第8話:静かに明ける可能性
雨の翌朝、山岸優香は会社へ向かう電車で小さく息をついた。連日のプロジェクト進行と家庭の両立で頭がごちゃごちゃとしているが、昨夜は珍しくよく眠れた気がする。思えば、息子の健太が腕のケガをしながらも「どうしても道場へ行きたい」と言い出して以降、少しだけモヤモヤしていた心が楽になっているのを感じる。
会社に到着すると、先輩の柴田がデスクを片づけていた。彼はここのところ大きなクライアント案件の修正作業に没頭していたが、この日はどこか晴れやかな表情だ。
「おはようございます。今日はなんだか調子よさそうですね?」
優香が声をかけると、柴田はやや照れくさそうに笑う。
「おう、少し先が見えたんだよ。開発体制を組み直したら意外にスムーズでさ。まあ、気は抜けないが……」
そう言いつつ、彼の目には以前のような暗い影はない。先日の激しい衝突からようやく抜け出せたのかもしれない。
昼休み、社内の休憩スペースに行くと“ドクター高城”の姿があった。相変わらず柔らかな物腰で、社長や御堂らと談笑している。いつも通りミステリアスな雰囲気をまとっているが、これまでの関わりを通じて、優香は“彼がいると不思議と周囲が少し活気づく”と感じるようになっていた。
「山岸さん、ちょうどいいところに。どう、プロジェクトは落ち着きそう?」
高城が目を向けると、周囲の会話がぴたりと止まった。優香は軽く頷く。
「ようやく、ですね。でも、まだ油断はできません。問題が出ないように調整し続けるしかないです」
「それでいい。問題が出ないように“予防”する思考は、実は日常でも大事だからね」
そう言いながら彼は、ふと御堂や柴田のほうに視線を投げる。御堂は相変わらずの派手なジャケット姿で笑っているが、最近は口調も少し落ち着いた気がする。柴田に至っては、朝からずっと快調に仕事を進めているらしい。
午後、優香は用事で外出することに。オフィスを出ると、外の空気は雨が上がったあとの清涼感が漂っていた。タクシーを拾う道すがら、傘を片手に「そういえば健太は病院のリハビリどうだったかな」と考える。昼の休憩中は仕事に追われて連絡できなかったが、先ほど一登から「特に問題はない。本人やる気満々だ」とメッセージが来ていた。
(息子もいよいよ道場に本格復帰か。私の“無力感”はどこへ行ったんだろう。最近はあまり感じないかも……)
知らず知らずのうちに笑みがこぼれる。かつては“忙しさの中で途方に暮れる母親”だったが、クラヴマガに出会い、仕事でも仲間と連携するうちに、自分でも気づかなかったエネルギーが芽生えている気がする。
目的地に着き、取引先との打ち合わせを終えると、外はまた小雨になっていた。夕刻の街で車のヘッドライトが反射し、まばゆい光を描く。優香は少し遠回りをして駅まで歩くことにした。緩やかに続く雨音を聞きながら、思考を整理する。
「“誰かが変わる瞬間”って、いつ訪れるんだろう?」
ふと思い出すのは、高城が掲げる大義や御堂の不思議な投資熱、柴田のくぐり抜けた苦労。そして、健太がケガをしたにもかかわらず道場への意欲を失わなかった姿勢。どの場面を切り取っても、“人が変わるきっかけ”がさまざまに転がっていると気づく。
(そういえば私自身だって、少し前は「時間がない」「無理だ」と思ってた。いまは……確かに毎日バタバタだけど、なぜか疲れ方が違う気がする)
夜、帰宅するとリビングでは健太がソファに座り、誇らしげな笑顔を向ける。
「病院で“回復早いですね”って言われたよ。もう少しで全力で動けるってさ」
「そう。よかったね。あまり無理はしないでね」
「わかってるよ。でも早く道場に行きたくて……自分の弱さを変えたいから」
その言葉に優香は一瞬胸がジンとした。弱さに立ち向かうために、行動を起こす――かつての自分も、あの路上トラブルへの悔しさからクラヴマガを始めたんだった。
「ええ、じゃあ焦らずにね。私も一緒に頑張るし」
軽く肩を叩き合い、ふたりで笑う。部屋の窓から見える空はしっとりした夜気が漂いながら、遠くの街灯が淡くにじんでいる。まるで「明日には晴れるよ」と囁いているようだ。
翌朝、優香は目覚めると予想以上に体が軽く、すぐに仕事モードに入る意欲がわいてきた。蒸し暑い時期のはずだが、心はどこか爽やかだ。思えば大きな案件もようやく収束の見込みが立ち、家庭でも健太が自分の道を見つけようとしている。柴田も御堂も高城も、みんながそれぞれの役割を果たしながら前へ進んでいるように感じる。
「どこで誰が変わるかなんて、本当にわからないな……」
エレベーターでひとり、そう呟くと自然に笑みがこぼれた。まるで雨上がりの空気のように、自分の周囲の空気が澄んできている気がする。このまま日常が続いた先に、また新たな“変化の瞬間”が待っているのだろうか――。
ほんの少しだけ期待を抱きながら、優香は今日も会社の扉を開ける。外の空には一筋の光が差し込み、昨日の小雨が嘘のように晴れ渡る気配がしていた。