで役立つことがある。その事実に、たくみは改めてこの世界と、そして四葉との生活に深い喜びを感じるのだった。




