ダークサイド・パラダイス〜シルバーゴースト part1
ウォルズリー城の夜空に、薄い霧がたなびいている。
静寂の中、城の一部が不意に低い機械音を立てながら動き始めた。厚い石造りの壁の一角がゆっくりと開き、隠された巨大な扉がその姿を現した。錆びた金属の軋む音が闇の中に響き渡る。
扉の奥から銀の稲妻のように輝く車体が、漆黒の夜を切り裂くように現れた。月光を浴びてまるで動く彫刻のようだが、次の瞬間、エンジンがまるで肉食獣の咆哮の様に低く唸りを上げ、息を吹き返したかのようにその巨体が目覚める。
ハンドルを握るジャックは、興奮を押し隠せない様子でつぶやいた。
「凄えな、これが噂の車か…!」
アクセルを踏み込むと、車はまるで待ちきれないかのように大きく震えた。
「ハハッ!こいつはたまらねえや!」
驚きと興奮が交じり合った声を上げるジャックとは対照的に、後部座席のハワードの隣に座るノーラが冷静に突っ込んだ。
「もう少し慎重に扱いなさいよ、ジャック!あんた本当に運転したことがあるの?」
ノーラの鋭い声が夜気を裂くが、ジャックは笑って「白猫のねーさん、心配するなって!」と気楽な返事を返す。次の瞬間、車は暗闇の中へ向けて急加速を始めた。
月光が道路を薄ぼんやりと照らす中、シルバーゴーストはその銀色の軌跡を刻む。粗野な運転に、ノーラの眉間のシワが何度も険しくなる。
「まったく……」
「ノーラ」
ウォルズリーの城を離れてから初めて、ハワードが口を開いた。
「ミネルヴァは、何と言っていたんだ?」
「あの子もずいぶん混乱していたの。とにかく『たいへんだ、たいへんだ。血が流れる、たくさんの、たくさんの血が流れるー』ってそればかりを繰り返していたのよ」
「で、姉さんよ、場所は間違いなんだよなー?」
「ええ。シティの東側、テムズ川の北岸ーーイーストエンド。スラム街の今は使われていない教会よ」
チッ。
舌打ちと共に、ジャックの口調が幾分か重くなった。
「なあ、それってアレじゃねえのか」
「そうだ、ジャック。おまえがあの怪物に殺されかけた場所であり、『切り裂きジャック』の反抗現場の近くだ」
あくまで冷静なハワードの言葉に、ジャックが悪態をつく。
「ふん、嫌なことを思い出させやがるぜ」
車は深夜の静まり返ったロンドン市内をテムズ川沿いに進んでゆく。イーストエンド地区に近づくにつれて一層霧が深くなり、不気味な静けさが増していくように思えた。
「おかしいぜ……」
ハンドルを握るジャックがポツリとつぶやいた。
「何がだ?」
「静かすぎるんだ。街から人影が消えていやがる」
「あんた何言ってんのよ、深夜だからウチに帰って寝てるんじゃないの?」
「姉さん。この辺りのことは俺もよーく知っている。スラムに住んでる連中のほとんどに、家なんかないんだよ。大人もガキも、真冬の真夜中でもそこら辺に転がって寝ているんだ。しかも一人じゃねえ。襲われないように、数人単位でな。そしてーー」
ジャックは周囲の細かい路地にまで目を配りながら、運転を続ける。
「少しでもカネを持っていそうな世間知らずが通りかかったら、襲う側にまわるんだ。こんな見たこともねえ高級車なんかに乗ってたら、石でも木でも投げつけるか、それこそ石畳をひっぺ返してでも車を止めて奪いにくるのが普通なのさ。それが、何の動きもないってことはーー」
ジャックは右手でハンドルを握りながら、流れる様な仕草で空いた左手でジャケットのポケットからタバコを取り出すと器用に火をつけ、車内に大きく煙を吐き出した。
「若様よお。どうもこいつは嫌な予感しかしないぜ」
「タバコを消せ、ジャック」
その声に明らかな苛立ちを覚え、こいつも少しは人間らしいところがあるんだなと、ジャックは少し自尊心を取り返せた気がしたのだが、ハワードはすぐに冷静さを取り戻した。
「怖気付いたのか、ジャック?『恐れ知らずの二丁拳銃』の二つ名が泣くぞ」
「だ、誰が怖気付いたんだよ!俺はただーー」
「あそこよ!」
ノーラが指差した先に崩れかけた教会があり、その窓に揺らめく怪しい影が見えた。
「ああもう、畜生!どうなっても知らねえぞ?!」
ジャックはハンドルを勢いよく切り、教会へと突っ込んで行った。車が土ぼこりを巻き上げ急カーブを描く。タイヤの悲鳴が静寂の夜に響き渡り、闇の中へ吸い込まれていった。




