第5話:夜の道場、宣言される大義
夜の道場は、昼間には想像できないほど静まり返っていた。鏡張りの壁に反射する蛍光灯の明かりはどこか冷ややかで、広い床に人影はまばら。その一角に設置された長机と折り畳み椅子が、何やら臨時のミーティングスペースを思わせる。山岸優香は、その光景に目を奪われて足を止めた。
「いらっしゃい、山岸さん」
いつもの穏やかな口調で声をかけたのは“ドクター”高城だ。コンサルタント、護身術ジムの経営者、俳優、企業顧問……肩書きは多岐にわたるが、いまだ正体のつかみどころがない男。だが今宵の彼はさらに得体が知れない雰囲気を漂わせている。近くには、先日会社で出会った“投資家”御堂の派手なラメジャケットがチラつき、そして優香の元夫である高瀬一登の姿までもあった。
「ちょっと、なんであなたまで?」
優香は一登を睨む。だが彼は「高城さんから呼ばれたんだよ」と肩をすくめるばかり。
息子・健太のケガをきっかけに連絡が戻り、図々しく家へ上がり込む一登。優香としては心中穏やかではないが、息子の父親なのだから無下にもできない。
そしてもう一人、ラメジャケットの御堂が鼻歌まじりにジムの器具を触っていた。
「ここ、なかなかオシャレじゃん。いいねぇ、色んなビジネス展開できそうじゃない?」
相変わらず軽薄な調子に優香はうんざりするものの、下手に刺激するのも得策ではないと黙ってやり過ごす。
今夜の集まりは「ちょっとした説明会」と高城が言ったきり、詳しい内容は知らされていなかった。吉成インストラクターをはじめ、道場関係者も数名いるようだが、皆怪訝そうな表情で固まっている。
「山岸さんには悪いけど、ここで少し大事な話をしたくてね」
高城の声はいつになく低く響く。先ほどまで談笑していた吉成や御堂、一登さえも真顔で注目する。静寂が全員を包み込んだ。
「僕はこれまで、さまざまな現場で“強さ”を説いてきました。護身術だけじゃない。ビジネスでも、芸術でも、医療でも、“強い意志”が道を拓く……だけど、強さだけじゃ足りないんです」
ピタリと息を呑む空気。高城は一拍置いて、続ける。
「“美しさ”が必要なんです。誤解を恐れず言えば、見た目の美醜に限らず、品格や立ち居振る舞い、心の在り方を含む“総合的な美”と言っていい。それらを兼ね備えた人が増えなければ、この国は本当の意味で変わらない――そう僕は考えています」
優香はドキリとする。いつもは柔らかい物腰で他人に話を合わせるように見える高城が、ここまで断言口調になるのは珍しい。
「あんたが言う“強くて美しい人”ってのは、要するにどういうことよ?」
半ば茶化すように口を挟んだのは御堂だ。目を細めてニヤリと笑う。高城は表情一つ変えず応じる。
「護身術で言えば、暴力に頼らず自分と周囲を守れる“強さ”。ビジネスで言えば、独りよがりではなく周囲と協調しながらも意志を曲げない“美しさ”。一言で定義しきれるものじゃないけど……僕はこう言っているんだ。“強くて美しい日本人を100万人作れば、日本は偉大になる”ってね」
その言葉が落ちるや否や、場の空気が一段と張り詰める。
「強くて美しい日本人を、100万人……?」
思わず優香が反復する。突拍子もなく壮大なビジョンに聞こえるが、高城の目は本気だった。
「僕はこの道場や各地のジム、企業顧問、そして俳優活動を通じて――色んな立場の人間と出会ってきました。立場や属性が違っても、“強さ”と“美しさ”を兼ね備えた人は共通して周囲を巻き込み、社会に影響を与えている。そんな人が、もし100万人規模で増えていったら……日本は、とてつもない力と魅力を持つ国へ生まれ変わると思うんです」
夢物語とも言えるし、現実離れした理想論にも聞こえる。でも、彼は動じない。まるで“当然そうなるはず”と信じている眼差しだ。周囲が沈黙する中、吉成が口を開く。
「高城さん、そのために私たちインストラクターを各地域に配置して、護身術や心の在り方を教えてきた。でも、100万人って……遠いですよね」
「遠いかもしれない。でも、始めなければ永遠に遠いまま。僕は、少しずつでも手を打つ。あなたたちが築いた輪が、さらに広がっていけば、いつか大きなうねりになる」
遠巻きに聞いていた御堂は、グラスを片手に笑みを深める。
「そいつぁ気狂いじみた壮大な話だな。けど嫌いじゃないぜ。やり方次第じゃ面白そうだ」
「俺には、まだピンと来ないな……」
と呟いたのは、一登だった。久々に対面する元妻・優香と共に過ごす時間も微妙な折、こんな大仰な理想を聞かされても混乱するのも無理はない。
しかし、一登の顔はどこか真剣だった。何より彼もまた“強さ”を求めてきた過去があるのかもしれない――優香はちらりとそんな思いを抱く。
「……強くて美しい人が100万人か。正直、にわかには信じられないけど、そんな未来が来たら確かに世の中は変わりそうね」
優香はつぶやくように言葉を漏らす。護身術を始めてからまだ日も浅いが、自分の内面に少しずつ芽生える変化は感じていた。あの“痛み”や“怖さ”を越えた先で、仕事も、息子との関係も、わずかながら前向きになっている。
もし日本中にそんな変化を自覚する人が増えたらどうなるだろう。想像するだけで奇妙な熱がこみ上げる。
高城はその様子を見つめ、微笑んだ。
「目先の利益を追うだけではなく、理想を語るだけでもなく……“強くて美しい”を体現する生き方を、多くの人に広めたい。僕一人の力じゃ足りないが、周囲が一緒に動いてくれれば必ず形になる。御堂のように資金面で手を貸す人、吉成やインストラクター陣のように教育の現場で動く人、企業顧問として経営を変える人……すべてが繋がるんです」
そして、優香の方へ向き直る。
「あなたもいま、仕事や家族のことで大変かもしれない。でも、そのプロセスの先に“強さ”と“美しさ”が待っていると信じれば、道はきっと拓けるよ。なんなら、僕と一緒に面白いことを始めてもいい。選ぶのはあなた自身だ」
突拍子もない話だと思いつつも、優香の胸は一瞬だけ躍った。まだ自分のことで精一杯なのに、こんな壮大なビジョンに引き込まれてしまいそうになる。
一登も吉成も、そして他の道場関係者も、その場の熱量に飲まれているように見えた。御堂は相変わらずニヤついているが、満更でもなさそうだ。
やがて、高城は空気を切るように手を叩き、一言で締めくくった。
「というわけで、今日の説明会はここまで。みんな色々な事情を抱えてるだろうけど、とりあえず一歩ずつ進んでみよう。僕は常に、最初の痛みを越えて手応えを掴んだ人たちが日本を変えると信じてるから」
◇◇◇
解散後、夜の道場を出ると、空気がひんやりと肌を刺す。優香は妙な昂揚感と混乱が入り交じったまま立ち尽くす。背後から一登が声をかけてきた。
「なあ、あいつの言う“100万人”って、本気なんだな。とんでもない野郎だ」
「……そうね。でも、なんだろう、意外と嫌じゃない話かもしれない」
「はは、そりゃお前らしい。昔からそういう夢物語には弱かったもんな」
一登の少しだけ柔らかい表情に、優香はどこか懐かしさを感じる。家庭が壊れた過去は拭えないが、いまは大切な息子の父親であり、どこか自分に似た“変化の予感”を抱いている人にも見える。
(私たちが、強くて美しくなれるかどうかはわからない。でも――)
道場の光が遠ざかるほどに、あの場所で聞いた“100万人”という言葉が心を離れない。まるで頭上に大きな星が現れたかのように、自分の小さな悩みなんて吹き飛ばされそうだ。
息子のケガ、元夫との再会、御堂が巻き起こす不穏な投資話……問題は山積みのはずなのに、不思議と絶望する気にはなれない。痛みを越えた先で、今まで見えなかった景色が見られるかもしれないから。
――こうして、ひとつの夜が更けていく。高城の言葉は彼女の胸に深く刻まれた。「強くて美しい日本人を100万人作れば、日本は偉大になる」。ほんの数時間前までは荒唐無稽に聞こえただろう目標が、今は妙に心を震わせる。
優香は夜空を見上げ、覚悟を新たにした。誰かが変わる瞬間は、奇しくも壮大な理想に触れた瞬間かもしれない。自分がどう行動するか、それこそがここからの勝負だと思えたから。