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第7話:曲がり角で見えた光

 雨の夜が明け、薄い朝陽が街を照らし始めた水曜日。山岸優香はいつものように会社へ向かう電車の中にいた。心がざわついているのは、ここ数日の出来事が重なっているからだ。

 仕事のプロジェクトで連日仕様変更が続いている。投資家の御堂は鋭い指摘をぶつけ、同僚の柴田は徹夜続きで疲弊が見える。さらに元夫・高瀬一登のほうからも連絡が入り、息子の健太が「体が万全ではないのに道場に通いたがっている」という話。優香自身も、護身術の稽古に足が遠のいていて、体も心もなんとなく鈍っている気がした。


 (何とかしなくちゃいけないのに、どれから手をつけるべきか……)


 会社に着くと、開発担当の柴田が深刻な表情で待っていた。

 「またクライアントから電話だ。新しく追加で実装してくれって要望が来てる」

 「この前、ようやく仕様を固めたはずなのに……」

 優香は思わず頭を抱える。長引く変更に加え、御堂とドクター高城が示唆した“改善案”の作業も山積み。それを思うとげんなりしてしまいそうだ。


 昼過ぎ、何とか第一波の修正を終えると、柴田は放心したようにデスクに突っ伏した。

 「なあ、優香ちゃん……俺、ちょっと限界かもしれない。こんなに仕様が変わるなら最初から計画を組み直したいよ」

 「わかる。でも、今はもう後戻りできないから……」

 優香もため息を吐くが、ふとハッとする。だらだらと細部に振り回され続けるより、一度“決断”して大きく方針を切り替えたほうがいいのではないか――いわゆる“ここで攻めに転じる”イメージだ。

 「柴田さん、逆に割り切って全体を組み直す提案しちゃいませんか? 中途半端に継ぎ足すより、根本を変えたほうが仕上がりが良くなるかもしれない」

 柴田は目を開け、少し考え込む。

 「本気で言ってる? 手間は増えるけど、確かに完成度は上がるかもな……」


 思いがけず口を突いて出た“大胆案”が、頭の中で形を成していく。外から見ればリスクの高い賭けだが、もし成功すれば余分な手戻りを断ち切れるし、御堂にも納得してもらえるはず。自分たちが“守り”に徹するだけでは、いずれ疲弊するだけだ。


 夕方、さっそく上司と社長に提案する。最初は目を丸くされたが、柴田と優香の熱意やロジックを聞くうちに、否定一辺倒ではなくなってきた。

 「このタイミングで? 思いきったことするね……でも、かえってそれが打開策かもしれない」

 社長は険しい表情を保ちながらも、小さく頷く。


 結局、「すぐに御堂と高城にも相談しよう」という話になり、時間を見計らって連絡を入れると、二人とも夜に会議室へやってきた。

 「お、面白そうじゃん。最初に言ってたプランと丸っと変わるなら、投資視点でも再評価が必要だね」

 御堂は相変わらず飄々とした口調だが、どこか嬉しそうに目を細める。一方、ドクター高城は「痛みは大きいが、反撃に出るにはいいタイミングだ」とにこやかだ。


 会議室に集まったメンバーの前で、優香と柴田は新しい方針を説明する。端的に言えば“骨格”を再設計して、仕様変更があっても柔軟に対応できるシステムをつくるプランだ。作業量は増えるが完成後のメリットは大きい。

 ひと通り話し終えると、御堂がうんうんと唸りながらメモ帳にペンを走らせる。

 「投資家の立場から見ても、長い目で見たらこっちのほうがいいね。リリースまでの道のりは茨かもしれないけど」

 高城は静かに柴田を見つめる。

 「怖さはあるだろうけど、攻めに出る価値はあると思う。あなたたちなら、きっと乗り越えられる」

 柴田は思わず苦笑を浮かべた。「言うは易し、だよ……でも、もう腹を括るしかないか。」


 こうして、これまでの守り一辺倒を捨て、全面的な再構築に舵を切ることで一致する。その瞬間、優香の胸にあった停滞感がすっと薄れた。ずっと宙ぶらりんだったものが、少し前進を始めた手応え。仕事は大きく変化に向かって動き出した。


◇◇◇


 夜遅く帰宅した優香は、玄関に暗い気配を感じて足を止めた。リビングの灯りがついており、そこに立っていたのは元夫の一登だった。

 「……どうやって入ったの?」

 「健太が開けてくれたよ。お前、すっかり帰りが遅いんだな」

 そう言って肩をすくめる一登は、どこか険のある顔をしていた。

 「今日、病院に行って一応OKが出たらしい。だからって、あいつ本当に道場に行くつもりなのか?」

 「そうなの? 私には何も聞かされてないけど……」

 優香が驚いていると、健太が部屋の隅から顔を覗かせる。照れくさそうに立ち尽くしていた。

 「病院で診てもらって、もう大丈夫だって……だから少しずつ動きたいって思って……」


 どうやら健太は本気で道場に行く気らしい。完全復帰ではないだろうが、見学や軽い練習なら可能かもしれない。

 一登は不満げに舌打ちする。「俺としては転んで怪我でもされたら困るし、正直気が進まないんだが?」

 「でも、本人のやる気を無下にするのもどうかと思うし……」

 優香は言葉を選びつつ、一登と視線を交わす。もし本当に子どもが護身術を習いたいなら、それ自体は悪くない。むしろ前向きな行動かもしれない。ただ、一登の心配も理解できる。


 リビングの空気が重くなりかけたとき、健太が小さく声を出した。

 「……母さんも、忙しくても練習してるじゃん。僕だって、ちゃんとやりたい。もう子ども扱いしないでよ」

 その言葉に優香はハッとする。自分が始めた“護身術の稽古”を、息子はずっと見ていたのだろう。自分らしく生きたいと願って動き出した母の姿が、息子にどんな影響を与えたのか――考えると胸が熱くなる。

 一登はむっとした表情だが、珍しく何も言わない。きっと彼なりに葛藤があるのだろう。


 優香は静かに息を整え、真剣な面持ちで健太に向き合う。

 「わかった。無理のない範囲でなら、やってみよう。でも必ず体調優先ね? 痛みが出たりしたらすぐやめること。そこは約束して。」

 健太はパッと顔を輝かせ、「うん、わかった!」と力強く頷く。その笑顔は、小さな変化ではあるが、確かに光を放っているように見えた。


 一登は渋々といった様子だが、「俺には関係ないけどな」とそっぽを向きながらも、強く反対はしなかった。

 (この先どうなるかわからないけど、少なくとも健太は大きな一歩を踏み出そうとしてる――)


◇◇◇


 深夜、家族が寝静まったリビングで、優香は一人ソファに腰かけて考え込む。仕事は大きく舵を切った。家庭では息子が新しい挑戦へ進もうとしている。どちらも不安はあるけど、どうしようもない停滞感だけは消えつつある。

 (変化が怖いと思う気持ちも、どこかで期待してる気持ちも、両方ある。だけど、もう進むしかないんだ。)


 この先、仕事はさらにハードになるかもしれないが、やると決めた以上は走りきる。健太の道場のことも、一登との関係も、いずれ整理をつけなければならないだろう。

 不安と期待がないまぜになった胸の奥がざわつく中、優香はスマホを手に取る。久しく行けていない護身術のスタジオのスケジュールを確認する。今週は土曜の午前中に初心者向けクラスがあるらしい。

 「……私も、動かなきゃね。」


 小さな画面を見つめながら、気づけば口元がほのかに笑みを帯びていた。仕事も家族も、自分が動かなければ始まらない。

 “曲がり角で見えた光”――そんな言葉が頭をよぎる。急に思い浮かんだフレーズだが、今の状況にピタリと当てはまるような気がした。


 (大丈夫。乗り越えるしかないし、ここが勝負どころなんだ。)


 ゆっくりと目を閉じ、深い呼吸をする。今夜はしっかり休んで、明日からまた一歩前へ進もう――そう心に決めた時、リビングの窓の向こうに小さな星が光っているのが見えた。今にも消えそうな淡い輝き。それでも優香には、その星がこれから起こる変化を静かに祝福しているように感じられた。

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