第4話:意図せぬ再会、揺さぶられる心
水曜日の夕方。いつものように定時をやや過ぎてから退社した山岸優香は、ふと胸騒ぎを覚えた。理由はわからない。だが、まるで背後から何かに見られているような気配が離れない。駅の改札を出て、マンションのエレベーターに乗り込む。自宅のドアを開ける瞬間、予感は的中した。
「……ただいま」 リビングの灯りがついている。いつもなら中学生の息子・健太が部活で帰りが遅い時間だ。なのにドアの向こうには、ソファに座る男の姿があった。 「よお、久しぶりだな、優香」 低く硬い声が聞こえる。そこにいたのは、優香の元夫である高瀬一登。薄いグレーのジャケットに濃紺のパンツ、洒落た革靴。数年前まで“家族”として暮らしていたはずの男が、突然目の前に現れた。
「え……どうして、あなたが……」 「健太がケガしたって連絡を受けてな。病院で処置したあと、本人が“家に帰る”って言うから付き添ってきたんだ。こっちに引っ越してたんだな」 一登の言葉に耳がキーンと鳴る。健太がケガ? 一体何が起こったのか。焦りを押し殺して部屋の奥へ向かうと、健太がベッドで横になっていた。腕に包帯が巻かれており、痛そうに眉間を寄せている。 「健太、大丈夫なの!?」 「ママ……ごめん、ちょっと転んじゃってさ……」 聞けば、放課後に友達とふざけていて階段から滑り落ち、腕をひねったらしい。骨折とまではいかなかったが、打撲と裂傷があるとかで病院で手当てを受けたとのこと。
健太の口ぶりでは深刻そうではないが、優香の胸は早鐘を打つ。何より、なぜ一登がここにいるのか。彼とは健太が小学校に上がる前に別れたきり、連絡もほとんど取っていない。
「友達がたまたまアイツに連絡したらしくてね。お節介っていうのか、まあ“父親”だし行かなきゃって思っただけさ」 そう言って一登はふっと薄い笑いを見せる。相変わらずの自信家然とした態度に、優香はやり切れない思いがこみ上げる。
息子のケガを確認したあと、ひとまずリビングへ戻り、一登と向き合った。
「そっちの近況はともかく……勝手に入るなんて非常識じゃないの? 健太は部活もあるし、これからも一緒に暮らしていくのは私だってわかってるわよね」
普段はなるべく感情を抑える優香だが、さすがに声が荒くなる。すると、一登は肩をすくめた。
「別にどうこう言う気はない。でも、俺も“父親”だ。健太がケガしたと聞いちゃ黙っていられない。昔は悪かったと思ってるが……少しくらい健太に会う権利があるだろ?」
「あなたが一方的に出て行ったんじゃない。急に現れて“父親面”されても……」
口論が激しくなりそうな雰囲気を感じ、優香は意識的に息を吐き出す。いまは健太が最優先。とりあえずケンカするのは得策ではない。
「まあ、その話は追々ってことにしよう。それより健太だけど、しばらく部活は無理だろうな」 一登が思わせぶりに言う。「俺は時間に融通がきくから、リハビリとか送迎でも手伝えるぜ」と。優香の脳裏に、複雑な思いが錯綜する。“助かる”と思う部分と、“何を今さら”という反発が拮抗する。
◇◇◇
翌日、優香は会社を休もうか迷ったが、プロジェクトの山場ゆえに出社するしかなかった。柴田が意外にもクライアントとの再調整をスムーズに進めつつあり、ここで自分が抜けると混乱が大きい。健太にはしばらく安静にしてもらい、一登が車で病院に連れて行く段取りを組んだ。
「……なんかモヤモヤする」
エレベーターで独り言のように呟く。長年連絡を断っていた元夫が、急に“父親”として健太をケアする構図。頭では“息子のため”とわかりつつも、心は落ち着かない。
社内に入り、会議室で柴田と進捗報告をしていると、廊下のほうがざわついているのが聞こえてきた。
「高城さんが、また妙な人を連れてきたらしい……」
「なんだか派手な格好の男って噂だけど……誰?」
断片的な会話が耳に飛び込む。“派手な格好の男”――まさか、一登じゃないだろうか、と不安がよぎる。いや、さすがに会社にまでは来ないか。
柴田と共に会議室を出ると、まるで噂を裏付けるように、ラメ入りのジャケットを羽織った男がロビーでふんぞり返っているのが見えた。隣にはドクター高城の姿。まさに正反対のコントラストだ。
「こいつはクラウドファンディング関連で俺がアドバイザーしている人なんだ。技術系プロジェクトにも興味があるらしくてね」
高城が社長へ向けてそう説明しているが、その男は終始ニヤニヤ笑っている。
「へぇ、ここがあの面白い会社か。へへ、いいじゃない。俺、こういうの好きなんだよなぁ」
ちょっと怪しげなオーラを放つ男が堂々と社内を見回している。優香が硬直していると、高城が彼女に気づき、柔らかく微笑む。
「山岸さん、ちょうどいい。もしかしたら、この男が今度のプロジェクトに出資するかもしれない。少し話をしてみてくれないか?」
「え、私が……?」
「最新のUIデザインや開発の雰囲気、あなたの言葉で聞かせてやってほしいんだ」
頭の中に「また厄介事!?」という警報が鳴り響く。何かとゴタつくプロジェクトに、さらに謎の投資家(?)まで絡ませる気か。しかも相手はラメジャケットにピアスがギラギラ、胡散臭さ全開。
一方、男のほうは優香をじっと眺め、「へー、あんたが噂の“できる女”か?」などと失礼な物言いをしてくる。思わず「は?」と返してしまいそうになるが、ぐっと呑み込む。
“ドクター高城”に振り回されるのはもう慣れたつもりだったが、さすがに予測不能すぎる展開に胃がキリキリする。昨日からの元夫騒動もあって、心が休まる隙がない。
(息子がケガしてる時にこんな新たな火種が……どうすればいいのよ、もう)
とにかく応対するしかない。慌ただしく通された会議室で、男は自称「投資家の御堂」だと名乗った。アパレル関係やライブイベント運営など、いろんなビジネスに出資しているらしいが、やたらと軽薄なノリで「すげえじゃん」「爆発的に売れそうだな」などと連発。
「あんたらのソフト、クライアントの要求がきついんだって? でもそういうのが面白いんだよな、リスクがあるほどリターンもデカいってやつで」
どこかギャンブルのようにプロジェクトを楽しんでいるかの口ぶりに、優香も柴田も唖然とする。一方で、高城は落ち着いたまま「いいね、その意欲」と受け流している。
(この人たち、一体どんな繋がりがあるの……?)
なんとか打ち合わせっぽいものを終え、御堂は「また来るわ」と言い残して去っていった。バタバタと消えた背中を見送ると、柴田が神妙な面持ちで呟く。
「なんかヤバい匂いがするぞ……あいつ。こっちにメリットがあるならいいけど、妙な案件に巻き込まれないといいが」
優香も溜息を吐き、心のどこかで苛立ちが募る。せっかく案件の道筋が見え始めたのに、また新たな火種が増えた気がしてならない。
◇◇◇
その夜、家に帰るとまたしてもリビングに一登の姿があった。健太はソファでうたた寝をしている。もう何がなんだかわからない。“ドクター高城”の不思議パワーだけでもオーバーフローしそうなのに、元夫との共同生活を余儀なくされるなんて。
「悪いな、勝手に上がらせてもらった。健太が痛がるから、少し様子見てたんだ」
「……ありがとう、でももう帰って。あなたと一緒に暮らすわけじゃないから」
一登はすっと目を細め、低い声で言う。
「ああ。だけど、俺も健太に償いをしたいんだ。父親としてさ……。今の俺を信用できないのはわかるけど、もう少し時間くれないか?」
深夜、ようやく一登が帰ったあと、優香は崩れ落ちるように椅子へ座り込んだ。ケガをした健太、突如現れた“御堂”という投資家、相変わらず掴みどころのない“ドクター高城”。すべてが一気に押し寄せ、頭がぐちゃぐちゃだ。
(……私、護身術を習って、少しは強くなった気でいたけど。実際こんな波乱が連続すると心が折れそう)
しかし、あのスタジオで覚えたパンチの感覚を思い出す。痛みを超えた先にこそ、本当の強さがある――そう、あの人たちは言った。今こそ、その言葉を試されているのかもしれない。
窓の外では星も見えない夜空が広がる。遠くの街灯だけがぼんやりと道を照らしている。まだ解決の糸口は見えない。だけど、ただ逃げるわけにはいかないのだ。
――思いがけず再登場した元夫と、胡散臭い投資家の参入。予想外の嵐が吹き荒れる中、優香の心は再び大きく揺さぶられる。誰もが変わる瞬間を迎えられるなら、それは“予想不可能”な痛みや混乱を乗り越えた先にあるのだろうか。
ここまで来たら、もう腹を括るしかない。優香はぐっと拳を握り、暗い部屋でそっと息を吐いた。何が起きても踏ん張ってみせる――そう自分に言い聞かせながら、長い夜を耐え忍ぶ。
彼女の物語は、もはや“穏やかな日常”から外れ始めている。だが、そこにこそ新たな道が開けるのかもしれない……。