第6話:満ちる心、そして一撃
翌週の火曜、朝から生憎の雨だった。山岸優香は駅へ向かう道で少し足を止め、空を見上げる。鈍色の雲が低く垂れ込め、やるせない湿気が肌にまとわりつく。
(なんだか最近、ずっとモヤモヤしてるな……)
そう自問しながら会社へ急ぐ。とはいえ、さまざまなことが同時進行中だ。息子・健太は腕のケガのリハビリ中で元夫・一登が面倒を見てくれているし、会社では新規開発プロジェクトが再調整の段階に入っている。そこへ怪しげな投資家・御堂が加わってきた上、“ドクター”高城が掲げる壮大なビジョン――「強くて美しい日本人を100万人作れば、日本は偉大になる」という話まで舞い込んでいる。
バタバタな日々をなんとか乗り切ろうとする中で、優香の心は微妙に揺れ動いていた。
◇◇◇
午前中の社内は慌ただしい。先輩社員の柴田がクライアントとの打ち合わせ用の資料を片手に、浮かない顔をしている。
「優香ちゃん、今日は夕方に御堂さんがまた来るらしい。プロジェクトのデモを一緒に見たいってさ」
「あの人、投資と称して余計な口出ししてこなければいいんだけど……」
優香は軽く溜息をつく。前回来社したときも派手なノリで周囲をかき乱していった御堂。資金面での助力が大きいのは確かだが、まだ信用しきれない。一方で、ドクター高城が「面白い男だよ」と評価しているのも事実。
午後になり、開発チームのメンバーがデモ環境を整え始める。タブレットやスマホ、PC画面で同時にアプリを動かし、想定されたユーザー体験を再現する予定だ。柴田は技術の要として細かいバグ修正を続け、優香は画面遷移やUIの最終調整をチェックする。
「……よし、とりあえず予定の機能は形になってるはず」
「問題があれば、この場で修正だな」
お互いに頷き合いながらも、薄氷の上を歩いているような緊張感が拭えない。
◇◇◇
そして夕方、御堂が軽快な足取りでやってきた。相変わらずラメ入りのジャケットを羽織り、目立つサングラスを頭に乗せている。
「よう、今日も元気? デモ見せてくれるって聞いたんだけどさ、俺、こういう進捗確認とか好きなんだよなあ」
柴田が苦笑を浮かべ、優香が硬い笑みで迎える。そこへさらにドクター高城まで顔を出した。
「御堂さん、投資家としてではなく、純粋なユーザー目線でも見てもらえると助かるんだけど」
高城は穏やかな口調で御堂に声をかける。御堂はニヤッと笑った。
「了解。ガチに使い勝手が悪かったら遠慮なく言うぜ」
会議室に移動し、プロジェクトメンバーがタブレットとPCを用意する。優香はホワイトボードを使って画面遷移や機能の概要を簡潔に説明する。
「……以上が今回のデモ機能です。実際に触っていただきながら、見てほしいポイントは3つ――」
だが説明を始めた途端、御堂はなぜか腕組みをして眉をひそめた。
「ふーん、ちょっといい? これ、ユーザー登録のフローが長すぎない? 途中でスマホの通信が途切れたらどうなるの?」
予想外の鋭い質問に、優香は少したじろぐ。確かにそこは今後の修正予定ではあるが、開発途中ゆえの仮仕様だ。柴田が口を挟む。
「その点は今後まとめて改修する計画です。今日はあくまで基本機能のデモを優先してまして……」
「でもユーザーが最初に不便を感じるところだろ? それじゃ、立ち上がりでつまずいて離れる可能性あるじゃん」
言い方こそ軽薄だが、言っていることは至極まともだと優香は気づく。
その後も御堂は手際よく画面を操作しながら次々と疑問点を投げかける。言葉の端々に軽妙な調子はあるものの、意外に的を射ている。柴田も認めざるを得ないような不具合や使いにくさを指摘されると、内心で舌を巻くしかない。
(この人、ただの陽気なギャンブル好きじゃなかったのか……? 案外ちゃんと考えてるのね)
やがてデモが一通り終わると、御堂はタブレットを置き、面倒そうに伸びをした。
「正直、まだ洗練されてない感じだけど、アイデア自体は悪くない。頑張って仕上げりゃ面白いものになりそうじゃん?」
そして不意に高城を見る。
「お前もそう思うだろ、ドクター?」
高城はゆっくり頷いた。
「うん、いい方向に進んでると思う。ただ、今言ってくれたような改善点は見逃せないね。優香さん、柴田さん、次のステップに向けたプランはある?」
優香は少し迷ったが、腹をくくったように言葉を継ぐ。
「実は、来週までに最低限のUI修正を行って、新ユーザー登録の導線を見直そうと考えてます。それが完了すれば、ベータ版として一部ユーザーに試してもらう予定で……」
御堂はうなずき、「それならまあ期待できるかな」と呟く。
会議は一応の成果を持って終わった。御堂は最後に「投資対象としてワクワクするかどうか、もう少し見守らせてもらうわ」と言い残し、派手に去っていった。柴田がホッと息をつく。
「やれやれ、見た目はアレだが、言うことは的を射てたな。悪くない」
「ほんとそうですね……。見た目や言動と違って、わりと真面目にチェックしてくれてた」
優香は正直な感想を漏らす。すると高城が小さく笑う。
「御堂は“興味があることには徹底的”というタイプだからね。あなたたちが“強くて美しいもの”を作ろうとしているなら、意外と協力してくれるかもしれない」
「強くて美しい……。あれはモノにも当てはまるんですか?」
優香が思わず尋ねると、高城は“もちろん”と即答した。
「ソフトウェアでもイベントでもプロジェクトでも、本質は同じ。人の役に立ち、かつ洗練された形――それは“美しさ”のひとつだからね。そこに強さがあれば、どんな困難にも負けず人を惹きつけるはずさ」
◇◇◇
夜。優香は帰宅前にジムへ立ち寄ることにした。手短にサンドバッグを打ち込んでから、クラヴマガのクラスを少し覗いてみる。相変わらず吉成インストラクターがキビキビと指導しており、ハッとするほど鋭いパンチやディフェンスの音が響く。
傍らにいたスタッフが優香に声をかけた。
「お疲れさまです。最近、あんまり来られてないみたいですけど、お仕事お忙しいんですか?」
「そうなんですよ。なかなか時間が取れなくて……でも、またちゃんと通い始めたいと思ってます」
スタッフは笑顔で頷く。「いつでも待ってます」と言い残してクラスへ戻っていった。その背中を見送りながら、優香はなぜか胸がじわっと熱くなる。
(私、こんなに疲れているのに、なぜか体を動かしたくなる。もしかして、前より“強さ”を求める気持ちが強くなってるのかも……)
そこへ突然、携帯が鳴った。ディスプレイに映るのは元夫・一登の名。
「もしもし。どうしたの?」
「おい、健太がやたら『道場行っていい?』って言い出してるんだが、ケガが完治してないのに大丈夫なのか?」
「え……健太が……?」
優香は思わずサンドバッグを打つ手を止める。まさか、ケガの回復が終わっていないのにクラヴマガをやりたいと言い出したのだろうか。確かに健太は運動好きだが、まだ無理は禁物だ。
「そう言っても『運動したい』って言い張るんだよ。無茶は困るんで、ママと相談してくれって」
電話の向こうで一登はあくび混じりに言う。
(もしかして、クラヴマガをかじった私に触発された? あるいは高城さんの話でも聞いたのかも……)
頭の中で考えが巡るが、答えは出ない。
「わかった。ちゃんと話してみる。……今夜はもう遅いから大人しく休んで、って言っといて」
通話を切り、しばし呆然とする優香。自分のことだけでも手一杯なのに、息子の急なやる気が重なるとは。けれど、ケガさえきちんとケアすれば運動意欲はいいことだ。
(もしかしたら、“強さ”に憧れてるのかもしれない。私が少し前にクラヴマガを始めて、楽しそうにしてたから……)
胸がざわつく。“変わりたい”と思って行動しているのは、優香だけじゃないのだろう。子どもの成長を間近で感じられる幸せと、一抹の不安が同時に押し寄せる。
◇◇◇
帰り道。薄暗い道を歩きながら、優香はふと空を見上げた。雨は止んでいたが、地面には水溜まりが残っている。
「強くて美しい日本人が100万人……なんて、スケール大きいよね」
ぽつりと呟き、苦笑する。ドクター高城の言葉は大仰だけれど、自分も誰かに影響を与えているように、いつか健太や同僚たちが“強くて美しい”存在になることを想像すると、不思議とワクワクする自分がいる。
仕事のプロジェクトも、不安は尽きない。しかし御堂の鋭い指摘を受けてもくじけず、改良点を見つけられた。まるでサンドバッグ打ちをしているときのように、問題を打ち返しながら少しずつ前へ進める手応えを感じ始めている。
(この先、どんな試練があっても――私は動きを止めたくない。きっとまた誰かが、私自身が、変わる瞬間が来るはず)
家に戻ると、健太はすでにベッドに入って眠っていた。部屋のドアからそっと顔を覗くと、まだ腕に包帯が残るものの、どこか表情が明るい気がする。
「やりたいこと、やれるといいね……」
そう小さく呟いてリビングへ戻る。ソファに腰を下ろすと一日の疲れがどっと襲ってきたが、不思議とネガティブな気持ちは少ない。頭の片隅に、「次はいつ道場に行こう?」という考えが浮かぶ。
“次の一歩を踏み出すとき”は遠くない。雨上がりの夜空には、雲の切れ目からわずかに星が覗いていた。優香はその星を見つめながら、静かに目を閉じる。
――誰かが変わる瞬間。それは、思わぬタイミングで始まるのかもしれない。自分の変化が、息子や周囲にも波紋を広げるなら、こんなに嬉しいことはない。まだ答えはないが、前に進むためのエネルギーだけは確かに満ちつつあるのを感じる。
夜のしじまの中、優香は小さく握った拳をほどき、軽く息を吐いた。深く眠りにつく前の、わずかの静寂。それはまるで、大きく踏み出す前の助走のようにも思えた。