チェイス オブ テムズ・タイドウェイ・トンネル part1
「ハア、ハア、ハア」
畜生、息が切れやがる。
立ち止まって落ち着いて
深呼吸の一つもしたいところだが、
背後から迫る気配はそんな余裕を
与えちゃあくれねえ。
おまけにこの匂い!
逃げ道に下水道を選択した
俺のカンは悪くねえと思ったんだが、
ロンドン中の汚物と排水が
集まるだけあって、
腐敗臭とアンモニア臭が混じった
この絶望的な臭さは
俺の予想をはるかに超えていて
肺の中から腐っていく気がするぜ。
くそったれ、せっかくあつらえた
服も靴も台無しじゃねえか!
クソ高かったのに、勘弁してくれよ!
一から全部買い直すか、いや
洗濯屋のチャンに何とかさせるか。
まあ、どっちにせよ生き延びられたら、
って話が先だがな。
ヴィクトリア女王が死んじまって
すっかり沈んでたこの街だけど、
やっとこさ景気も良くなって
これからが稼ぎどきだってのに
こんな所でくたばってたまるかよ!
ん?
「おまえは誰で、これは一体何の話なんだ?」だと?
おお、いけねえ。
自己紹介を忘れていたな。
この物語を読んでいる
物好きなアンタ。
はじめまして。
俺の名前はジャック、
ジャック・レスター。
通称「二丁拳銃」のジャックだ。
他にも
「情け無用」や
「ギャング殺し」、
「恐れ知らず」だの
好き勝手に呼ばれちゃあいるが
「悪名は無名に勝る」ってな、
この商売には大事なんだよ。
そう、俺は飛ぶ鳥も落とす勢いの
暗黒街の若きギャングスター。
腕利きの連中だけで作った
俺のファミリーの前じゃあ
ロンドン警視庁も
組織だけはでかい古株のギャングも
まったく目じゃないぜ。
おっと、荒事だけじゃあないぜ?
艶やかな長い黒髪に濃灰色の瞳、
身長は6フィート(約180センチ)。
分かりやすく言うと女どもが
うっとりした目で見上げる
高身長の色男ってやつだ。
着てるもんだって、超一流さ。
遥かアジアのシャム王国特産の
シルクで仕立てたピカピカのスーツに
エキゾチックなペイズリー柄のシャツ、
靴だって最高級のクロコダイル皮の逸品だ。
夜の街を俺が子分を引き連れ歩けば
男も女も振り返るってワケだ。
年齢?うーん、色々あって、
正確な年齢はわからねえんだよ。
多分、二十歳は超えてねえはずだ。
生まれはアイルランドのダブリン、
古い港町の……路地裏さ。
それが今じゃあ、新世紀ーー
二十世紀の到来に沸く
この大英帝国の栄光の都、
ロンドンが俺の住処だ。
ここはまさに世界の中心だぜ。
だがな、見た目はご立派なこの街も、
ひと皮めくれば血に飢えた動物みたいな
狡猾で物騒で野蛮な連中が
お人好しの獲物を探して
舌なめずりしてやがる。
まあでも、心配は無用さ。
そこらの路地裏で不良に絡まれたら
俺の名前を出してみな。
恐れおののき、とびっきりの
愛想笑いを浮かべて道を開けるさ。
俺にはデカい夢があるんだ。
邪魔な年寄り連中のケツを蹴飛ばして
ロンドン、いやイギリスの裏社会を
全部この手に握るのさ。
これだけは必ず実現させるし、
その為ならどんなことだってやってやる。
……え?なに?
そんな売り出し中のギャングが
こんな場所ー異臭漂う下水道を
逃げ回って何をしてるって?
そう!そこなんだよ!!!
元はといやあ、いつものように
他のギャングのアジトを襲撃して、
連中の集金を巻き上げて
ついでにナワバリをいただくだけの
簡単な仕事だったはずが
何でこんなことになっちまったのか、
俺にも訳が分かんねえんだよ!
あのよく肥った豚みてえな敵のボスに
俺の自慢の二丁拳銃ーー
ウェブリー・リボルバーを
目にもとまらぬ速さで
全弾食らわせた時には
別注のグリップにまたもや
髑髏の刻印が追加されたと思ったんだがな。
あの野郎、死なねえんだよ。
それどころか豚だか猪だか、何だか
よくわかんねえ化け物になって、
俺の部下をみんな喰って、
襲い掛かってきやがった!
まあ、と言う訳で俺は食い意地の張った
豚の追跡を振り切るために、
この匂いなら豚の鼻も効かねえだろうって
この下水道『テムズ・タイドウェイ・トンネル』に
逃げ込んだって訳だ。
だが、あの野郎、言葉にならねえ
奇妙な叫び声をあげながら
ずっとついてきやがるし、
とっととまいて消えねえとな。
こんな事もあろうかと、普段から
複数の逃走ルートは頭に入れてあるのさ。
この先を曲がればもう少しでーー
おい、おいおいおい!!
ウソだろ!
行き止まりになってるじゃねえか!
やべえ、豚の声が近づいてきた!!
もうあの角のすぐそばまで来てやがる!
どーすんだよこれ!